強くて繊細なMissy Elliottのサクセス・ストーリーを書きたくなりました
※キャリアが凄すぎて長くなりましので、お時間のある時にどうぞ。
Missy Elliott(ミッシー・エリオット)がこれまでプロデュースしたアーティストは、Aaliyah(アリーヤ)、Mariah Carey(マライア・キャリー)、Whitney Houston(ホイットニー・ヒューストン)、Mary J Blige(メアリー・J・ブライジ)、Beyoncé(ビヨンセ)、Monica(モニカ)、Lizzo(リッツォ)、Ariana Grande(アリアナ・グランデ)、Jazmine Sullivan(ジャズミン・サリバン)など数々の歌姫たち。
2021/11/8(月)にロサンゼルスで行われたハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの受賞セレモニーに参加したミッシー・エリオット(50歳)。
ミッシーはハリウッド大通りにあるアメーバ・ミュージック・ストアの外で涙を流しながら、家族、友人、支援者、協力者、そしてウォーク・オブ・フェイムの選考委員会に感謝の意を表しました。
Instagramでは440万人のフォロワーに向けたメッセージも投稿。
多くの人が「ミッシー、まさにこの時だね」っていうけれど、本当にぴったりなタイミングで、心から感謝しています。 私にとって一生忘れられない瞬間。そして、浮き沈みや病気の時に私と一緒にこの旅を続けてきたすべての人たちに、あなたたちが私にとってどれほど大切な存在かを知ってもらいたいと思います💜💜💜 私はたくさんの素晴らしい「星」の中に自分の「星」があるということに満足しています。私の心は微笑んでいます。そして、すべての私のスーパーフレンドと、すべての先輩女性MCに感謝しています。私がクイーンとなる基礎になってくれてありがとう👑恐れ多いです!#ハリウッド・ウォーク・オフェーム
Hollywood Walk of Fame(ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム)は、カリフォルニア州のハリウッド大通りとヴァイン通り沿いの歩道のことです。チャイニーズ・シアターなどがある観光名所となっています。
有名な話ですが、ここには約5kmほどの間に、エンタメ界で活躍した人物の名前が彫られた2,000以上の星型のプレートが埋め込まれています。
この企画は1960年よりハリウッドの商工会議所により始められ、最初の半年で1,500以上の星が埋め込まれました。
現在では、映画、テレビ、音楽、ラジオ、舞台の5つの分野で活躍した人物を対象に、数十名の候補者の中から広く一般の投票によって選ばれます。
申請自体は誰でも可能ですが、申請費として約4万ドル(約450万円)がかかるとのこと。また、それにふさわしい人物かどうか、受賞歴のリスト、コミュニティーへの貢献度などをプロフィールにまとめたものを提出します。
なかなか厳しい条件であることが分かりますよね。
果たしてミッシーが手にした「星」の適性とはどんなものだったのでしょうか。
華麗なるデビュー
ミッシー・エリオットは、1997年に発表したデビューアルバム『Supa Dupa Fly』で大ブレイクし、その後もバージニア州出身のアーティストとして活躍しています。
彼女をはじめバージニアのアーティストには、Timbaland(ティンバランド)、ファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams) 、Chris Brown(クリス・ブラウン) 、D'Angelo(ディアンジェロ)など大物がたくさんいます。
『Supa Dupa Fly』(1997)は、同郷のティンバランドが単独で録音・制作したアルバムで、ゲストとしてBusta Rhymes(バスタ・ライムス)、Ginuwine(ジニュワイン)、702(セブンオーツー)、Magoo(マグー)、Da Brat(ダ・ブラット)、Lil' Kim(リル・キム)、アリーヤが参加しています。
Billboard HOT 200では初登場3位、トップR&B/ヒップホップ・アルバム・チャートでは首位を獲得しました。このアルバムは米国レコード協会(RIAA)からプラチナ認定を受け、アメリカ国内だけでも120万枚の売り上げを記録。
シングルカットされた『Sock It 2 Me』feat. Da Brat(1997)は、Billboard HOT 100で12位、ホットR&B/ヒップホップ・シングル&トラック、リズミック・トップ40、ホット・ダンス・ミュージック/マキシシングル・セールスの各チャートでトップ10に入りました。
同曲は、The Delfonics(デルフォニックス)のシングル『Ready or Not Here I Come (Can't Hide from Love)』(1968年)をサンプリングしています。
金管の伸びのある音色を上手に使っていて、重みのあるトラックが印象的な聴きごたえのある1曲です。
駆け出しからミッシーの実力は高く評価され、まさにその実力を裏付けるものとなりました。
2019年には、『Iconology』というタイトルで初のEPをリリースし、女性ラッパーとして初めてNile Rodgers(ナイル・ロジャーズ)が会長を務めるソングライターズ・ホール・オブ・フェイム(SHOF)に殿堂入り、さらにこれも女性ラッパー初、MTVのマイケル・ジャクソン・ビデオ・バンガード・アワードを受賞しました。
90年代後半から2000年代の音楽シーンを盛り上げてきたミッシー。
そのキャリアを通じて、新しくハイセンスな楽曲やミュージックビデオでHIPHOP・R&Bの新しい方向性を決定づけたイノベーターとして、地位を確立しています。
深いトラウマと音楽への昇華
本名:Melissa Arnette Elliott(メリッサ・アーネット・エリオット)は、1971年7月1日生まれ。
海兵隊員の父と母の3人暮らしでしたが、その生活は貧しかったようです。
幼少期は、父の家庭内暴力やいとこからのレイプを経験し、深く心の傷を負っていたミッシー。
しかし、彼女はいつも音楽に救われていました。
母が昔、グループを組んで地元で歌っていたんです。私はそれを真似して、ヘアブラシに向かって歌っていました。歌っていないときはダンスをしていました。家族の行事があると、最初は恥ずかしいと思いながらも、いったんテーブルの上に乗ってしまうと、何時間もテーブルから降りませんでした(笑)。
そんな音楽好きのミッシーは、当時の大スターであるMichael Jackson( マイケル・ジャクソン)とJanet Jackson(ジャネット・ジャクソン)にファンレターを書き、辛い境遇の自分を救ってくれるように頼んだこともあるとか。もちろん、彼らからの返事はありませんでした。
ミッシーが14歳のときに父親のもとから母と共に逃げたそうですが、経済的には厳しい状況が続きます。
いつの間にか患っていたうつ病とも戦いながら、苦しい10代を過ごしました。
しかし、どんな時も音楽は彼女を救い続けます。
小さい頃は頭の中に浮かんだメロディを分かるようにメモしていたんだけど、高校生になったら録音機に向かって歌った。今は携帯電話に向かって歌いながら作曲しているの。
高校生の時に友達だったマグー(ラッパー)から「DJ Timmy Tim(後のティンバランド)っていう友達の家に行かない?」と誘われて、ティムの家に行ったんです。それがティンバランドとの最初の出会いかな。
彼は小さなカシオのキーボードを持っていて、これでみんな遊んでいました。私がラップを始めると、部屋にいた誰もが「おー!めちゃかっこいい!クレイジーだ!」と言ってくれて。
それからというもの、気がつけば毎日、彼の家で音楽活動をしていました。
そんなミッシーが20歳になった頃、1990年代前半から半ばにかけて、R&Bガールズグループ「Sista」で音楽活動を開始。
プロデューサーのDeVantéSwing(デバンテ・スウィング)のレーベル「スウィング・モブ・レコード」と契約し、ニューヨークに移住しました。
1993年、ディズニーチャンネルのスターRaven-Symoné(レイヴン・シモーネ)に提供した『That's What Little Girls Are Made of』がソングライターとしての初のヒット曲となったのです。
喜んだのも束の間。シスタのデビューアルバムがリリースされる前に、所属レーベルが解散してしまったため、ミッシー自身のデビューは失敗に終わってしまいます。
アルバム内のほとんどの楽曲をミッシーが自ら作曲していたので、そのショックはとても大きかったでしょう。
その後、幼馴染のティンバランドとともにR&B/ヒップホップ集団の「Swing Mob」のメンバーとなり、アリーヤ、セブンオーツー、Total(トータル)、SWV(エスダブリュヴイ)などのプロジェクトに参加しました。
ミッシーは、この頃からアリーヤやエスダブリュヴイに楽曲を提供していきます。
1996年、P. Diddy(パフ・ダディ)がGina Thompson(ジーナ・トンプソン)と共作した『The Things You Do』のリミックスにゲスト・ヴァースとして参加。
これがきっかけで、Elektra Entertainment Group(エレクトラ・エンターテインメント)のCEOであるSylvia Rhone(シルヴィア・ローヌ)の目に留まり、自身のレーベルであるThe Goldmind Inc.(ゴールドマインド)を設立するチャンスを得たのです。
ミッシーはデビューの挫折、そしていくつかのコラボレーションやゲスト出演を経て、大きな一歩を踏み出します。
エレクトラが配給するゴールドマインドからティンバランドのプロデュースのもとデビューアルバム『Supa Dupa Fly』(1997)をリリース。
ミッシー・エリオットとしてソロ活動を開始した年に早くも、「ローリング・ストーン」誌の「ラップ・アーティスト・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。
翌年には、ホイットニー・ヒューストンのアルバム『My Love Is Your Love』(1998)やSpice Girls(スパイスガールズ)メンバーのメル・Bのソロシングル『I Want You Back』(1998)に参加するなど、多方面で活躍し始めます。
1999年にリリースされた2ndアルバム『Da Real World』は、シングル『She's a Bitch』、『All n My Grill』、『Hot Boyz』などのヒット曲を生み出しました。
中でも、Remixバージョンの『Hot Boyz』feat. Nas, Eve & Q-Tip(1999)は、2000年1月15日付の全米R&Bチャートの最多1位獲得週数の記録を更新したほか、1999年12月から2000年3月までホット・ラップ・シングル・チャートで18週にわたって1位を獲得。
驚異の記録を打ち出しました。
3rdアルバム『Miss E...』(2001年)のファースト・シングル『Get Ur Freak On』は、他にノミネートされていたDMX(ディーエムエックス)、JAY-Z(ジェイジー)、Nelly(ネリー)をおさえ、グラミー賞の最優秀女性ラップ・ソロ・パフォーマンス賞を受賞。
この曲は、インドのパンジャブ州のポピュラーミュージックである【バングラ・ビート】の要素をクールに使用したキャッチーな楽曲です。ところどころ日本語が入っているのも面白さのひとつ。ヒットするのもうなずけますね。
2002年には、TLC(ティーエルシー)、ビヨンセ、ジェイ・ジーとのコラボレーションを収録した4枚目のアルバム『Under Construction』が、売上210万枚を超え、女性ラッパーとしての記録を更新しました。
翌年、大御所Madonna(マドンナ)のシングル『American Life』(2003年)をリミックス。
マドンナと親交を深めたミッシーは、Britney Spears(ブリトニー・スピアーズ)、Christina Aguilera(クリスティーナ・アギレラ)とともにMTVビデオ・ミュージック・アワードで共演しました。
この時のパフォーマンス映像には、大物が映りこんでいたり、エンタメとして純粋に面白いので、見ごたえがあります。
2005年にリリースされた6thアルバム『The Cookbook』からは、シングル『Lose Control feat. Ciara & Fat Man Scoop』がBillboard 100で3位を記録。
テクノの名曲Cybotron(サイボトロン)の『Clear』(1983)をサンプリングし、メインストリームでのEDMブームの火付け役になったと言われています。
ビルボード史上最も売れた女性ラッパー
才能を惜しみなく発揮するミッシーはその後もグラミー賞を4回受賞し、アメリカ国内で3000万枚以上のレコードを販売しました。
グラミー賞の他にも、アメリカン・ミュージック・アワード、複数のBETアワード(最優秀女性ヒップホップ・アーティスト)、複数のMTVビデオ・アワードを受賞しており、彼女のミュージック・ビデオも高く評価されています。
また、ビルボードからは「史上最も売れた女性ラッパーである」と評価されているミッシー。
2020年には、ビルボードが発表した「史上最も偉大なミュージック・ビデオ・アーティスト100人」の5位にランクインしました。
果たしてミッシー・エリオットがここまでリスナーを惹きつける秘訣は何なのか。
彼女は、パワーのあるビジネスマンとしても、一貫してヒップホップの限界を押し広げてきました。
その行動が全世界の女性にとって、強さ、自信の象徴であり、潜在的な能力を引き出してくれる存在となっています。
天才的な素質だけではなく、たゆまぬ努力も彼女の欠かせない要素の一つです。
また、ミッシーは、「The New Yorker」誌で、「ミュージック・ビデオ業界の一般的な固定観念を避けた」、「アメリカがこれまでに経験した中で最も大きく、最も黒い女性ラップスター」と称されています。
つまり、これまで多くの女性アーティストがやっていたような、時にはやらざるを得なかったような、【男性の視線に迎合する】ことをしなかった真のアーティストといえるのではないでしょうか。
まさに実力勝負です。
彼女のメッセージは常に、「女性は男性と同等であり、男性と同じくらい重要であり、同じくらいパワフルである」ということなのです。
病気と復活
2008年、ミッシーはバセドウ病と診断されました。
症状としては、体重の激減、筋力低下、脱毛、不眠症、震えなどがあります。
そのため、長らく自分自身がスポットライトを浴びることはありませんでした。
代わりにJennifer Hudson(ジェニファー・ハドソン)、Keyshia Cole(キーシャ・コール)、モニカ、弟子の一人である Sharaya J(シャラヤ・J)などのために作曲やプロデュースを続けていました。
その甲斐あってか、病気を抱えながらも、Kelly Rowland(ケリー・ローランド)、Fantasia(ファンテイジア)とのコラボレーション曲『Without Me』(2013年)は、グラミー賞にノミネート。
2015年には、スーパーボウルのハーフタイムショーでKaty Perry(ケイティ・ペリー)と共演し、ファンたちに元気な姿を見せました。
同年11月にファレル・ウィリアムスがプロデュースしたシングル『WTF (Where They From)』(2015)で完全に第一線に戻ってきたミッシー。
同曲は、アメリカでゴールドディスク認定を受け、YouTubeで6,900万回以上ストリーミングされています。
ミッシーの最高傑作ともいえるクラブバンガーでしょう。
その数ヵ月後には、James Corden(ジェームズ・コーデン)の人気バラエティ番組「Carpool Karaoke」(カープールカラオケ)で元ファーストレディのMichelle Obama(ミシェル・オバマ)と共演。
ミシェルが彼女のリリックをラップし始めたとき、ミッシーは夢を見ているような気分だったと語っています。
成功者と隠れた一面
「私は本当に、本当に、本当にシャイなんです。でも、ステージに立つとスイッチが入ったように明るくなります。」
特に音楽に関してミッシーが心を開いているメンバーは少なく、とても繊細な一面を持っています。
関係の深いティンバランドでさえ、彼女がスタジオでレコーディングしているところを見たことがないそうです。
唯一彼女の制作現場を見たことがあるのは、彼女のペットのみ。
そんなミッシー・エリオットは、革新的なシンガーソングライター、プロデューサーとしてヒット曲やミュージックビデオを作り出すパイオニアです。
1990年代半ばから、長年の共同制作者であるティンバランドとともに、四半世紀をかけて新しいブラックミュージックの時代を作ってきました。
まさに成功の証と言えるのが、幼い頃ファンレターを送ったジャネット・ジャクソンから、今回のウォーク・オブ・フェイムの受賞についてメッセージが届いたこと。
ミッシーはこれをInstagramに公開しました。
コメントの中でジャネットに【レジェンド】と言わせたミッシーの業績は、女性アーティストの先駆者として、女性でも男性と同じように作曲、演奏、プロデュースができることを証明しています。
誰かのためにレコードを作るときは、その人に合わせて作るようにしています。でも、「無難なもの」を作るっていう意味ではありません。
例えば、Ari Lenox(アリ・レノックス)と一緒に曲を作ったとき、私は「安全なものを提供することもできるけど、まったく予想外のものを提供したい。ちょっと手を伸ばしてみよう!」という感じでした。うまくいくかどうかは別として、とりあえず試してみよう。
自分がやらずに他の人にやられてしまうのは嫌だからね。
ミッシーは、信じられないかもしれませんが、毎日レコーディングをしているそうです。ずっと続けていることなので、やらないと気が狂いそうになるとか。キャリアの中で休暇を取ったのは3回くらいしかないと語っています。
過去の功績もさることながら、「職人」として日々の活動を続けているミッシー・エリオット。
彼女の成功の理由は、イノベーター的な思考でありながら、地道で日の当たらないようなことにも目を向けられる「繊細さ」が共存しているからかもしれません。
個人的には、これからもたくさんの新しいラップスターやシンガーたちとコラボをし、若者に刺激を与える存在としてメインストリームはもちろんHIP HOP/R&B界も盛り上げていってほしいと思います。