あるブリュッセルのレース商の物語 その9
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
前回までのあらすじ
ローゼンダールでの生活に耐えられなくなった妹のデュ・ロンドー未亡人はシャペリエ通りに移り住むことになり、兄のジャン=バティスト2世はパリから彼女を喜ばすために様々な要望の品を送り届けるのでした。
兄からの便り
ー パリでの事故
プティット・ムールはときに兄からの要望により靴下を編んだりテーブルクロスやシャツを仕立てていました。彼は非常に要求が厳しく毎日のようにカフス、襟、ボタン付け、ジャボの催促を緊急の手紙で妹に浴びせかけていました。
シャツが届くと少し丈が短いように感じ、そのシャツも5、6回着るともう袖口が傷んでいしまっていたようです。そのような兄からの小言に、その悔しさから妹が生地を置いて怒って手ぶらで帰ってしまうこともありました。
兄が妹に宛てた手紙には当時の出来事に関するエピソードが多く描かれています。ヴェルサイユ宮廷の御用商人として兄は宮廷の服喪や婚礼に密着し、その影響はすぐに自分の商売に反映したのでした。
絵画を描くような鮮やかな筆致で、兄は見聞きした出来事をありありと綴っています。王太子(後のルイ16世)の結婚に際しては彼はこう認めています。
「ヴェルサイユに行ったのですが入場許可証を得ていたのに大混乱で、花火もイルミネーションも嵐のため延期になってしまいました。パリでは明日花火を打ち上げるそうですが、その準備の様子はあまりよくわかりません。国王や王族が来臨すると聞いていますが、現状では来ないのではないかと噂されているようです。多くの外国人が騙されてパリに訪れたそうですがそのほとんどが祝宴を見物できていないか、何も見物できていないようです。」
この祝宴は実にひどい結末を迎えることになったのです。数日後、兄は妹に手紙でこう認めました。
ー 花火の惨事
「花火の時は何もなかったのですが… 神様がお救いくださった。この不幸な出来事が起こった場所を私たちは普段ならば当然通らなければならないのですから。死者と負傷者が併せて800人以上も出して、著名人も多く含まれているのは信じがたいことです。憤慨する国王陛下に忖度して官報では被害者数は矮小化されているようです。」
兄がこの不幸な事故に動転している様子が手紙から窺えます。
このパリでの祝賀の花火では終盤で火事が起こり、多くの見物客が将棋倒しとなりある者は窒息死して、ある者は焼死したのでした。露店が立ち並んだマドレーヌ広場へのロワイヤル通りがボトルネックとなってしまい人々は逃げ遅れたのだそうです。将棋倒しになった人々によって消防の進入を妨げて被害を拡大し、炎から逃れようとしてセーヌに飛び込み溺死した被害者も含めるとその数は一千人を超えたという記述も残されています。
その花火事故の数年後、兄はオテル・デュー(慈善病院)の火事についてこう手紙で語っています「1,200人が焼死したそうだ。」「ひどく凄惨な事故、それがオテル・デューの悲劇でした。29日の夜から30日にかけて火事が起きて、それは鎮火されず今もなお続いています。」
1773年1月1日に兄は妹に手紙を書き送っています。
「妻がノートルダム寺院から戻ってました。負傷者や病人が最初に収容された場所です。」「皆が慌ただしく施しや食べ物を与え、大司教猊下は司教館を開放して収容できる限りの人々を受け入れたと賞賛されています。私は時間がなくてそちらの方には行ってはいないけれど、皆は恐ろしい光景だと言っていたよ。」
別の日には、嵐がチュイルリー宮殿の木々を根こそぎなぎ倒しルイ15世広場で開催されていた市の露店もひっくり返してしまったと妹に報告しています。
王太子ルイ・オーギュストと大公女マリー・アントワネットの婚礼
ー パリへの招待
( 1760年代初頭から構想されていたハプスブルク、ブルボン両王朝の婚礼が実現したのは1770年のことでした )
兄は王太子とマリー・アントワネットの結婚式に妹を招待したようです。そこには妹を迎えるために甲斐甲斐しく働く兄の姿がありました。
兄は妹へ手紙で「馬車道が一番安全だよ。」と勧め、「3日間の旅程で泊まりは2日です。1日目はヴァランシエンヌで宿泊するのが良いと思う、2日目はペロンヌが悪くないな。」と認めています。
しかし、賢明な彼は客室係に心づけを渡すように助言してこう付け加えました。
「持ち物については気候に応じて決めるのがいい。暖かい日は長く続かないから聖霊降誕祭ではタフタを着用した方がいいな。リネン類は毎週こちらでも洗濯していることはご存じでしょうし、ボンネットも妻がいくつか持っていくから乗合馬車では非常に邪魔になる大きな旅行鞄をわざわざ持ってくる必要はありません。」
兄は妹のぼんやりした性格を知っていて、手紙でこう続けました。
「荷物が少なければ忘れ物の心配もありません。」と表面的に付け加えています。
そして「私のために作ってくれた12足の靴下が完成していたら、4ポンドの紅茶と上等なハンカチも一緒に私に持って来てほしい。」と懇願しています。
残念なことに彼女のパリ滞在の感想は手紙には残されていないので、プティット・ムールが無事にパリへ到着したのかどうかはわかっていません。
その10につづく