あるブリュッセルのレース商の物語 最終話
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
前回までのあらすじ
パリに住む兄のジャン=バティスト2世は妹に宛てて、王太子( のちの国王ルイ16世 )と神聖ローマ帝国の大公女マリー・アントワネットとの婚礼に伴う祝宴にブリュッセルに住む妹を招待するのでした。
競合との鬩ぎ合い
ー カロン夫人
兄が親愛の情を示すこの愛すべき妹は、時に厳しく叱責されるに値する失敗を犯すのでした。
「ブリュッセルを訪れたカロン夫人にメヘレンの職人たちの住所を教えたのか?」と妹の失態に動揺して兄は聞き返しました。そしてグラモンのレース商人であるカロン夫人にそれとなく質問したのです。
「どうぞ、できるものならグラモンで生産してみてはいかがですか?」
すぐにカロン夫人は聡明な商人を見透かしたような顔つきで、「あら、では見本としてできるだけ多くのレースをご用意いただけるかしら?」と言い返しました。
競合する他のレース商人は常にジャン=バティスト2世の怒りの矛先であり、彼は競争相手を恐怖心を抱いていました。そのような彼の敏感な感受性は1773年12月19日付の別の手紙にも表れています。
その手紙で、兄は次のように妹に書き送っています。
「ブリュッセルに滞在したいと願っているパリのレース商アミオ夫人には丁寧に対応してください、そしてあなたに会いに来るように伝えてほしい。しかし、もし彼女が仕事の話をしはじめたら、あなたはただ《 私にはわかりかねるので兄とのみお取引ください 》とだけ彼女に伝えてください。」
ブリュッセルで成果が得られなかったアミオ夫人はパリに戻ったのちにマドレーヌ通りに住むゴッセ嬢を頼り彼女の居宅に押しかけて、アミオ夫人が抱えているレース製造の問題を解決するためにゴッセ嬢と手を組んだようです。
商売にとっては自社の利益を守ることは何よりも重要で、妹は家業のために決められた非常に厳格な行動規範を遵守することを兄から求められていたのです。
ー 財政難
ジャン=バティスト2世ゴドフロワは1771年には早くも深刻な財政難に陥っていたようです。
彼はもう手形の履行にも窮し、支払い相手でもある妹に我慢するように促しました。1772年5月23日には18,000リーヴルで事業を買収することになったことを考慮して、今年のブリュッセル行きを延期すると妹に書き送っています。
「今回の買収以下の通りです。芯地とリールやイーペルのレースなど、私が持っていないものばかりです。少しばかりですがヴァランシエンヌ・レースも含まれているので私の既に持っているレースと併せれば素晴らしい品揃えになるよ。」と彼は書き記しました。
数日後に取引は成立した模様で、「芯地、ヴァランシエンヌ、イーペル、コルトレイクとその周辺などの今まではなかった3種類のレースが私の商売に加わることになり、これは良いことで商売に有利になると信じています。」
しかし、この買収は成功したとは言えなかったようで、妹はもはや兄からの支払いも得られず8,027リーヴル17ソルの負債があるので兄へはもう品物を送らないと決意を固めました。これは妹にとって至極当然のことではあるのですが、事業の継続が危ぶまれた彼は妹へ次のように手紙で書き送っています。
「というのも、店は毎日営業を停止しているので、私にきまりの悪い思いをさせ続けたいのでしょうか? 今後どうするかは自分の心に任せるとしてもその間は店の信用を落としているわけで、それでは少しも売り上げの流れを作れないのはおわかりですよね。必要なことは全て伝えたので、あとは自分で考えて決めてほしい。そして、あなたの決意を聞かせてほしい。」
妹は兄の懇願ににひっかかり商品の発送を再開し、いつものように請求書に《間違い》を繰り返すのです。
10月になると彼女はまた怒り出し出荷を全て取り消してしまう。
兄は「あなたは私の首を切るつもりか!」と妹を詰り、妹は「あなたは助言が巧くない、あなたの手紙のいくつかの表現からそれがわかります。」と兄に宛てて書き綴りました。
12月8日、彼は手形の受け取りができなくなり彼の与信に非常に軽蔑的な噂がパリで流布しました。
悲壮感にとらわれた彼は「私は五里霧中です。」と吐露しています。そして妹に宛て「すべてが私を打ちのめします。商人にとってもっとも重要な信用を失うような彼らの行為は良心のかけらもない所業です。しかし、私は神を信じています。神が私たちを見捨てず、その恩寵により最後には私たちがすべてに勝利することを望んでいます。が、正直言って世間の冷たさを痛感しています。」と手紙を認めるのでした。
その後の兄妹
しかし、彼の妹は兄から完全にレースを奪ったわけではなく兄に対して不機嫌になることもありますが、兄への敬愛から自らの行いを悔い改め、今回もそれが何らかの形で現れたようです。
時には、彼の反感(いつも一過性の)を非難するために商品の出荷を遅らせたり、手元に留めたりすることもあるのですが、「妹の喜憂のために振り回された」兄は自分の立場に逆らえずに結局は最後に彼女に泣きつくのです。
1776年5月20日、兄は妹に20,000リーヴルという大金を借りて続けて7月3日にも妹に「助けを求めても空回りだ。」と書き送っています。
妹は兄の懇願に耳を貸さず、手紙に書いてあるシャツさえ送ってくれないのです。「以前のものでは私の体にはもう合わなくなった! お願いだからシャツを作ってほしい。」と兄は重ねて懇願する。
1776年6月、商売のために定期的にブリュッセルへの帰郷を計画していた兄が、彼の書いていることに従えば同行する予定だった妻が「母親と離れるのはあまりにも悲しい」という理由からその計画を断念した。
9月21日、パリに戻った彼は妹に体調不良を訴えました。
「私は突然めまいがして、一週間何もできなかった」と妹に打ち明けて、続けて「この心配(彼はまだ資金面での大きな心労を抱えている)があるから、商売をしていても突然発作が起こるのだと思う」。
これが兄から妹へ宛てた最後の手紙となリました。
ジャン=バティスト2世ゴドフロワの心臓疾患はより顕著になったのでしょうか?
この日の直後、兄はこの世を去ったのです。
おわり
あとがき
ゴドフロワ=デュ・ロンドー社は、18世紀というレースが精緻さと洗練さの極致となった時代のブリュッセルのレース産業を商人として親子二世代にわたり支えました。一家の努力によりフランスで開発された新たなニードルレース技法を18世紀初頭に早くもフランドルに導入して、レースの開発に余念のない彼らは18世紀前期から中期にかけてはニードルレースとボビンレースの双方で最も技巧を凝らしたレースを生み出すこととなります。18世紀後期をむかえ、流行の大きな変化は衣裳におけるレースの需要を減少させゴドフロワ=デュ・ロンドー社の経営に大きな困難をもたらします。フランスの絶対王政が陰りを見せはじめたこの時代に、家業を継いだ兄妹は移り行く時代の変化に翻弄されながらも商売に邁進しました。ゴドフロワ=デュ・ロンドー社の廃業はレース産業の輝かしい一時代の終焉でもあったのです。