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ウジェニー皇妃のレース ー ブロンド ー その1
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
美しいテバ女伯爵
ー モンティホ伯爵家
多くの伝記作者はウジェニー皇妃の出自について詳細に記してはいません。彼女の父親はナポレオン支持者のスペイン貴族で、母親のマヌエラはマラガ領事の娘で作家のプロスペロ・メリメと親交があり『 カルメン 』のモデルのひとりであったことが記述されているくらいです。
ウジェニーの姓に関しても、ド・グスマン、ド・モンティージョなどさまざまに呼ばれています。
父親のドン・シプリアーノは1808年以前はパラフォス・イ・ポルトカレーロを名乗り、1808年以降テバ伯爵位を相続してからはテバ領に付随する名族グスマン家の家名を冠してグスマン・パラフォス・イ・ポルトカレーロと呼ばれました。
1834年以降は元の姓であるパラフォス・イ・ポルトカレーロを再び名乗ったためにウージェニーの姓も資料によりグスマンや、父親の爵位であるモンティホ伯からモンテージョとフランス風に呼ばれたりもしました。
母親のマリア・マヌエラは、キルクパトリック・デ・クローズバーン・イ・ド・グレヴィニエの姓をもちスコットランドとベルギーが起源の家柄でした。
ウジェニーの父親はスペインの古い家系に起源をもつ家柄で、クロイ・デ・ハヴレ・イ・ランティ、ロペス・デ・スニガ、フェルナンデス・デ・コルドバ、レイヴァ・イ・セルダ、ロハス、グスマン、ルナ、エンリケ・デ・アルマンサ、カルデナス、パチェコ・イ・アクーナス、 アヴェラネダ、ロドリゲス・デ・アサ、オチョア、ヒノホサ、チャコン、メンドーサ、パパタ、ヴェルガス、ヴィヴェロ、カブレラ・イ・バディーリャ、フネス・デ・ヴィラルパンド、フランチェス・デ・アリンス、アルビオン、グレア、フェルナンデス・デ・エレディア、モンレイ、アラゴン、エンリケス・デ・ラ・カッラ、ナヴァラ、ラデナ、ブラカモンテ・イ・ダニーリャと複数の家系から受け継いだ姓をもっていました。
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ウジェニーの伯父にあたるエウヘニオ・エウラーリョ・デ・パラフォス・イ・ポルトカレーロ
1808年に父親のドン・シプリアーノは母の死によって母の爵位のひとつテバ伯爵を相続しましたが、それ以前はフエンテルソル侯爵と称していました。そしてテバ伯領は実質的には兄のエウヘニオ・エウラーリョが所有し、1834年に兄が継承者なく亡くなったことによりテバ伯爵のほかモンティホ伯爵の爵位と付随するパラフォス家の爵位をすべて相続しました。
長い伝統として由緒あるテバ伯とモンティホ伯は同一の人物が名乗らない不文律が存在していたといわれています。
第13代ペニャランダ・デ・ドゥエロ公爵、第17代モヤ侯爵、第16代ビジャヌエバ・デル・フレズノ侯爵、第14代ラ・バニェサ侯爵、第14代ミラロ侯爵、第13代バルダンキージョ侯爵、第12代ラ・アルガバ侯爵、第9代バルデラバノ侯爵、第8代オセラ侯爵、第7代カスタニェーダ侯爵、第7代バルカロタ侯爵、第21代サン・エステバン・デ・ゴルマス伯爵、第18代ミランダ・デ・カスタニャール伯爵、 第12代バニョス伯爵、第12代カサルビオス ・デル・モンテ伯爵、第10代モラ伯爵、第9代サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ伯爵、第8代アブリタス伯爵、第8代モンティホ伯爵、第7代フエンティドゥエニャ伯爵など、そのほか多くの爵位がウジェニーの父親のもとに転がりこんできたのです。
ウジェニー自身は父の死後にその爵位のいくつかを相続し、ナポレオン3世との婚礼時には以下のような称号を所有していました。第18代アルダレス女侯爵、第18代モヤ女侯爵、第9代オセラ女侯爵、第19代テバ女伯爵、第14代バニョス女伯爵、第11代モラ女伯爵、第10代サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ女伯爵、第9代アブリタス女伯爵、第10代ラ・カルサダ女子爵、 第17代クイント女男爵などです。
このなかでテバ女伯をウジェニーは名乗ることとなります。テバ伯の爵位は1522年にスペイン国王カルロス1世によりディエゴ・ラミレス・デ・グスマンに与えられたもので、アンダルシアのマラガ県に所在するテバの領地に因むものでした。
ー フランス皇妃
1853年1月22日、ナポレオン3世は演説でウジェニーとの婚姻を正式に発表し1月30日にノートルダム大聖堂で結婚式が挙行されました。
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ナポレオン3世との婚姻は政治的に微妙な問題をはらんでいました。第二帝政の基盤を盤石とするために新皇帝の配偶者は由緒ある王家の出身者が望まれていたのでした。
ナポレオン1世の末弟ジェロームの息子のナポレオン公ナポレオン・ジェローム《 プロン=プロン 》( 1822-1891 )とナポレオン3世の皇妃になることを望んだ姉のマティルド( 1820-1904 )はウジェニーとの婚礼を執拗に反対し、やがて第二帝政期に反対勢力として敵対していくことになります。
しかし漁色家のナポレオン3世はウジェニーの美しさに惹かれ、またウジェニーと母のマヌエラは彼の浮気症の性格を熟知していたので正式の婚姻とならない限り関係を結ばないと強硬な態度で臨んだのでした。
ウジェニー自身は、1292年にイスラム勢力からアンダルシア・カディスのタリファの城塞を守護したスペイン国民の象徴的英雄であるアロンソ・ペレス・デ・グスマンの血統であり、13世紀にアルフォンソ11世と共にイスラム勢力と戦うためにジェノヴァからやってきたポルトカレーロ家の子孫でありました。スペイン王国の歴史上多数の軍人、大臣、司教を輩出した古いアラゴン王国起源の貴族であるパラフォス家の家系でもあり、ギヨーム・ド・クロイがのちの神聖ローマ皇帝カール5世の家庭教師になったときにその栄光の頂点に達したフランドルの名家であるクロイ家の子孫のひとりでもありました。
ウジェニーは新興のスペイン王家であるボルボン家よりはるかに古い血統の貴族のひとりであり、彼女の姉のマリア・フランシスカ( 1825-1860 )通称パカはグランデの格式ある爵位を複数継承しているスペイン王国随一の名家アルバ公家に嫁いだいるので王族といえないまでも名門中の名門であったのは間違いありませんでした。
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フランツ・クサヴァー・ウィンターハルター画 ( 1852年 )
その2につづく