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あるブリュッセルのレース商の物語 その1

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


18世紀のレース商人

ー ゴドフロワ=デュ・ロンドー家

 これは、1956年に刊行された『王立ブリュッセル考古学会紀要』に所収された、リースリン=ステーンブリュッヘン女史の論文を中心に、主宰するレース研究会での発表にために収集した資料を基に再構成したものです。

 絶え間ない努力により、18世紀の四分の三世紀にわたりヨーロッパ諸国の宮廷にレースを納品し、世の人々に羨望された特権商人の名声を支えた【 ゴドフロワ家 】の家族の物語です。

 現代まで残された、古いレース作りに関係する一次資料が少ないなかで、18世紀当時のブリュッセルではその商取引が盛んであったように、当時の記録類、書簡や帳簿、内情を伝える出版物は、それなりの数が残されているのです。

 これらの古文書や出版物は、この時代のブリュッセルに生きたレース商人の姿を、ありありと現代に甦らせてくれます。

18世紀中期のブリュッセルの街の地図

 一族のはじまりは、ブリュッセルのサブロン地区に【 女帝 】の看板を掲げて創業したジャン・バティスト・ゴドフロワ氏であり、1719には、当時人気を博した【  ポワン・ド・フランス 】と呼ばれるフランスで創出されたニードルレースを、自らの製造の参考とするためにパリで購入し、彼はブリュッセルに持ち帰ったのでした。

 ジャン・バティスト・ゴドフロワは、高価な【 ポワン・ド・フランス 】のレースを購入したり、妻のためにダイヤモンドで飾られた十字架をプレゼントしたり、その日常を見てみると、それなりに裕福な暮らしをおくっていたようです。

ジャン・バティストがパリで買い付けたレースはこのような立派なものでしたhttps://collections.vam.ac.uk/item/O90110/furnishing-flounce-unknown/
ポワン・ド・フランス(スダン?) 18世紀前期https://www.musee.patrimoine.lepuyenvelay.fr/musee-crozatier/le-parcours-permanent-les-4-galeries/galerie-du-velay/

ー 御用商人

 コツコツと真面目に商いに励み、一廉の財産を築いたジャン・バティストの順風満帆の人生に、ある日大きな不運が襲いかかります。

 それは、【 ゴドフロワ家 】が、多くの王侯と取引をもっていた「やり手」であればこそなのですが、彼は詐欺に近い事件に巻き込まれてしまったのです。

 ライン宮中伯の縁戚にあたる、プファルツ=ズルツバッハ公テオドール・オイスタッハ ( 1659-1732 ) にはヨーゼフ・カールという後継者がいました。ズルツバッハ公の本家にあたるプファルツ選帝侯( ライン宮中伯 )には嗣子がいなかったので、このヨーゼフ・カールが本家のプファルツ選帝侯の後継者に決められました。

 この取り決めには、プファルツ選帝侯の成長した唯一の娘エリーザベト・アウグステ・ゾフィーとヨーゼフ・カールとの婚礼も含まれていました。

エリーザベト・アウグステ・ゾフィー・フォン・デア・プファルツ ( 1693-1728 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/エリーザベト・アウグステ・ゾフィー・フォン・デア・プファルツ

 このおめでたい婚礼に際して、ジャン・バティストは幸運にも、衣裳に必要となる一切全てのレースを調達する御用を仰せつかったでした。ジャン・バティストはこの素晴らしい祝宴が、さらに素晴らしいものとなるように、とびきりのレースを揃えてズルツバッハ公の元へと届けました。

 そのレースの代金は5,789フローリン16ソル3/4リヤールにも上ることが、【 ゴドフロワ家 】の帳簿から知ることができます。当時のパン職人の一年の俸給がわずか5フローリンであったことを考えると、それは途方もなく大きなビジネスチャンスでもあり、18世紀の封建社会では、王侯の御用を賜るのは皆の羨望をあつめる特権でもありました。

 しかし、1729年、ジャン・バティストは財政難に陥ることになります。「彼の身に一体何が起こったのでしょうか」

 この慶事に伴う喜ばしい商取引は、公子ヨーゼフ・カールの侍従長の【 ノイマン氏 】なる人物から依頼されたものでした。しかし、この【 ノイマン氏 】は支払いの約束を反故にしてしまったのです。

 ジャン・バティストは3回にもわたり【 ノイマン氏 】の元を訪れますが、その旅はすべて徒労に終わってしまったようです。彼は「果たして、レースのすべてがプファルツ公女のためのものだったのかすらわからない」と手記に書き残しています。

困窮したジャン・バティストは、ロンドンに住む友人のドゥネイ氏を頼り、彼の息子がズルツバッハに赴いて交渉にあたりました。

 しかし、【 ノイマン氏 】は知らぬ存ぜぬの態度で、証拠を持たないドゥネイ氏の息子を煙に巻くばかりなのでした。

 悪いことは重なるもので、エリーザベトは数人の子供を儲けたのちに、1728年に妊娠していた子供を流産して、産褥熱で亡くなったしまったのです。そして、彼女の夫であるヨーゼフ・カールも妻の後を追うように1729年に亡くなってしまいます。彼女の岳父であるプファルツ=ズルツバッハ公も1732年には世を去り、この負債はうやむやになってしまうのでした。


つづく 

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