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ヴェネツィア・レースの真実 その3

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


ヴェネツィア・レースの真実

ー 生産地の考察

 【 ポワン・ド・ヴニーズ 】( ヴェネツィアのニードルレース)とは呼ばれていたものの、この言葉には「 ヴェネツィアで作られたレース 」という意味合いよりも「 ヴェネツィア様式のレース 」というニュアンスのほうが強いのです。

 《 ヴェネツィアがニードルレースの発祥の地 》という説が世の中には浸透しているようですが、初期の刺繍技法の枠内に収まっていたレースを基布を必要としない本格的なものへと発展させたのがヴェネツィアであることは先に述べています。

 しかしこれはプント・イン・アーリアという技法を考案したのがヴェネツィア周辺と考えられているからであって、ニードルレース自体がヴェネツィアの独壇場であった訳ではありません。

 当時の資料を調べてみると、16世紀から17世紀にかけてはヨーロッパの様々な国や地域でニードルレースは製作されていました。

 文化的先進国で経済的にも豊かであったフランドルや、イタリアから2人の王妃を迎えていたフランス王国などでも刺繍を基にした初期のニードルレース技法は導入されていたのです。

 ヴェネツィアは交易によりイスラム圏を経由してアジアの文物が流入していた土壌があり、東洋的なデザインを取り入れてレースを表情豊かなものへと変化させていきました。

東洋的な植物文様がデザインされた1660年ごろのレースの下絵
( クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館蔵 )

 これらの文化的遺産を背景に、1660年代には【 グロ・ポワン 】のような重厚なレリーフのあるニードルレースを開発してヨーロッパ諸国へ流通させたのです。

 グロ・ポワンはレース研究者が命名したフランス語の名称で、イタリアでは【 プント・ヴェネツィアーノ・ア・フォリアーミ・ア・グロッソ・リリエーヴォ 】( punto veneziano a fogliami a grosso rilievo )と以前は呼ばれていました。《 重厚なレリーフと枝葉文様をもつヴェネツィアのレース 》といった意味です。

 このレースは人々に驚きをもって迎えられ、やがて人々を羨望と熱狂の渦に巻き込んでいったのです。この衝撃によって、レースに《 ヴェネツィアの 》という地理的形容詞をつけて人々は呼ぶようになりました。

 結果、この様式のレースは「 全てヴェネツィア製 」という誤認を生むこととなったのです。

ー さまざまな可能性

 1665年に国王ルイ14世は、財務総監のジャン=バティスト・コルベール ( 1619-1683 )の献言を受け入れてフランス各地に《 王立レース製作所 》を設置することを決定しました。

ルイ14世の財務総監のコルベールは国王の治世の前半を支えた有能な閣僚でした
彼の献言により財政破綻寸前のフランス王国は経済的な豊さを取り戻していくのでした

 レース購入に関連した国内貨幣の流失を防ぎ、自国内に高級嗜好品の産業を興すことで職業安定と外貨獲得が企図されたのです。

 1665年10月には『 外国製レースからの国内産業の保護に関する王令 』を発布して、レース産業の奨励とともに保護政策を打ち出しました。

 この王令には興味深い内容があります。

 国王は諮問会議に出席され1665年8月10日の宣言を表明された。ケノワ・アラス・ランス・スダン・シャトー=ティエリ・ルーダン・アランソン・オーリヤックその他の各都市に拠点を置く製作所において、ヴェネツィア・ジェノヴァ・ラグーズその他の国のレースに倣って針とクッションを用いたあらゆる種類のレースを製造する。このレースを国王はポワンクト・ド・フランスと命名された。

1665年10月12日に発布されたヴァンセンヌ王令より

 この王令には、ジェノヴァのレースやヴェネツィアのレースと並んで【 ポワン・ド・ラグーズ 】( point de Raguse )と呼ばれるレースが外国製レースでの標的とされているのです。

 ラグーズとはイタリアでラグサと呼ばれていた現在のドゥブロヴニクの街のことで、この周辺には1358年にハンガリー王国から独立したラグサ共和国という自治国家が存在していました。

 15世紀から16世紀にかけてアドリア海と地中海貿易で絶頂期を迎えたこの街はヴェネツィア・レースと呼ばれているレースの生産地のひとつと考えられているのです。

 フランスへ導入された《 新たなニードルレース 》の技術は、ヴェネツィアやフランドルから職人を招聘することでもたらされました。

 1665年に与えられたレース産業への特権は1675年までのおよそ10年間でした。このあいだにも密輸は横行していたものの、外国製レースに高い関税をかけてフランスのレース産業は王室によって保護されました。

 フランス国内に導入された技術は特権が廃止されたのちには各企業の努力により技術を発展させていくこととなります。民間経営に帰すことこそが産業を育むとのコルベールの深い思慮によって、フランスではステッチなどの技法を洗練させていったのです。

 この王立レース製作所の政策は少なからず功を奏し、いくつかの都市ではコルベールを満足させる結果を得られたことは、彼の書簡からうかがい知ることができます。

 多くの繊維産業従事者を国外へ流出させた《 ナントの勅令廃止 》の1685年まで、ニードルレースの技法は改良されつづけました。こうしてレースは美しさと華麗さを兼ね備え、フランスにおいてデザインは優美さを高めたのでした。

 重厚なレリーフのヴェネツィア様式のニードルレースは教会の装飾などを中心に18世紀初頭まで作りつづけられたといわれています。

 そのほか、当時の記録をみると1680年にロンドンで刊行された『 Britannia Languens, a discourse on trade 』( イギリスの病, 貿易に関する対話 ) によると「 現在イギリスで一般にポワ ン・ド・ヴニーズと呼ばれるレースは主にフランスから輸入されており、年間では膨大な額になっている 」との記述があることをレース研究家のサンティナ・リーヴィーは指摘しています。

 同じくリーヴィーはその著書で、初代マンチェスター公爵のチャールズ・エドワード・モンタギュー( 1662-1722 )が 駐ヴェネツィア全権大使の任を解かれ1698年ヴェネツィアからイギリスへ帰国した際にポワン・ド・ヴニーズの価格に不満を述べ「ロンドンでもパリでも、安くて同じくらい良い模様のものが手に入る」と記している。との記述もしています。 

 ジャック・サヴァリ・デ・ブリュロン( 1657-1716 )は『 商取引辞典 』のなかでポワン・ド・ヴニーズと呼ばれたニードルレースについ て触れて「( 18世紀初頭には )フランス人はもはやこれらの商品を購入せず、アドリア海のものに匹敵する製造業を確立している」と指摘しているのです。

 マーガレット・ジュールダンはその著書『Old Lace』のなかで緑色の羊皮紙に包まれた未完成のレースを紹介しています。

 「 このレースはヴェネチアン・レースの渦巻く花のスクロール文様を非常に正確に再現していますが、花の茎の部分は織られたテープで作られていて小さな葉と花だけが平らなニードル・ レースです。この作品は18世紀前半にフライブル クのフォン・ヴィスリングホーフ夫人によって製作されたといわれています」

マーガレット・ジュールダンの著書 『 Old Lace 』より
ヴェネツィアではなく他所で作られた可能性の高いニードルレース ( 1680年代 )
私の独自研究によりのちにフランスのニードルレースで用いられた特徴的なステッチが使われているのが判明しました

ー おわりに

 今回は、ヴェネツィアのレースについて3回にわけてお話ししてきました。

 長年レースを蒐集してきて私が疑問に感じたのは、同じヴェネツィア・レースと呼ばれるレースのなかにも相違点があることに気づいたのがきっかけでした。

 最初は、職人の「 手 」の違いによる技術的な差異なのかと思っていたのです。しかし【 グロ・ポワン 】や【 ポワン・ド・ヴニーズ 】と一まとめに括られて呼ばれているニードルレースは実に千変万化、とても変化に富んだものなのです。

 モチーフの大きさ、レリーフの盛上げの厚み、ステッチの多様性、デザイン構成など、そのほかにも比べればさまざまな違いに気づかされます。

 このヴェネツィア・レースの謎について調べてわかったのは、このタイプのニードルレースが決してヴェネツィアのみで製作されたわけではなかったということです。

 人気も高く多くのヴェネツィア製レースが流通していたヨーロッパ諸国に対して技法を秘匿することは難しく、厳しい罰則を課しても他国に流出する職人をヴェネツィアは留めることが難しかったのです。

 【 ポワン・ド・ヴニーズ 】は世の中で語られる《 ヴェネツィアで作られたレース 》ではなく、実は《 ヴェネツィアで考案されたレース 》なのです。


おわり

 

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