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シフリ手刺繍機

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


産業革命とレース産業

ー ヨシュア・ハイルマンの発明

 今回は以前レオポルド・イクレについての記事で触れた自動手刺繍機を取り上げたいと思います。

 イギリスで興った産業革命は主に繊維産業に恩恵をもたらしました。当時の繊維業はヨーロッパ諸国だけでなく、植民地の現地市場で繊維製品を流通させることにより本国に莫大な利益をもたらしていたのです。

 産業革命は繊維業と関係が深く1733年にJohn Kayジョン・ケイ( 1704-1779 )が「飛び杼」を発明したのにはじまり、織機の改良に合わせるように1764年のJames Hargreavesジェイムズ・ハーグリーヴス( 1722-1778 )のジェニー紡績機、1769年のSir Richard Arkwrightリチャード・アークライト卿( 1732-1792 )の水力紡績機、Samuel Cromptonサミュエル・クロンプトン( 1753-1827 )のミュール紡績機が1779年に開発されて、紡績業を中心に漸進的な技術開発が進められました。

 19世紀に入りこの工業化の波は刺繍産業へも影響を及ぼします。Joshua Heilmannヨシュア・ハイルマン( 1797-1848 )が、フランスのミュールーズ近郊で最初の手刺繍機を発明しました。

 ハイルマンは、1829年にこの発明に対してフランスでの特許を取得しました。この刺繍機はドイツ語でHandstickmaschineハントスティックマシーネと呼ばれています。

ハイルマンの「手刺繍機」の仕組
左手の図案を《 パンタグラフ 》と呼ばれるアームでなぞると連動した複数の針が同時に刺繍する
初期のシフリ刺繍機

 この機械は1834年にフランスで開催された産業博覧会で展示されました。1836年には『 Société industrielle de Mulhouse 』ソシエテ・アンデュストリエル・ド・ミュールーズ( ミュールーズの工業界 )の会報と、ドイツの『 Polytechnisches Journal 』ポリテクニッシェ・ユールナル( 政治新聞 )にハイルマンの刺繍機についての説明が掲載されました。

 しかし、この発明が産業機械として導入されるのには1850年ごろまで待たなければならなかったのです。

ー シフリ刺繍機

 このハイルマンの機械を基に最初のシフリ刺繍機の開発が、1863年からIsaak Gröbliイザーク・グレーブリ( 1822-1917 )によって進められました。彼はスイスのウツヴィルにあるベニンガー社で試作を重ねたのです。

 1864年には、J.J.Rieterリーターがヴィンタートゥールでこの研究をさらに発展させました。のちにグレーブリとリーターは数年かけて改良を重ね、最初の実用的な機械は1868年に発売されたのです。

 しかし、このシフリ刺繍機が産業界に流通しはじめたのは1870年代に入ってからのことでした。この刺繍機は1875年にはグラスゴーに、1876年にはニューヨークに初めて輸出されました。 

シフリ刺繍機 ( 1870年ごろ )

 1880年までにリーターは300台以上のシフリ刺繍機を販売しました。その頃になるとスイスのアルボンに所在するザウラー社やフラウエンフェルトのマルティーニ社がシフリ刺繍機を開発して競合し始めました。

 またドイツ、ザクセンのプラウエンに所在する機械メーカーのJ.C.&H.ディートリッヒ社( 後のフォクトレンディッシェ・マシネンファブリークAG )とケムニッツ・カッペルのマシネンファブリーク・カッペルAGもシフリ刺繍機の製造を始めました。

 これらの企業は、スイス東部のザンクト=ガレンを中心とした繊維産業界で取引を展開したのです。

 1898年に、それまで手動式だったシフリ刺繍機をイザーク・グレーブリの長男Joseph Arnold Gröbliヨーゼフ・アルノルト・グレーブリ( 1850-1939 )が全自動に改良した機械を開発します。

 この自動化には《 パンタグラフとオペレーター 》の代わりにジャカードの《 パンチカードリーダー 》が採用されました。1912年から14年にかけてザウラー社もパンチカードリーダーを導入し自動化の波が押し寄せることになります。

紋紙《 パンチングカード 》を利用したジャカードのシステム

 しかし紋紙を用意するのは比較的経費がかさむので、手刺繍機による刺繍は小ロット生産の注文では相変わらず使用され続けたといいます。

 19世紀末からザウラー社は非常に多くのシフリ機を製造・販売していました。1910年にはスイスでは4,862台のシフリ刺繍機が稼働していたそうですが、それに対して手刺繍機は15,671台も稼働していたのと伝わっています。

 しかし、そのような産業を下支えしてきた手刺繍機も1890年以降に衰退していってしまうのです。

 それはシフリ刺繍機がある種のレースを作るのに特に能力を発揮したからにほかなりません。ひとつには《 ブロドリー・アングレーズ 》と呼ばれるアイレット刺繍と、そしてドイツ語でÄtzspitzeエルツスピッツェと呼ばれる 1883年に発明された絹地に綿糸で刺繍をほどこして、その絹地を強アルカリ溶液で溶かし取り除いて綿糸の刺繍だけを取り出す《 ケミカル・レース 》の技術でした。

 ドイツのプラウエンは機械レース産業で知られていましたが、これはシフリとは別の種類の刺繍機で《 レース・マシン 》と呼ばれていました。

 米国の企業家たちは自国産の刺繍製造の可能性を見出して、1900年代初頭にはシフリ刺繍機が導入されました。ザンクトガレンからニュージャージー州ハドソン郡に多くのスイス人が移住して、同地での刺繍レース産業の確立に貢献したといわれています。

20世紀初頭には手動刺繍機でも長大な幅の生地に刺繍することが可能となりました

 1890年ごろから1910年ごろにかけてがザンクト=ガレンの刺繍産業の全盛期で、ザンクト=ガレン近郊には多くの刺繍工場が操業していました。

 スイスの家内工業として家庭で使われてきた手刺繍機に比べると、シフリ機はとても高価で大きな投資を必要としていました。また当初は手刺繍機の方が品質が高かったのです。

 それまで手動で機械を稼働させて一針一針縫っていた手刺繍機のオペレーターたちは新しい機械を受け入れようとせず、自分たちの仕事が機械に取って代わられるのではないかと恐れたのでした。

 ザンクト=ガレンのあるスイス東部だけでも1908年までに約16,000 台の手刺繍機が未だに使用されていたのです。

 しかし最終的にはシフリ刺繍機の刺繍の質が向上し、自動化された機械は手動の機械よりもはるかに効率的だったことが注目されるようになりました。

 初期の刺繍機はさまざまな博物館に保存されています。ドイツのプラウエンにある刺繍発見館、スイスのノイタールにある産業文化博物館、ザンクト=ガレンの繊維博物館などでは実際に稼働している刺繍機を見ることができます。

 スイスのアルボンのザウラー博物館には手動式と後期のシフリ刺繍機のほか、関連する針糸通し・ボビン巻き・カードパンチ・カード複製機などが展示されています。

 シフリ機は現在も使用されていて、近代化はされていますが基本的な形状は今でも確かめることができます。ザウラー社は今でもシフリ刺繍機のトップメーカーとして知られているますが、しかし紋紙は現代ではコンピューターに取って代わられました。

ザウラー社のシフリ自動刺繍機

 1912年に発行されたフォクトレンディッシェ・マシネンファブリークAGのカタログには13,000台の刺繍機を販売したと書かれています。最初の発売から1,000台に到達したのは11年後、最後の1,000台はそれから7カ月後という急激な伸び率でした。同社は従業員3600人を雇用して、当時はザクセン州で2番目に大きな機械メーカーでした。

 カタログに掲載された写真には、ボイラー室・275馬力の蒸気機関・500馬力と1000馬力の発電用タービンが写されています。ザウラー社の工場内には機械開発・鉄工所・鋳造所・機械工場・シャトル刺繍機やジャカードシステムの組立工場などがありました。そして自前の消防団も運営していたのです。またカタログには、プラウエンやザンクト=ガレン近郊の大規模な工場設備の画像もいくつか掲載されているのです。


手動式シフリ刺繍機のレース

ー 17世紀ニードルレースの模倣 

 シフリ刺繍機は古いニードルレースに着想を得た、古典的で複雑なステッチのケミカル・レースの製造に著しく能力を発揮しました。

  19世紀末から20世紀初頭にかけて流行した復古調のスタイルは、アンティークレースを元にした17世紀のヴェネツィア様式のニードルレースのリプロダクションの人気を後押ししました。

古典的なレースを元にしたケミカル・レースのデザイン ( 1900年代初頭 )
1904年に刊行されたサミュエル.L ゴールデンバーグ『 Lace, Its Origin and History 』から 

 1904年に刊行されたサミュエル.L ゴールデンバーグの著書に掲載されたこの画像では、現在のケミカル・レースとほぼ同様のステッチや技法が見られ20世紀初頭にはすでに基本的な技術は完成されていたことがわかります。

 しかし、現代では再現が不可能な非常に複雑なケミカル・レースも高級品として作れられました。それらのレースはアンティークレースとして捉えてもおかしくない、工芸品のような技術と芸術性を備えてたマシン・レースなんですね。

私の所有している手動式シフリ刺繍機で作られたケミカル・レース
17世紀の手工芸的なレースを機械で極限まで再現した複雑なステッチが見られます
20世紀初頭のフランスの偉大なレース・コレクターのアルフレッド・レキュール
がこのレースを所有していました
現代のケミカル・レースでは再現できない高度な刺繍技術で作られています
17世紀のニードルレースに見られる特徴的な盛上げレリーフとピコット装飾も再現されています

 博覧会に出品されたような特別な作品を除いては、マシン・レースはアンティーク・レースのコレクションアイテムとは見做されていません。しかし、この手刺繍機で作られたケミカル・レースは別格なのです。

 オークションにもあまり出品されませんし、市場にもあまり出回りません。

 19世紀には機械製のシャンティ・レースやブロンド・レースなどが、ハンドメイドのボビンレースと遜色のない品質まで技術を向上させたりもしています。

 当時の技術革新の目的は安価な粗悪品の製造ではなかったのです。その情熱はいかにして素晴らしいレースを機械生産するかという職人たちの日々の努力と、それを再現するための技術の向上に向けられていたのでした。


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