月面を3度歩いた騎手
今回は落馬することなく先頭に立ったバスラットレオンが、前半1000m60秒3,後半57秒0という究極のスローペースを刻んで逃げた。馬群は一団に固まり、外を回された馬や後ろから行った馬にとっては苦しいレース。道中でどれだけ我慢できるかという精神的なスタミナの勝負であり、最後の3ハロンの瞬発力勝負でもあった。エイシンフラッシュが勝った2010年の日本ダービーに似ている。上位の馬たちは決して弱くないが、力を十分に出し切れずに敗れてしまった馬たちも多くいるだろう。
勝ったシャフリヤールは、ディープインパクト産駒らしい瞬発力が光った。気を抜くタイプなのか、毎日杯でもゴール前は耳を立てて本気で走っていなかったが、今回はさすがに福永祐一騎手の叱咤激励に応えて最後まで力を出し切ったし、早めに先頭に立たなかったのも良かった。血統的にはアルアインの全弟ではあるが、同時期のアルアインに比べて筋肉量も多くなく、馬体に緩さと軽さが目立つため、距離は延びてさらに良さが出たと言える。古馬になって緩さがなくなってくると2000m前後がベストになるだろうが、現時点ではこの馬の緩さが日本ダービーの舞台に向いたということだ。完璧に仕上がっていたので、ダービー後に少なからぬ反動が出るはずであり、これからは自身の肉体と気持ちの燃え尽きとの戦いになるだろう。
福永祐一騎手はスタートから前目のポジションを取りに行き、馬をなだめつつ、できる限り外を回らされないように道中を回ってきた。それでも最後の直線に向いて、追い出してからのシャフリヤールの鋭い伸びに驚いたのではないか。ハマったと言うべきか、ハメたと言うべきか。ワグネリアンとコントレイルで勝った2度のダービーの乗り方を足して2で割ったような、エフフォーリアを負かすならこう乗るというお手本のような騎乗であった。
山本一生氏による「競馬学への招待」の中に、騎手にとってダービーを勝つことは、宇宙飛行士が月面を歩くことと、どこか似た内的体験をするのではないかという一節がある。この本の中で私が最高に好きな部分なので、長くなるが引用したい。
「宇宙飛行士の中でも月に行った経験を持つ24人と、他の宇宙飛行士とでは、受けたインパクトがまるで違う。さらに、月に行ったといっても、月に到着して、月面を歩いた人間とそうでない人間とでは、また違う。宇宙船の内部しか経験できなかった人と、地球とは別の天体を歩いた経験を持つ人とでは違うのだ。宇宙船の中は無重力状態だが、月の上は六分の一のGの世界で立って歩くことができる。この立って歩くことができるという状態が、意識を働かす上で決定的に違う影響を与えるような気がする。月を歩くというのは、人間として全く別の次元を体験するに等しい。」
上になぞらえて、山本一生氏はこう言い換える。
「騎手であることと、ダービーに出走経験のある騎手になることでは、受けたインパクトはまるで違うだろうし、さらにダービーに出走することと、ダービーの優勝ジョッキーになることでは決定的に違っていて、「全く別の次元を体験するに等しい」のである。」
騎手にとって、ダービーを勝つことがどれだけの意味を持つかを、これだけ上手く説明した喩えを私は他に知らない。騎手はダービーを勝つことによって、全く別の次元に昇華する。もしかすると、ダービーを勝つことによって得られる内的体験を求めて、人は騎手になるのかもしれない。福永祐一騎手は、父洋一が勝てなかったダービーを3度制覇し、月面を3度歩いたことになる。今回のハナ差は、ダービーを勝ったことのある騎手とそうでない騎手の差であった。
惜しくも敗れたエフフォーリアは、理想的なポジションを走り、最後の直線でも前が開いてスムーズに抜け出せたが、最後は勝ち馬の切れ味が優った。もう少しレースが流れて、底力とパワーが問われる競馬になっていたら、この馬が勝っていただろう。ダービーにタラレバは禁物だが、何が言いたいかというと、エフフォーリアも横山武史騎手もできる限りのことはしているということだ。何かが足りなかったから負けたのだが、これで負けたら悔いはないはず。
3着に入ったステラヴェローチェは、展開もポジションも向かなかったにもかかわらず、最後まで鋭い脚を伸ばした。道悪馬場でもパンパンの良馬場でも、マイルから2400mの距離までコンスタントに走る能力は極めて高い。バゴ×ディープインパクトはもしかすると黄金配合になるのではと思わせられる。先週のソダシこそ残念だったが、吉田隼人騎手は、大きな舞台でも騎乗馬の能力を最大限に発揮させる、素晴らしいジョッキーに成長した。
牝馬ながらダービーに挑戦したサトノレイナスは、外枠が響いての5着。勝ちに行くためには馬を出して行かざるをえず、スムーズに先行できたところまではルメール騎手のイメージどおりだったはず。ところが、思っていたよりもスローになったことで馬群が固まり、終始、外々を回されてしまった。これでは脚がたまらず、最後の直線ではもう脚が残っていなかった。内枠を引いていたら、勝ち馬のようなレースもできたはず。ダービーは運もなければ勝てない。