「調教師伊藤雄二の確かな目」
この本のタイトルに偽りはない。著者である鶴木遵氏の力量もさることながら、馬を扱うプロからの視点で語られる競馬には、やはり確固たるものがある。取るに足りない馬券本が蔓延る昨今、競馬の本質を教えてくれる稀有の書物といってもよい。
二人の対話形式で頁は進むのだが、その真骨頂は伊藤雄二調教師のG1レース回顧にある。レースの真実を余すところなく語っていて、競馬の奥深さを感じざるを得ない。また、本質をズバリと突いた発言も大御所ならではのものであり、質こそ違え、故野平祐二氏に匹敵するほどの迫力を持っている。
いくつか例を挙げて紹介したい。
2005年の高松宮記念について
「プレシャスカフェは完全に仕上がっていました。しかし、スタートで出遅れ。挙句の果てにはそのまま一気に前に前にと動いて、ゴール前でいつもの伸びを欠いてしまった。一度もタメることができなかった蛯名正義の騎乗は、やはり彼らしくないミス騎乗といわざるを得ません。」
おっしゃる通り。あれだけの稚拙な騎乗を批判しないマスコミは、やはりおかしい。「週刊Gallop」でレース回顧をしている柴田政人元騎手の、当たり障りのないコメントにはもう我慢できない(笑)。
2005年の桜花賞について
「吉田稔君は自分でレースを創るのではなく、そのレースに合わせてしまう。これはもうウィークポイントといってもいい」
ちょっと厳しい意見である。吉田稔騎手にとっては、悔いても悔やみ切れないレースでしょうから。とはいえ、偶発的に見えたシーザリオが挟まれたアクシデントも、吉田稔騎手のウィークポイントがわずかな隙を創ってしまったものかも知れない。
2004年の天皇賞春について
「岩田君とかこれまでJRAの騎手でなかった小牧太君が2番手3番手につくと、必要以上に抑えすぎて落し蓋のような役割をしてしまうことがあるんです。天皇賞春を演出したのは、2番手3番手の馬だとボクは思うんです。」
なるほど。そういう見方もあるのか。有力馬(ネオユニバース、ザッツザプレンティ、リンカーン)が弱すぎて自分から動けなかった、と私は単純に解釈していた。勉強になる。
2002年の有馬記念について
「最初の4コーナーで急激にペースを落として、また向こう正面で急激にペースを上げるなんていうのは、王道の競馬ではないんです。佐藤君の騎乗は、ファインモーションを負かす騎乗ではありましたけど、シンボリクリスエスを負かす競馬ではなかったということです。ボクとしては欲求不満の残るレースでしたけど(苦笑)」
これはかなり個人的な主観が入っている(笑)。そもそも、競馬に王道の乗り方なんてない。佐藤哲三タップダンスシチーはあの当時は人気薄で、勝つためには奇策を弄するのも当然である。結果的にも、ファインモーションに先着しているし、あわやシンボリクリスエスを負かすかというところまでいったのだから。あれはあれで、最高の騎乗だったのではないだろうか。
また、伊藤雄二調教師は自身が元騎手だったこともあり、騎手に対する温かい視線も忘れない。騎手を育てるのも調教師の役目のひとつであることを理解しており、日本競馬の全体のレベルアップを最も望んでいる調教師のひとりであろう。
ファインモーションをG1まで導いた松永幹夫騎手に対して
「一番大事な時期に乗ってくれましてね、一度として無理をさせることもなく、ちゃんと馬に競馬を教えていってくれた。ローズSでも、次にはユタカ君が乗る前提で乗ってもらいました。レース後に、『乗せてもらえて幸せです。いい経験をさせてもらいました。ありがとうございます。』と言ってくれたんですよ。すごい言葉です。この言葉だけでも、ミキオ君の人間性と人格を、ボクは見たような気がします。」
平成17年天皇賞秋での、馬上で頭を下げる松永幹夫騎手の美しい姿がオーバーラップする。この言葉を言える松永幹夫騎手だけでなく、大御所になった今でもそういった機微を感じることのできる、伊藤雄二調教師の人間性と人格が垣間見える。
10年ぶりに騎乗を依頼した藤田伸二騎手に対して
「元々いいものを持っている騎手なんですからね。31歳のいま、それに気付いたとしてもそれは少しも遅くはないんです。若いときに多少の無茶をしたり、あるいは人生経験の拙さから自分自身をいびつな木に育ててしまったとしても、ある瞬間に本人の危機感や自覚のハサミできちんと剪定し直したなら、一瞬にして素晴らしい木に変わるんです。」
どこのものとも分からない若手騎手を、10年間も成長を願いながら見守り続けてきた、その大きさに敬服する。こんなトレーナーの馬に乗りたい、と思うのは当然のことである。
とにかく、全編を通して競馬の本質、魅力、奥深さが語られており、この本が4年の歳月を掛けて熟成されてきたというのも納得させられる。番外編としての、ディープインパクトを生産したノーザンファームの吉田勝己氏、そして騎手としての岐路に立つ横山典弘騎手との火花が散るような対談も見逃せない。もっと競馬を知りたいという人にとっては、極上のテキストになることは間違いないだろう。
「ROUNDERS」は、「競馬は文化であり、スポーツである」をモットーに、世代を超えて読み継がれていくような、普遍的な内容やストーリーを扱った、読み物を中心とした新しい競馬雑誌です。