【 スダン 】 と呼ばれるレース その1
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
王立レース製作所
ー 財務総監コルベールの施策
1665年にサン=ジェルマン・アン・レー城でルイ14世によって発布された王令によって、フランスのいくつかの都市に【 王立レース製作所 】が設置されることが決まったのです。
フランスでのレース作りを産業化するこの施策は、国王の財務総監を務めたJean-Baptiste Corbertジャン=バティスト・コルベール( 1619-1683 )の献言によるものでした。
コルベールは産業を興してフランス製品の付加価値を高め、外貨を獲得して国を富ませようと考えたのです。自国で高品質のレースを作ることで、外国製レースにかかっていた費用を抑える目的もありました。
王立レース製作所が設置された都市のひとつに、アルデンヌ地方の【 スダン 】の街がありました。
歴史好きな方ならスダンと聞くと普仏戦争のスダンの戦いや、第二次世界大戦のドイツとの激戦地として記憶されている方も多いと思います。
スダンは現在ではベルギー王国との国境に近く、昔から交通の要衝だったのです。
ー スダン公領
このスダンにはかつて【 スダン公国 】が独立を保っていました。1549年にブイヨン公ロベール4世・ド・ラ・マルク( 1513-1556 )が、領有していたスダン領を公国に昇格させて自らスダン公を名乗りフランス王国から独立してしまったのです。
公国はロベール4世の息子のアンリ=ロベール・ド・ラ・マルク( 1539-1574 )に受け継がれ、フランソワーズ・ド・ブルボン=ヴァンドームとの間のひとり娘のシャルロット・ド・ラ・マルク( 1574-1594 )に相続されました。
シャルロットはアンリ・ド・ラ・トゥール・ドーベルニュ( 1555-1623 )に嫁ぎ、アンリがブイヨン公領とスダン公領を手に入れます。シャルロットは夫とのあいだに子供もなく20歳で夭折してしまったのでド・ラ・マルク家の血筋は絶えて、スダン公国の領主の地位はラ・トゥール・ドーベルニュ家に移ってしまいました。
アンリ=ロベールとフランソワーズ夫妻がカトリックからプロテスタントに改宗して以来スダン公国は信教の自由を保障していました。これによってスダン公国にはヴァロア朝( フランス王家 )末期の新教迫害の際にプロテスタントの亡命先となりました。
アンリもユグノー派( プロテスタント )の有力貴族として知られていました。最初の妻が世を去ると、彼はネーデルラント総督の娘のエリーザベト・ドランジュ・ナッソー( 1577-1642 )と再婚します。
アンリとエリーザベトの間の次男が軍人として名を馳せたテュレンヌ大元帥です。彼らの長男のフレデリック・モーリス・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ( 1605-1652 )が最後のスダン公となりました。
フレデリック・モーリスはルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿の失脚を狙った《 サン・マール侯爵の陰謀 》に加担、連座して領地であるスダン公領をフランス王国に没収される羽目となったのです。こうして1642年にスダン公領の歴史は幕を閉じました。
ポワン・ド・スダン
ー王立レース製作所の設置
16世紀以降、織物とレースの産業がスダン公国の繁栄を支えていました。当時スダン周辺で育ったフラックスを用いた亜麻糸は有名で、パスマン・シーツ・レースなどの材料としてよろこばれていました。それらはポーランド・リトアニア共和国やネーデルラント連邦、ドイツの諸侯に輸出されていたのです。
また、スダンの所在する地域は北ヨーロッパやフランドルと地中海を結ぶロレー ヌ街道の要衝に位置する好立地でした。
これらの条件によりコルベールはスダンの街に王立製作所を設置することを決めたのでした。
ルイ14世自身も1667年にスダン総督ファベール元帥の後任ラ・ブルリー伯爵ジョルジュ・ジスカールに宛てて、「 朕は貴殿にスダンの街とその周辺の村々でのレース製造を後押しするだけでなく、ポワンクト・ド・フランス( フランス独自のレース )の開発のためにレース商人への支援をも希望する。このレースに関する朕の企図が望み通りに実行されること以上に悦ばしいことはないと心に留めることだ 」と回想録に記しています。
このことは国王がこのレース製造にいかに関心を寄せていたかを証明しています。
王立レース製作所に関する著書の作者ニコール・オヴェール=ローデが記述しているように、スダンではヴェネツィア様式の技法を基にしたレースの開発が試みられていたのでした。
その2につづく
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