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商業BL漫画『歌舞伎町バッドトリップ 池田とリオ』が僕にとって”うつくしいもの”だった話

 どんなジャンルでも「好き」よりも遥かに上位に存在する『心を揺さぶるうつくしいもの』に出会える瞬間が人生にはある。
 他の誰が何と言おうとも自分にとっては一際強い輝きを放つ"価値あるもの"、"人生観に強く影響を与えるもの"、或いは"出逢いを必然だと感じる運命の作品"――そんな特別な創作や物語たちは誰の心の中にでもあるはずだ。それらは好ましい言葉で飾るだけでは足りない、ただ反芻し、思考を巡らせ、自分の中で愛おしむことによって輝きは増していく。

 先日、ボーイズラブ漫画というジャンルの中で僕は初めてそのような作品と巡り会えた。

 初見時の僕の記憶は酷くおぼろげで、ただ物語が帯びる空気の匂いと冷えた温度を鼻の奥と舌の上に強く感じ取ったこと、何度か頁をめくる指を止めてしまうほどに息をのむ――自我が作品世界に吸い込まれていくような感覚を体験したこと、そして最終話の最後の頁で暫く呆け、その後考えるより先に僕の指が再読を試み始めていたことだけは強く覚えている。この時点で自分の嗜好と感性がこの作品の特性の相性とかみ合っている事実を痛感したし、読書という行為の中でこうした精神的邂逅に恵まれるのは極めて貴重な機会であるとも理解していた。

 何度も何度も読み返した上、シリーズ他作品と紙媒体、店舗別の特典も集めてまで本を耽読し始める事態にまで陥った。要するに、俺はこの作品にガツンとやられて取り憑かれたのだ。

『歌舞伎町バッドトリップ 池田とリオ』
著者:汀えいじ 出版社:リブレ (
敬称略) 

 商業BL界隈でSM新時代を切り開いた超ヒット作『歌舞伎町バッドトリップ』のスピンオフ二作目にあたる。当時の話題性も評価も高かったと記憶している。実際僕も本編の1巻を某電子書籍販売サイトで購入していたらしい。
 つまりシリーズ自体には昔一度触れていた。まさか2024年の秋にスピンオフ作品の方で嗜好と合致してここまで情緒をメタメタにされるとは思わなんだが。

 今回あえてNoteを利用してまとめようと思った理由はいくつかある。この作品と向き合いたいという強い衝動、自分が抱いた感情や気付きを深読みによって言語化し鮮明な形で記録する必要性、そして僕にとって『池田とリオ』とは一体何だったのか、その答えを明確な形として知りたかったからだ。
 これから語る事柄は全て所詮僕個人の勝手な見解と憶測でしかない。ネットでよく見かける構文「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」と考える人も少なからず居るだろう。けれどこの僕の拙い文章が、あなたが『池田とリオ』と初めて、もしくは改めて向き合うきっかけになるのならとても嬉しく思う。

『池田とリオ』は商業BL『歌舞伎町バッドトリップ』シリーズと世界観と登場人物を共有するスピンオフ作品だ。ただし本作が本編の延長上の物語だと説明するのはむしろ誤解を与えてしまうと思う。
 僕からしてみれば『歌舞伎町バッドトリップ 池田とリオ』は本編の対となるべく産み出された作品である。
読み比べれば理解していただけると思うが、話のテンポ、画風、描写による演出、物語上での出来事――共通する要素を複数持ちながら、その在り方が真逆になるような創られ方をしている。僕は必要に応じて本編の話も交えつつ『池田とリオ』の世界に潜るつもりだ。

 前置きが随分長くなってしまったがここから『池田とリオ』を”深読み”して勝手に解釈していく。最後までお付き合いして頂けると嬉しい。


 この先ネタバレを含みます。

□翳りを静かに引き連れて閉じてゆく世界『池田とリオ』――過去を引きずり傷に縋る生き方を隠す、ひとりぼっち同士の物語

↓特設サイト

↓1話試し読み(作者様のXのポストへのリンク)

 『池田とリオ』は本編2巻で初登場したカフェ店員・池田透哉と、部下の友人で何故か池田の下に足繫く通うホスト・リオーー他人には打ち明けられない過去と傷を隠して生きる孤独な若者同士のラブストーリーだ。

 二人への第一印象は本編とスピンオフ、どちらを先に読んだかで全く異なるものになるだろう。本編軸での彼らは『やわらかい雰囲気をまとう真面目で可愛らしいカフェ店員』と『男前で頼れる兄貴分(保護者)的立場の悪友』という役割の下で動くが、本作の序盤においては『上辺においては社会に溶け込んでいるが孤独を抱える、歪さと危うさを垣間見せる主人公』と『飄々としながらも達観した一面も見せる、言動の意図を掴み切れない年上のヒロイン』となっている。
 このような印象を読者に植え付けた上で物語は進行するが、ここから深堀されていく各々の背景は彼らの精神的孤立状態を我々に訴えかけてくる。

 いくら歳を重ねても 勝手にプライベートに踏み込んで来る奴にはどうにも耐性がない
 人と親しくなるのがしんどい
 何故なら人が信じられないから
 誰にも本音を見せたくない
 いつか仇となって返ってくるから
 だから好きになる人が出来るのが嫌なのだ
 俺は 傷つくのが怖い

池田透哉の独白 
『歌舞伎町バッドトリップ 池田とリオ』1話 /汀えいじ    

 学生時代に「アイツ」――告白した相手である当時の親友・佐々木に手酷い形で裏切られ、周囲の好奇の目に晒されるという深いトラウマを植え付けられた池田は、独白で語ったように他者と親しくなることに対して酷く怯えている。
 彼がときどき歌舞伎町を訪れるのは町のどこかで生活しているという佐々木の現状を知りたいがためだ。深夜の歌舞伎町で、職務中は外すピアスを身に付け揺らめくライターの火を通してほの暗い過去の情景を思い出しながら気だるげに煙草を吸う池田の姿は、日中の彼からはまず想像出来ないほどに微かな色気を帯びた陰がある。
 喧騒も鮮やかなネオンの灯も、一緒に飲んだ歌舞伎町の友人達も。周囲から切り離されたところに池田の心は存在する。彼が外界に向けて作る心の壁は厚く、他者を受け付けない。本心を隠し日中は気立ての良い店員さんとして働く池田の二面性は、その落差をより強烈なものとして印象付ける。

 そんな池田の前に度々現れ親しげに声をかけるのがリオだ。池田からリオへの第一印象は“嫌いな奴(=佐々木)によく似た男“と、最悪の心証から始まっている。しかし話が進むにつれ池田はリオの人間的魅力に触れる機会を得て、強く好意を自覚する。
 リオは他者とは共有できない秘密を抱えている。彼も池田と同様に心に深い傷を負った若者だが普段は一切そんな素振りを見せることがない。つかみどころがない一方で現実的思考と落ち着きを見せ、精神的に成熟しているかのように振る舞う。
 恋愛を非合理的なものと評するリオは親しい人々を“家族みたいな存在“だとして接し、常に友人の幸せを願っている。本編の方で深山徹と陽川泉輝がパパラッチの的になった際に徹をサポートする場面があるが、この行動もその一例だ。
 リオにとって“家族“というものは、何よりも特別で価値ある結びつきなのだ。

「もう俺たちは二人で暮らさなきゃいけない 唯一の家族だから」

 悲しみを表に出さないように努力した
 兄が不幸になって消えてしまうことがないように

 家族とは一体何だろう
 いったいどうすれば「家族」という言葉だけで俺たちは繋がっていられるのか

兄と⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎(過去回想)
『歌舞伎町バッドトリップ 池田とリオ』第3話/汀えいじ
 間に挟まる会話・独白一部省略

 リオの心の傷は家庭環境に由来する。両親は金の問題で逃げて蒸発、歳の離れた兄と幼い頃のリオはたった2人で生きていくことを強制された。兄は進学も遊びも全て諦めて幼い弟を育てなければいけなかった。彼にかかる負担の大きさも孤独も理解していた幼少期のリオは、あえて無邪気に振る舞うことで精神的に荒んでいく兄の心に寄り添おうとしていた。
 2人の心が決定的に裂かれてしまったのはとある深夜のことだ。横並びで眠る兄弟だが、兄が背後から幼い弟の服の中に手を忍ばせ直に胸を撫で始めるのだ。その手が下り陰部にまで伸ばされようとしたところで幼いリオはトイレに逃げ込み、拒絶したことによって兄からも見捨てられるかもしれないという恐怖を飲み込みながら涙を拭う。一連の出来事で見せるリオの表情を鑑みるに、性的な意思を持って触れられること自体はこの日に限った話ではなかったと想像できる。
 以降兄が触れてくることはなくなったようだが、リオはこうした過去に深く根付いた不安と恐怖を心に隠した傷=秘密として抱えて生きていくことになる。
 リオは現在軸でも兄との歪な家族関係を継続している。弟を責めながら金をせびりに自宅を訪れる兄の事を誰にも相談せず、大人になった今でも兄から捨てられてひとりぼっちになってしまうことへの恐怖心に縛られたままの姿は、まさに過去に置き去りにされた子供そのものだ。

 このように池田とリオはそれぞれ“自分を歪ませた原因であるかつての恋愛対象“と“唯一の家族”という一種の呪いに囚われ縋りながら生きている。誰にも打ち明けられぬままの傷はかさぶたにもなれず、流れる血をひた隠しながら日常を送っていると言ってもいい。『池田とリオ』編は親しかった他者から植え付けられたトラウマによる脆さや弱さ、或いは歪みを隠して生きざるを得なかった者同士が、不器用ながらも受け入れ合いやがて同一化していく物語なのだ。

 外界との交流とプライバシー、物語の演出の緩急、登場人物の外面と内面、他者と自己の境界ーー『池田とリオ』の魅力を一つだけ述べよと問われたら、僕は外から内側、あるいは光と闇の移ろいにあると答える。二面性という単語はしばしば“落差”や“ギャップ”と言い換えられることが多いが、この作品で表現される二面性については差の大きさや個々の強烈さよりも異なる側面へ移り切り替わる際に現れる暗がりにこそ趣がある。
 だからこそ僕は『池田とリオ』という作品を“翳りを静かに引き連れて閉じてゆく世界”と言い表すのだ。

□池田透哉の主人公性とその瞳が持つ引力

 どの媒体においても物語というものに僕らが触れる上で最初に親しみを覚えるのは主人公だろう。今作の主人公・池田透哉も現代社会を生きる僕らにとって近しいと感じられる人物だ。
 池田は日中は真面目で素朴なカフェマネージャーだが、心の中では過去に植え付けられたトラウマを引き摺っていて他者からの強い干渉を拒絶している。それどころか彼は一緒に飲みをしたという知人の名前すら覚えていない。こうした一面から必要な場合を除いて佐々木以外の人物へ向ける関心の薄さも伝わってくる。

 他者との関わりを希薄なものとしながらも内面には歪な執着を抱える彼の人格形成に深く関わっているのがトラウマの元凶であるかつての同級生・佐々木の存在だ。いわゆる「モテ男」だった佐々木の友人関係においても彼の秘密(喫煙)を知る程度に親しい立場にいた池田は当時佐々木を恋い慕っていた。秘密を共有し誘われるまである関係性に池田は優越感と覚えると同時に「そのポジション」を壊したいという衝動にも度々駆られていた。
 この好意とは最終的に最悪な形で別れを告げることになる。自分の想いを佐々木に告げた後日、他の生徒が大勢いる教室の中で告白をバラされるどころか、佐々木から付き合う条件として残酷な提案を突きつけられるのだ。

 この一連の回想の描き方もとても上手い。コマの推移もそうだが池田の目は読者も心を痛めるほど繊細な変化を持って強調されて描かれる一方で、佐々木の目は一切描かれず得体の知れなさを視覚的に表現している。特に単行本69頁――向かい合う佐々木から両目に指を突き付けられる形で言葉を投げられる池田の二人の画の対比が生み出す力はとても強い。
 佐々木は”彼女と縁を切る”という意味合いで手を鋏の形にしているが、この指の鋏はメタ視点では別の意味合いも含まれている。
 日本語では関係が極めて深いことを「切っても切れない」と表現するが、ここでは特別視されているという池田の期待が佐々木側では全く異なっていたと池田に思い知らせると同時に、佐々木の手酷い仕打ちによって池田の憧れが"切り落とされ"彼の心が急激に冷えて淀みに沈んでいく様を表現する手段として十二分に効果を発揮している。
 佐々木によって踏みにじられたのは憧れだけではない。池田が本来持ち合わせていた"現状を壊そうとする勇気と積極性"もこの日を境に失われ、彼は他者と親しくなることに酷く臆病になってしまう。
 この暗い過去に縫い止められたかのように抜け出せず、現在の佐々木を探す自分の行動の異常性を自嘲しながらも血眼になって夜の歌舞伎町を駆け抜ける池田の姿は、傷に縋って生きざるを得なくなってしまった彼の歪みと危うさを暴力的なまでに痛ましい形で描きあげている。

 池田の目を語るにあたり、本編を読了している人は真っ先に本編からスピンオフで池田のデザインが少し変更されたことに気が付くことと思う。
 本編では彼の眉と綺麗な目がハッキリと見えるように切り分けられていた前髪が、スピンオフではその長さが全体的に均一になり角度次第で目元が隠れるようになっている。
 この微妙な変化が与える効果は大きい。こちらから池田を見つめたとき、その第一印象は童顔のため幼く見えるかわいらしい雰囲気から陰のある年相応の若者の姿に塗り替わるかと思う。

 それなら逆――前髪のデザイン変更がもたらした池田から周囲への作用はどうか。
 生活する上で長い前髪が目を覆った場合、視界が捉える外界の情報量は少なくなる。また「目は口ほどにものをいう」という諺もあるように、目を隠すという行いは自分の感情を周囲から隠す作用がある。
 池田が自分の目元を少しだけ隠すように前髪を伸ばす心理は、普段は社会に溶け込みながらも心の底では自己から他者へ壁を隔て精神的隔絶を生み出すことで身を守ろうとする防衛本能の表れだと考えられる。つまり池田は他者から領域(精神的パーソナルスペース)を侵略されること、そして自己の本当の姿を他者にさらけ出すのを相手に悟られぬ形で明確に拒んでいる。
「心の内側に入り込まれたくない」という心理から考える「目を合わせない」という描写が後々リオの心の内を暴こうとする際に真逆の形で最大限に活かされるのだからかなり面白い。

 池田の瞳は写実的(或いは集中的)に描かれており、特に目が強調されるコマでは読み手の意識をその中心に引き込む力を有している。
 
この描き方は本編と比べても対照的だが(徹や泉輝の目は瞳孔を黒い点で表すという極めてシンプルなものとなっている)、『池田とリオ』内において池田の瞳に強力な引力を感じる理由はむしろリオの目と対照的だからだろう。リオの目は通常黒く塗りつぶされており、親しげに接してくる彼の振る舞いとは裏腹にどこか本質……彼の意図を捉えにくい。
 一方の池田の瞳は作中の人物たちからは少し隠されているが、読者の視点ではその”目”こそが最も強調されて描かれているため彼の感情の動きはとても把握しやすい。だからこそ読者は『池田とリオ』と向き合うとき、物語の世界――内側――と読者の世界――外側――の境界を越えて意識が彼の瞳に”集中”するのである。

『池田とリオ』を読むにあたって何物にも代えがたい手がかりは”目の情報量とその変化”にあるが、もしもあなたが『池田とリオ』を再読する立場にあるのならこの”目から得られる情報量と移ろい”という点で僕が最も注目してほしいのはリオの方だ。このあたりの話はリオの項目で改めて触れるとしよう。

「池田の瞳に吸い込まれる感覚」は作品自体の特徴と重なっていると僕は強く感じている。円形グラデーションを想像してほしい。『池田とリオ』という作品はこの図のように外側から内側へ――黒から白へ集約される感覚とそっくりだと思う。

 本編の主人公・美山徹の場合は彼の目が彼自身から作中世界の他人に作用していたが池田の目の場合、本来舞台に存在しない我々読者側の意識が自然と彼の瞳に集中するようになっている。
 
これは読者側に求められる姿勢が本編とは全く異なるともいえる。SMプレイによって理解し合おうとする主人公たちの姿を第三者視点から眺めて関係性と熱気を楽しむ本編とは打って変わり『池田とリオ』は主人公である池田の心の機微を逐一読者が察知し、彼と一体化してリオを追いかけるスタンスが求められる。
 
ではその機微をどのようにして掴むか。その手段こそ池田の目の描かれ方や視線の動かし方だ。僕たち読者は池田の"目"に導かれて彼の感情とリオの心に近づきたいという積極性に共鳴し追体験する、そして最後には結ばれた彼らを見送って元の現実世界に帰る立場にあるのだ。

 
そういった意味合いも込めて『池田とリオ』は本来別次元に存在する読者の意識を舞台に引きずり込むようにして巻き込んでおきながら、最後には読者を弾き出して彼ら二人だけで閉じていく作品なのだと思う。僕らは親しい友である主人公の瞳から彼の複雑な内面世界と彼の目に映る世界を見出だすし、後から物語を振り返ったときに池田の人物像が作品世界の温度の変化をより鮮明に表現していたんだなと納得するのである。

□リオのヒロイン性と陰翳の移ろいを語る

 リオさんはホストだ。上客からのSMのお誘いを受ければ冷や汗をかきながらやんわり断り、芸能界の団体様が訪れれば営業スマイルでお仕事に励む。

 リオさんは悪友だ。友人の借金返済のお祝い会のためいつもの3人で集まった際に、もう一人の服の下では恋人とのSMプレイの真っ最中だと気が付けば、ライターを無限にカチカチ鳴らして「なーに亀甲縛りされたまま登場してんだよ!!」とキレながら机を拳で叩く。

 リオさんは頼れる皆の兄貴分だ。友人を”家族みたいなもの”と表現し、友の幸せを常に願う。彼の意見は常に現実的だが、友の身に不幸が降り注げば真っ先に駆け付け踏み込みすぎない程度にフォローする。

『歌舞伎町バッドトリップ』本編でのリオは”主人公と最も親しい悪友”という言葉がぴったりだ。目は常に死んでいるが言動に暗さは無く、冷静さを備えたしっかり者。本編の主役だった徹や泉輝、友人のじゅん君、そして池田と比べると精神的に成熟したキャラクターのように映る。
 それは今作でも同様だ。序盤の彼は池田に比べて達観した主義を持ち、面倒見の良さからかとても大人びた印象を池田と読者に与える。
 池田は(単話版では6歳年上の)リオに対し「前から俺をガキみたいに扱う」と腹を立ててはいたが、あの苛立ちは無自覚ながらも既に好意を抱いていたという事実の遠回しな表現だったと思う。今でこそ佐々木を酷く嫌っている池田だが、大前提として佐々木は”手酷く失恋した相手”だ。その男によく似たリオが現れて何故か自分にだけ親しげに接してくる――特別視されていると感じたならば、嫌悪の裏に好意が芽生えていたと言われても納得がいくのではなかろうか。

 それならリオは?どうして池田と親しくなりたがったのだろう?1話で池田の事を”賢明な子”で”まっすぐな人”と評してはいるが、作中で明確な理由は説明されていない。しかしリオの台詞を2つ拾い上げれば、リオから池田への好感度は第一印象の段階から相当高かったのではないかと推察することは可能である。

「俺はね 友達にはいつも幸せで元気でいてほしいの
 だからあいつらが不安そうになってると気になるんだよね
 俺は君にも幸せでいてほしい
 何かや誰かに心をすり減らしたりしませんようにって思ってる」

リオ
『歌舞伎町バッドトリップ 池田とリオ』第2話/汀えいじ

 父が消えた 続いて母もすぐ消えた
 兄の話によるとお金の問題とか…
 重なる不幸に耐えられず逃げたのだと言った
(略)
 悲しみを表に出さないように努力した
 兄が不幸になって消えてしまうことがないように

⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎(過去回想)
『歌舞伎町バッドトリップ 池田とリオ』第3話/汀えいじ
(会話・台詞一部省略)

 そもそも池田とリオの人生が交差するきっかけとなったのは本編主人公・美山徹だ。ホストを辞めて歌舞伎町を飛び出した徹の求職活動が難航する中でやっと見つけた雇い主が池田なのだが、いわば徹にとっては上司である以上に恩人だ。この出来事は部外者であるリオにも好感を与えたと思われる。2人が出会う前の段階からリオにとっての池田は”家族のような存在でもある徹をすくいあげてくれた人”になるはずなのだ。

 こうしたリオの「友人には幸せでいてほしい」という願いは家族が不幸によって目の前から蒸発したという経験の反動に由来すると容易に想像がつく。加えてリオは不幸によって親しい他人が自分の世界から消え去ってしまうことを強く恐れている一方で、リオ本人には自分が限界を迎えると消息不明になるという失踪癖がある。本来の甘えたがりな性格を考えると、この矛盾した性行は少年時代に"他者に感情を明かし寄りかかる権利"を喪失するという人格形成上で起きたエラーの重大さを象徴していると思われる。
 何故か度々こちらへ接近を試み、あるときは主人公の心に光を射し込むミステリアスな存在が、その後の展開で自らの意志で主人公の前から姿を消す――物語上の行動から僕はリオのヒロイン性の高さを見出している。池田の項目で「読者は意識を池田と一体化させてリオを追いかける」と主張したのはこの点にあるのだ。ああ、リオさんマジヒロイン。

 リオが己の弱さを“見せない”“隠す”というと少々語弊があるというか、どうしても言葉足らずに感じてしまう。僕からしてみれば弱さを曝け出してしまうことでここまで堪えてきた心が決壊し、その結果自分が抱える傷の深刻さと現在進行形で流す血の存在を痛感する事態を避けている――いわば自覚的な防衛機制という言葉がしっくり来る。
 リオの外面から内面に焦点があてられる瞬間、すなわち陰翳の移ろいを描くことで、緻密で複雑な個性を形成しより現実味を加えているのだと思う。人の翳りの背景には光と闇が必ず存在し、コントラストは美を引き連れてくる。リオは美人属性という言葉が似合うが、その理由は端麗とした容姿だけでなく彼のそうした翳りと儚さにこそ存在すると思う。そんなリオさんの幼女味溢れる言動が見たい人は店舗別特典……集めよう!

 池田に関する項目で僕は「『池田とリオ』を読むにあたって何物にも代えがたい手がかりは”目の情報量とその変化”にある」と述べたが、この移ろいはリオにこそ注目してほしいと主張した。初見では僕らの意識は池田の瞳に引き込まれるためリオの目に映り込む光の加減の小さな変化にはなかなか気付きにくい。だからこそリオが抱える事情を把握した2周目以降でこそ1コマ1コマで彼の目がどのように描写されているかに注目してほしいのだ。
 普段は黒ベタで塗りつぶされる形で描かれているリオの目にくっきりとハイライトが入る場面では読者も直感的に彼の心境を把握できる。しかし肝心のそのタイミングと前後のコマとの関係、つまりは光の有無が切り替わる瞬間という時間的概念と繊細な心の移ろいには初見では意識が向きにくい。

 例えば第1話の早朝に池田と出くわして喜びを露にする場面だとか、兄との口論後にひとり自室で映画を流しながら目を伏せる最中に部屋の扉が開くのに気付く場面だとか、兄へ決別を告げ「とうとう一人になった」と隠せないほどの動揺を池田に見せた後の、雪が降りしきる深夜に己を待ち受ける彼の姿を視界に捉えた直後のコマだとか――ここでは上げきれないほど数多くの場面でリオの瞳はつかみどころが無いはずの彼の感情の推移を豊かに表現している。

 瞳のハイライトの有無はリオの内なる子供が表に顔を覗かせる際にも活用されている。第1話の夜の繁華街で池田が逃げる場面では、池田を見つけて声をかけるときも、立ち去る池田の背中に視線を送るときにも、瞳にはくっきりと大きなハイライトが描かれている。そして池田を追いかけ必死で呼び止める彼の瞳からは光が消え、傷付いた心を誤魔化すように笑みを浮かべようとしている。相手の機嫌を伺う幼子のように。
 もうひとつ、顕著にこの傾向が表れるのが兄と関わる場面だろう。過去の夢からの意識の浮上と流れた涙、口論する兄が去らぬよう手首を掴んで止める場面での幼い表情などがその例だ。兄と接するリオの面貌は実年齢よりも遥かに幼く描かれている。

 更に僕が感動した表現方法のひとつに「リオの目の漆黒の描写の方法を特定の状況では変えている」という点がある。リオの黒い目を一色のベタのみの漆黒で表しているか、それとも漆黒に限りなく近いトーンによって表現しているか、或いは斜線の集合体なのかという細やかな違いだ。正直「してやられた」と思った。この作者、人物の感情とその移ろいを画に落とし込むのが上手すぎる……。
 リオは最終話で向かい合う形で兄から罵られるのだが、開かぬように体で塞いだ背後の扉、室内からの池田の怒りの声に背中を押される形で兄へ決別を告げる。喪失への恐怖で青ざめる中決意するように強く瞑った目を、次の頁では静かに開かせる。目元に影が落ちているからこそ強烈に効果を発揮する、このたった3コマの過程で瞳に宿る光の量の――リオが初めて自分の意思で前に進むに至る心の移ろいを、黒に近いトーンを使用することで奥ゆかしくも巧みに描いているのだ。いつか『池田とリオ』を読む機会があったなら注視してほしいポイントの一つでもある。

 このようにリオの瞳は”目に映り込むハイライト”と”漆黒の目を描写する方法”、そしてそれらが目に見える形で現れる瞬間――一瞬一瞬の瞳の情報量とその状況という2つの内外的な要素によってリオの真の人物像のヒントを読者に明確に伝えている。あなたの手元に『池田とリオ』があるのなら、美術品を鑑賞するような姿勢でリオの瞳の描写と移ろいを追いかけてほしい。そうすることでより一層リオという一人の人間に対する理解や見解を深めることが可能になると僕は考える。

 僕にとってリオさんは自分の中で心に残るヒロインとしても最上位に入るほど魅力的だ。どの心証を選びどのように伝えれば他者に届くのか、言語化が一番難しいと感じるほどだった。正直のところまだまだ語り足りていないほどに僕が感じたリオさんの魅力は多いし、四苦八苦しながら綴ったこの文章すら正解からほど遠いと力不足を痛感している。

なので僕は自我をさらけ出して一番好きなリオさんを語ることによってリオさん単体の項目を締めくくろうと思う。ええ……。

 この記事の序盤で僕は「最終話の最後の頁で暫く呆けた」と語った。そう、僕が一番好きなリオさんのコマはあの一番最後、シーツをヴェールのように頭から被り向かい合う池田に最高の台詞を告げる場面だ。頁を初見で開いたとき、俺は自分の中の時の流れが止まった。リオさんが浮かべる表情から目を離せず、まるで魂を抜き取られたかのようにぼうっとしていた。今になってようやくあの時の感情を理解している、ああ、俺リオさんに惚れちゃったんだなって。

あの面差しと口説き文句を最高の形で描き切ってくれた作者様に深く感謝している。このコマによって俺は作品に半月も取り憑かれてしまったのだから。
 池田に向ける表情――恥じらいのような、幸福をかみしめるような、妖艶に誘うような、純真無垢な幼子のような――あの瞬間に至るまでリオさんはとても長い時間を、孤独の中を歩んできた。職種もあって沢山の人と関わり親友も出来る中、誰にも明かせぬ秘密を抱え、内側に触れられれば決壊する脆さを隠し、ひきつった笑顔を浮かべながら静かに涙を流してしまうほどの苦しみを心の奥底に封じて、公的生活においては自分は何も問題ないと大人びたふりをする。重い枷を引き摺る足の裏から流れる血が深雪に赤い跡を残すような、痛みと磨耗に見て見ぬふりをせざるを得なかった生だったと思う。

 子供のままごとのような結婚式だ。本編で泉輝が徹に用意した指輪のような明確な証もない。もし姓を変えてみたらという話題にも形は無く過ぎれば消え去っていくただの音に過ぎない。けれど苦みに満ちた人生の先でようやく得た「そばにいてくれる」誰かに向ける熱のこもった眼差しに、池田に告げる誓いの言葉に――あの花嫁のようなリオの姿にこそ俺は時の経過の重みと神聖な美をみたのだと思う。

□映画が作中で果たす役割と『タイタニック』

 リオの趣味は映画鑑賞だ。
 狭いアパートの一室で明かりを消してただひとりきりでお気に入りの映画を流す――その行為をリオはただの習慣だというが、メタ視点ではこの習慣こそが彼の執着を物語っている。

 リオの部屋は兄から譲り受けた映画のDVDが大量にあり、リオはその中から選んだ『タイタニック』を再生し続ける。この情景がプライベート面でのリオの日常ならば、今でこそ映画鑑賞が趣味になってはいるがそのきっかけは彼を置いて去った兄が残したDVDだったことは想像に難くない。リオはアパートの自室にひとり籠る間はずっと間接的に兄の存在を感じるものに縋ってきたとも言える。

「家族」。言葉というものはとてもふわっとしていて形がない、単なる音の羅列に意味を付属させたものに過ぎない。そんな不明瞭なものの意義と成り立つ条件をリオは掴めずにいるが、それでも「家族」を最重要視する。同時に「家族」という言葉に縛られ疲弊しきっている。「唯一の家族」である兄との関係に名付けられたその言葉の意義が分からなくなってしまうほど、幼少期から成人期にかけて剥がれ落ちていくように心がすり減ったのかもしれない。

『池田とリオ』を語る上で欠かせない要素である”映画”が果たす重要な役割――この”映画”こそがリオが兄との「家族」としての繋がりを感じるための唯一の手段だったのではないかと僕は思う。

 作中で池田がリオに初めて想いを告げる場面がある。池田の胸元にリオが額を摺り寄せながら「もし俺のこともう好きじゃなくなっても俺のそばにずっといてくれる?」と問いかけるのだが、過去回想と直前の兄弟間の口論によってこのような悲しい言葉がリオの口から放たれた経緯は兄にあると読者は予測できる。
 リオは恐らく……たとえ嫌われていたとしても、兄がずっと傍に居てくれることを望んでいたのではないだろうか。兄との歪な兄弟関係を現在に置きながら、かつて兄が集めていた映画を取り出して繰り返し再生するその空間は、まるで昔の美しい思い出に留まりたいと願うような、あるいは”映画”に「唯一の家族」である兄との繋がりとは一体何なのかという疑問の答えを求めて過去に停止しようとするような――暗く沈んだ一面の闇にぽっかりと空けられた穴のように感じられる。

 リオが一番好きだという『タイタニック』も作品の垣根を超えて僕たちに大きな存在感を示している。この作品は実際に起きた”タイタニック号沈没事故”を題材に、地位も境遇も異なる主人公とヒロイン、ジャックとローズのラブストーリーを描いたロマンス映画だ。
 池田の台詞から二人が初めてまぐわう裏でミュート状態で映像が流されていたと判明するが、ここからリオが直前に流していた映画の場面から考えると「池田がリオに口づけをし、初めて体を重ねる」タイミングと「ジャックとローズが船頭で深く口付けを交わし、ヌードデッサンを経て情を交わす」場面がちょうど重なるのが分かる。こうした視点から物語を照らし合わせるのも一つの面白みだと僕は考えている。

 そして情事後、流しっぱなしの映像に目を向けながらリオは池田に告げる台詞はリオの本心を理解するにあたって最も重要な場面のひとつだろう。

「俺は最後の場面が好き
 寒い海で死にかけている男と救命ボートに乗った女が出てくる場面
 死を目前にした男が笑ってるじゃん 恋人を安心させようと
 それほど愛しているのに一晩だけなんて切ない
 まあ…そんな人に出会えただけで幸せなのかもね」

リオ
『歌舞伎町バッドトリップ』第4話 / 汀えいじ 

 テレビの画面から放たれる光をその目に映しながら淡々と口にするリオの心境はどのようなものだったのだろう。精神的に弱ったところに現れた池田に体を許したが、リオの性格からすると池田との性交も所詮一晩限りの儚いものだと考えていたのかもしれない。そんなリオの孤独を感じ取った池田が手を伸ばし、まるで求婚するかように彼の人差し指をそっと掴むのがまたニクい。

 次に語る要素は突飛な憶測でしかないが、これも面白い共通点かもしれないと感じたので書き残すことにする。与太話のような感覚で目を通してほしい。
『タイタニック』に登場するキーアイテム・”ハートオブオーシャン”。”碧洋のハート”とも呼ばれるそれはローズが婚約者から渡されたネックレスだ。この”碧洋のハート”が作中で果たす役割は婚約者からの支配の体現であり、ジャックとの結びつきの形ある証明だ。映画終盤で晩年のローズは船頭から”碧洋のハート”を海に捨て、夢の中で若返る形でタイタニック号の乗客に拍手で迎えられながらジャックと再会する。
 『池田とリオ』にはリオが部屋にある映画のDVDを整理し捨てる場面がある。また映画鑑賞という趣味自体はそのままに、そのメディアをDVDから配信に移行する、映画鑑賞より池田とのデートが楽しいと質疑応答で答えるなど、兄から譲り受けたDVDを捨てて以降のリオは池田と共に人生を歩んでいる。加えて池田相手にのみ当時は不可能だった甘える子供のような自分を見せる姿は、タイタニック号に置き去りにした幸福を若返った姿で獲得するローズと重なって見えないだろうか。リオにとって映画とは兄からの精神的支配の象徴であり、池田と心を通わせるのに重要な役割を果たしたキーアイテムだ。この構図はローズと婚約者とジャックを繋げる”碧洋のハート”と少し似ていると僕は感じた。

 他にも池田とリオはそれぞれジャックとローズを意識して個性付けされたのではないかと考えられる要素があるが、細かな点は実際にそれぞれの作品に触れることで考察してほしい。最も分かりやすい形で共通していると感じた場面については後の項目で触れようと思う。 
 僕は『池田とリオ』を読了後、数年ぶりに『タイタニック』を鑑賞した。通して観ると二作の共通点、もしくはあえて重なるようにしたのではと思う要素がそれなりにあった気がする。『池田とリオ』を読んだ後には是非『タイタニック』を3時間15分ぶっ通しで観て欲しい。2024年10月現在プライムビデオで会員特典で配信中!


 "暗く狭い室内で映画鑑賞する"という行いがもたらす影響は作品世界のみに限った話ではない。作品の外側、つまり僕たちの五感にも自然と何かを訴えかけてくる力を有している。
 作中で度々映画鑑賞の場面が流れるからか、それともこの作品が漫画という媒体の中で様々な要素の緩急を巧みに表現できているからこそなのか――画と台詞、コマによる場面転換、そして登場人物の心情の移ろいの細やかさに、僕は『映画のような恋』という映像的な美を感じ取っている。それは現代で流れる色鮮やかで有音の映像ではない。『池田とリオ』はまるで漫画という手段を用いたサイレント映画のような画面構成に感じられるのだ。

 ここで少しだけこの世に映画が誕生したきっかけの話を挟むことにしよう。映画技術とはそもそも写真技術を元にして生まれたものだ。当時の人々は連続して撮影された写真を繋げることで映像化するという着想を得た。初期の映画の多くは無声のもので、映像と映像の間に随所で文章を挿入することによって状況や登場人物の台詞を説明していた。

 この無声映画の特性と漫画、特にこの『池田とリオ』における画の推移は非常に似ている。そして僕は……何を血迷ったか……PCに繋げた超高画素ディスプレイで電子書籍版の縦読みモードを拡大表示しそれを下る形で読んでいくという奇行にまで走った……。恐らく僕の一生の中で唯一の経験になると思います。

 リオがひとりで、あるいは部屋に招き入れた池田と並んで映画を鑑賞する場面が随所に挟まる。液晶を通して映画の世界に潜る彼らのその営みを、読者は紙で、又はスマホの液晶やモニター越しに眺める。何とも奇妙な感覚ではないか。恋愛映画を鑑賞することによって心を近づけていく池田とリオのラブストーリーを、僕らは無音のモノクロ漫画という伝達手段を通して映画のように鑑賞しているのだ。

□支配と依存の話と受容の行く末にある同一化

『歌舞伎町バッドトリップ』の第一作目、つまり本編では“SM“、“BDSM”が物語の主軸に置かれている。BDSM。この単語は人間の性的な嗜好の中で嗜虐的性向をひとまとめにして表現したものだ。本編においてはこれに加えて、D/s……Dominannt/Submissive(支配/従属)も重要な要素に含まれるだろう。
 SMをベースに全体的にエロティックだった本編と比べると『池田とリオ』は一般向けの作品だ。この一点こそが本編ファンからの『池田とリオ』の評価が厳しい理由だと思われる。逆に言えば本編の表紙を見て「刺激が強そう」と躊躇っている方は『池田とリオ』から触れてみてもいい。同じシリーズ名を冠してはいるが、恐らく刺さる層は本編と『池田とリオ』では対極に位置するだろうから。
 それならば、『池田とリオ』はSM、支配と従属とは全く無縁の作品なのか?この問いに対しては僕だったら「性描写の面では全くSMじゃないけど、多分精神面では意識自体はしてるんじゃね?」と答えると思う。

 従属は被支配と言い換えてもいい。支配・被支配、主導権、ヒエラルキーーーこのような関係性は性的嗜好のみに限ったものではない。常に自分とそれ以外、或いは自我と異なる自己も含むだろう、ともかく他者の存在を必要とする上、どのような繋がりにも付きまとう概念だ。ただしこれも大きく二つに分類されるーー支配者が被支配者を押さえつける形、一種の洗脳・弾圧……“一方的な依存“であるか、それとも両者共に互いを求める“共依存“であるかだ。

 池田とリオもそうした支配・被支配の話からは逃れられていない。共通する要素として2人はそれぞれ佐々木・兄という傷の元凶によって精神面において長期的支配下にあったといえる。では池田個人、リオ個人はどうだろうか。

 佐々木への尋常ならざる執着心、夢に現れたリオを組み敷き見下ろす際の興奮と嫌悪が入り混じった瞳、リオが知られざる一面を見せる相手(兄)が存在する事実に対する嫉妬、性行為の際に絶頂するリオを見つめて”俺のもの”だと恍惚する姿――作中の描写から池田の潜在意識には確かに強い支配欲の種が埋まっていると捉えることが出来る。『歌舞伎町バッドトリップ』本編はSMをテーマにした話で陽山泉輝もSの性癖を所有していたが、池田はその領域を自覚する一歩手前に居ると考えられる。

 リオはどうか。支配・被支配というのは依存から派生する一つの在り方であるが、彼は家庭環境が人格形成に多大な影響を及ぼした結果の依存体質だが、そうした内なる子供を奥底に隠して自分を律している、つまりは自己の内心を理性が支配しているとも言える。けれどリオの依存体質は決して爛れたものではない。兄相手では怯えが目立つが、彼を語る上での本質は、幼少期・少年時代に失われた「他者に甘えられる特権」の再獲得と純真に満たされた幼気さだ。これは池田に甘えるときにのみ顕著に現れる。
 リオは本編も含めて上客からのSMプレイの誘いを流すシーンが度々挿入されていたが、孤独と依存体質を内に押し殺す彼の人物像を踏まえると、SMが持つ支配・被支配、いわば共依存的感覚を本能的に避けていたのではないかとすら考えられる。

 性行為はよく”ひとつになる”と表現されるが、あれも相手を受容する/させるのに明確な手段・証明であると同時に支配と被支配の縮図だ。本編の泉輝と徹はSMという”プレイ”を”手段”に用いることで互いに理解と接近を図り、自己の世界を相手の世界まで広げた。あちらは他者を受容した結果一組みに、所謂”番いになった”という表現がよく似合う。

 それでは『池田とリオ』は一体何が違うというのか。”番”、”組になる"……確かに意味は通じる。あらすじにも書いてある通りこの作品はひとりぼっち同士が恋を知るまでの物語なのだから。けれど僕の視点から映る『池田とリオ』は”受容による同一化”という言葉の方がイメージにぴったり嵌っている。

 この同一化という概念が『池田とリオ』で最も重要な意味合いを持つといえる確とした根拠がある。それは物語終盤、池田が「家族」の一つの形として「夫婦」を例に挙げ、そして「姓を揃える」という話にまで発展する場面だ。姓の変更はその人が所属する枠組みが変わることを明確に示すが、真っ先に思い及ぶ事柄は「結婚」だろう。この「姓を揃える」話が『池田とリオ』で果たした役割にはこれ以上に二つの大きな意味があったと僕は考えている。

 ひとつは『タイタニック』の終盤、ローズが救出され船員に名前を聞かれる場面との照らし合わせだ。彼女は死別したジャックの姓を名乗ることで彼に精神的な操を立てている。そして”碧洋のハート”がジャックとの思い出を証明するための形あるものならば、姓を同一のものとするこの行いは無形的な証であり彼女はジャックの存在を内に”受容”したとも言い換えられる。後のローズは生前のジャックが出会う人々をスケッチに残して各地を転々としたように、自分の写真を数多く撮影し、各地へ旅する際にそれらを持ち歩いている。形は違うが、ローズはジャックとある種の同一化を果たしているのだ。
 池田もリオも同性だ。日本の憲法では未だに戸籍の性別が同じ二人の婚姻届の受理は認められていない。その上で彼らは恋を知り、相手の部屋の合い鍵を所持して、リオは映画、池田はエスプレッソマシンをと互いの要素を持ち寄り共有しながら暮らしている。物語終盤のこの会話は表層上では精神的操立てと共同生活の意味合いが強く表れていると分かるだろう。

 そしてもう一つ、僕がこの物語の根幹を「同一化」であるとして締めくくる大きな理由がある。それこそ彼らの名前の話だ。池田の下の名は「透哉」、リオの本名の下の名も「トウヤ」――彼らは音の面では同じ名を有している。つまりこの二人が契りを交わして姓を統一するとどちらの名字に合わせたとしてもフルネームの音は完全に一致したものになると分かる。
 名前とは個々を認識・特定するための記号であると共にとても強力な存在証明だ。自他との区別、明確な境界線と言ってもいい。何より人間社会に置いて他者を認識する際に最も使う手段は名前――つまりは音の響きだろう。同姓同名の相手の場合、音だけだと僕らが認識するにあたって二者の境界が曖昧になり、個々を識別するのに一層困惑するはずだ。
 だからこそ池田透哉とリオが姓を合わせる行為には婚儀以上に大きな意味がある。彼らは物理的・精神的な接近だけでなく、己の存在を示す象徴すら重ね合わせる――つまりは同一化を果たすのだ。
「もしも」の話だとしても、物語を締めくくる最後の会話にこの話題が選ばれ、そして最後の頁の画に至る。それはこれ以上ないほど美しい幕引きではないだろうか。

□『池田とリオ』がぼくにとってうつくしいものだった話

 他者に寄り添い、抱えた傷なり荷物なりを理解して受け入れようとする。あるいはその心の救世主となるーー本編や他スピンオフ『恋は災難』を今一度振り返ると『歌舞伎町バッドトリップ』シリーズの共通したスタンスは精神的抱擁と救済にあったように思える。

『歌舞伎町バッドトリップ』では泉輝の特殊性癖に徹が適応することで心が通じる本当の恋人となり、彼らを中心にして広がっていく世界とそこで生きる人々の熱気を、僕は現実世界から俯瞰した。

『恋は災難』では"優しい人"の意義に苦しむ拓海の心にじゅん君という光が射し、その光を猪突猛進に直線上に追いかける拓海の始まりを、僕はその場に居合わせた通行人のように第三者として見届けた。

 他2作においての僕の立ち位置はただの読み手にすぎず、作品とそこに生きる人々を外界から覗き込んで楽しむ――彼らの物語に娯楽を見出すだけの傍観者に過ぎなかった。

 ならば俺にとっての『池田とリオ』は?何故俺はこの一冊の本にここまで心惹かれた?どうしてただの傍観者に収まらず、彼らを深く理解したいと強く願ったのだろう。

 価値観というものは人生経験によって築かれる。何に重きを置くか、どのような信念を抱くか、どのようにして生きるのかーー人格形成とそれによって練り上げられる感情、本能。そうした漠然とした概念によって僕らは自我を左右される。

 恐らく僕が『池田とリオ』から最初に得たのは“共感”という直感と肌を撫でる寒風だった。その次は彼らの纏う匂いに親しみと寂しさという相反する感情を、これらを乗り越えた先でようやく思考が追い付いた。
 僕にとっての池田とリオはキャラクターという枠組みを超えた”生きた人間”だった。ふたりに限った話ではない。厳密にいえばリオの兄や佐々木もだ。どうしても彼らの存在を作りものだとは思えなかった。僕が情報として受け取った彼らはあまりにも現実味を帯びすぎていた。

 ”匂い”が人間にもたらす効果は想像以上に多いという。特定の記憶や感情を蘇らせるプルースト効果、最近では仮想空間にリアルさを再現するために嗅覚を刺激する研究も進められているらしい。現実的に考えれば僕が作品から感じ取った匂いなぞというものは所詮過去の記憶から再生されたまやかしに過ぎないが、駆け抜けてゆくあの体験が作中世界をより空間たらしめたのだという事実こそ僕にとっての現実なのだから仕方がない。

 池田は「リオが頼れる家族のような存在」になろうと決意した。夫婦と姓の話で可笑しそうに笑いながらリオは誓いの言葉を口にした。あの閉じたアパートの一室、ふたりしか存在しないごっこ遊びのような婚儀で。この本で描かれた物語の大方はここで終わる。日常においては人と関わる職種に就いて社会生活を送っている二人だが、その素顔は過去の傷から抜け出せずにいる孤独な人だ。そんな彼らが偶然出会い、あの狭い空間で肩を並べて心内を打ち解け、薄暗くして映画鑑賞の時間を共有するという行為に、僕は室内という内側に集まって外部に存在する他者の目や喧騒から逃れる……とても静かに揺らめく低い温度、いわば空間を淡く照らす灯しと微かな温もりを感じ取っている。

 どこか懐かしい匂いと身に沁みる冷たい熱、頻る雪がその身を崩しながら落ちるときの静かな音、目に映る美しい陰翳。作品に抱擁されるような、突き放されるような矛盾した感覚。鋭い痛みと強い眩暈。このような貴重な読書体験を僕の下に運んでくれたのは作者・汀えいじ先生の筆力だ。
 年月の経過が画風の変化をもたらしたのかもしれないが、本編よりも強い筆圧で引かれた線、白と黒の諧調、画の見せ方、キャラクターの移ろい……先生が描いたあの世界に少なくとも俺は取り憑かれた。先生と『池田とリオ』に深く感謝している。今の自分にこそ必要な作品であったし、人生のこのタイミングでこの作品に出会えたのは必然だったとすら感じる。

 何処まで突き詰めても僕にとっての『池田とリオ』は翳りを静かに引き連れて閉じてゆく世界だった。何物にも代えがたい、誰にもけがされたくないうつくしいものだった。

 叶うならばいつか『池田とリオ』の続きが描かれることを強く願っている。

□おわりに

 あなたにひとつ聞いてみたいことがある。
 街路を歩くとき、店の中で食事をするとき、あるいはどこかから遠くを見つめるとき――その視界に入る人々や建物の一室から“他者の存在”を強烈に感じ取る瞬間をあなたは経験したことがあるだろうか。そのときあなたが真っ先に覚える感覚は自我が世界に許容されているという一体感だろうか、それともどうやっても目の前に映る全てから自我が遠ざかっていく疎外感だろうか。もしくは他者に脅かされて自分が傷つくかもしれないという恐怖と危惧だろうか?

 賑わいにも静寂にも確かに生きる人々ひとりひとりの声が存在し、その背後には確かに個々人の事情や生活がある。赤の他人に限った話ではなく身近にいる友人や家族も同じだ。思想も価値観も真に同一の他者など存在せず、生活を継続する上で軋轢や摩擦、見えない壁や孤独は切っても切り離せない。一人一人に心の領域が存在するし侵害を恐れたとしても誰とも深く関わらずに生きることは不可能に等しい。

 親しくなるという行いは己の内への侵略を許すことに他ならず、常に干渉に怯えながら探り合うようにして生きねばならない。しかし同時に本能は傍に居てくれる誰かというものをどうしようもなく欲していて、いつか誰かが好ましい形で心の内に入り込んでくることを無意識下に望んでいる――
 このような拗れた主義を抱えながら僕は生きているが『池田とリオ』もまた似たようなお話だったような気がするし、少なくとも僕にひとつの答えを見せてくれた。

 眠らない町・歌舞伎町。喧騒と色鮮やかな光、行き交う人の群れ――華やかさとは裏腹に多くの孤独と近寄りがたさを有した場所。
 きっと今こうしている間にもどこかに池田がいてリオがいる。次元を越えてとても遠い場所に存在する彼らなのに、僕にとってはとても近しい所で生きている誰かに思えてならない。そう感じるのは彼らに対して最初に抱いたのが共感だったからであり、今回のような形で言語化してその背中を追うことで得た追体験が何物にも変えがたい"価値あるもの"として磨かれたからだ。

 僕は僕が感じたままの『池田とリオ』を、あの閉じてゆく空間に灯る微かな明かりを、そこに見た陰翳を、移ろいの美しさを。正しくこの感情を表現することができただろうか。僕が見たうつくしいものを上手に伝えることができただろうか。
 不格好だとしても、祈りを込めながら書いたつもりだ。これで俺もようやく前に進める。池田とリオに祝福を送り、ふたりを惜しみながらも俺の意識は自分が生きるべき現実に帰るんだ。

 この文章を受け取った誰かが『池田とリオ』の中に自分だけのうつくしさを見出だし、あの物語を愛してくれることを願いつつ筆を擱こうと思う。


<今回の記事を公開するにあたって>
 著作権法と発行元である株式会社リブレ社様の『著作権の考え方』に書き記されていた内容を踏まえて装丁も含めて画像の挿入はせず、代わりに通販サイトの商品ページと作者様のXに投稿された試し読みへのリンクを繋げる形をとった。また正当な範囲の引用を満たすよう著作物(この記事)が「主」、引用部分(原作)が「従」になるよう意識して書いている。僕のNoteの”スキ”ページを公開状態にしているが、このリスト内のいくつかの記事を大きく参考にさせていただいた。
 こうして極力注意してはいるが、いくつか不安な点がある。今回考察や見解を進めていくにおいてどうしても物語の内容に大きく触れてしまわざるを得ないこと、そして作中の一部台詞を引用していることだ。
 そのため作者様や出版社様から記事を取り下げるよう連絡が来た場合は予告なく非公開にするつもりでいる。あらかじめご了承願います。

<出版社様へ>
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