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35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)③~サーカスに就職:前編~

音楽カルチャーと横浜のむかしばなし

70年代と80年代で流行った音楽の大きな違いとは・・・
「生音」から「デジタルの打ち込み」に演奏が変化したこと。
それがディスコ文化を生み出し、ダンスミュージックの一般化を促したといえる。

80年代は全てのものごとが一気に変わっていった10年間。

80年代初期、横浜の本牧はアメリカ軍基地の跡地。一般人は中に入れない寂れた一帯。
桜木町の裏側からみなとみらい区間は国鉄の所有地で貨物の車両基地だった。

TACさんの「国鉄」という言い方が素直に世代を感じました。

今では観光地として土地開発されている港沿いは不良たちの巣窟となっていた。開発予定ではあったが手つかず。立ち入り禁止区域だった。

それと同じくして音楽業界では・・・1970年に結成されたドイツの「クラフトワーク」が世界に影響を及ぼしていた。生バンドの音が当たり前だった時代においてテクノ(シンセサイザーを駆使した打ち込み系音楽)を開拓した電子音楽の最先端をいくグループだ。

現在に至るまで多くのアーティストに影響を与え続けたクラフトワーク。レディオヘッドやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、コールドプレイ、ダフトパンクなども彼らの影響を大いに受けているそう。

日本では坂本龍一の所属するYellow Magick Ohrchestra(YMO)電気グルーヴなどがそれに当たる。

メインストリームとしてはニューウェーヴ(山下達郎・RCサクセションの忌野清志郎らによる)が日本の音楽界を席巻し、歌謡曲と演歌くらいしかなかった日本にAOR(Adult-Oriented Rock)と言われるジャンルが新たな流れを作り出した。

TACさんもこの音楽界の進歩に影響を受けた1人だ。

「今までにない音楽にただただひっくり返った。洋楽的要素の入った日本語の曲がどんどん出てきて。」

インターネットがなくテレビしかない世の中で録画機能もない。海外の新曲は深夜番組で取り上げられたものをたまたま見かけて知ったり。音楽番組は探して見ていたけど、あまり種類もなかった。YMOも数少ない音楽番組だった「ベストヒットUSA」で知った。

ベストヒットUSAはBSチャンネルで見かけたことがあるのですが、小林克也さんの流れるような英語の発音と雰囲気が素敵だったのを覚えています。かっこいいディスクジョッキーってこんな感じなのでしょうか。

サーカス出演の野望

80年代中盤(当時、TACさんは高校生)、それまで横浜には大きなディスコがなかったが、山下町の中華街の入口付近に「サーカス」というお店がオープンした。元キャバレーを改装したフロアには、350~400人近くが収容できる。

TACさんがオープニングレセプションに参加した時の感想を語ってくれた。

「国籍がよく分からない人たちがひしめき合っていた。横浜は外国人が元々多いエリアではあったが、そんなにいたんだ!?というほど。外国人の多さに衝撃を受けたね。」

サーカスでは日本語の曲は一切かからない。知っている曲から知らない曲まで幅広い選曲だった。新宿など多くのディスコで流行っていたのはユーロビート。一方、横浜では当時からブラックミュージックが主流だった。黒人の方々が多く遊びに来ていたエリアだったこともあり、ファンクなどの「横ノリ」と言われる重ためな感じの曲が好まれた。

そんなサーカスの魅力に包まれ、通い続けた高校時代。

高校卒業後は、セミプロレベルまでになったオートバイの道もあったが、事故でやむなく引退。そしてサラリーマンとして就職した。

— しかしすぐに辞めた。

なぜならサーカスで遊んでいるうちにそのまま好きが高じて働くことになったからだ。

1986年、通いこんでいたサーカスに欠員が出たのをチャンスに見習いとしてお店に入ることになった。

「若かったというのもあって諸条件揃ってて安定のところよりも、どうせなら面白いことやったほうがいいじゃん、と思って全部蹴っちゃった。
脱サラをするってギャンブルだよね。若くないと出来ないからね。」

物心ついた頃から音楽のかかっている空間で遊ぶことが当たり前になっていたからこそ、そういう場所で生きていくのが普通になっていた。

サーカスのDJ陣に自分もDJをやってみたいと意思表示をした。そこで初めてターンテーブルというものを知った。
レコードプレーヤーは家にあったがそれとは全く違う。専門的な機材も必要だった。当時の選択肢はtechinicsのmk2だけ。ドライブシャフトが画期的だった。(正直、私には専門的過ぎてこれ以上お話を広げられませんでした。精進します。)

自分の持っているものをいくつか売ってお金を作った。当時で150,000円前後。

それからは場所探し。友達のお父さんから発電機を借り、どこかから長いテーブルを持ってきて、家にあるスピーカを使い、その辺の広場で練習を始めた。DJに興味のある仲間たちがそれぞれ道具を持ち寄って真似事をしてみるスタイル。

今みたいにちょっとインターネットで調べたらやり方が分かる、必要なものを買えるという時代ではない。

とにかくひたすら現場に行って、DJのやり方を盗んで、真似してというのが練習方法だった。

PunkとHIPHOP-マルコム マクラーレン-

そんな「日進月歩」とも言える1983-4年あたり。
ブレイクダンスが流行りはじめ、HIPHOPというジャンルが日本に浸透してきた頃。

当時、尖っている人たちの中で流行っていたのはパンクロックだった。

マルコム・マクラーレンをご存知でしょうか。

イギリス人で起業家・ミュージシャン・ファッションデザイナーなど多才な顔を持つマルコム・マクラーレン。ヴィヴィアン・ウエストウッドとアパレルを経営していたことでも有名。彼がNYに渡米した際に、NYパンクに大きな影響を受けたそう。それがきっかけでセックス・ピストルズのマネージャーとして新しい風を起こすことになった。既にあるロックへのアンチテーゼ、過激で「反社会的」なイメージ戦略で彼らは大成功を遂げた。これを機にパンク・ファッション、パンク・ロックはイギリスの若者に一大ブームを巻き起こしたと言える。

マルコムは「反社会的」という共通点からHIPHOPの開拓者としても有名だ。白人と組むことで黒人文化だったHIPHOPが日の目を浴びた。ゲトーなブロックパーティーが世界中に知らしめられたのだ。

<つづく>

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