企業理念2.0 理論・提言編 リネンのリンリ ~失われた企業理念を取り戻せ
2012年11月18日発行 ロウドウジンVol.5 所収
企業理念は企業の持続的な発展のためには必要不可欠である。しかし、既存の企業理念を通してみえてくるのは、実現度/意識の二軸にマッピング可能な記号の戯れにすぎない。定量的に分類可能なそれらは、もはや価値を失っているといっても過言ではない。個々の問題点については下表を参照いただきたい。
※ここで挙げているデメリットは特定企業をイメージしたものではありません。象限の定義は現状分析編を参照。
そこに反社会人サークル的ニヒリズムを導入すると、次の疑問が生じる。企業理念は本当に必要なのか、と。
企業理念の必要性
具体的な例を取り上げよう。企業理念は、資本主義社会における経済活動主体としての企業に対するアンチテーゼとして機能する。拝金よりも精神性。そのような偽善はインターネット/SNS全盛の現代においては、某テレビ局の報道中立性なみに見透かされている。そのような企業理念なら、むしろデメリットしかないのではないだろうか。
また別の例を考えたい。就活生や投資家にとっても、フラットに並列化された情報環境(リクナビ等)の恩恵は大きい。カタログとして蓄積されたメタ情報は、高度な情報処理能力によって区別され、ある種の権力として定量化される。そこに以前のような企業理念による企業文化の確立は不要だ。
しかし、企業理念の消費は外部だけではない。内部、すなわち社員のために企業理念はなくなってはならない。
企業理念の維持コスト
確かに団結のために理念は必要だ。企業理念が社員の個人理念の集合として存在するのならば良い。しかし、実態はそうなってはいない。個人主義の台頭により、かつてに比較して多様な価値観が溢れている。それらを許容できるような単一の企業理念を構築するには、多大なコストが必要になる。
また大きく変動し続けるビジネス環境の中で、企業理念はその潮流に追従していかなければいけない。しかし、音が秒速340メートルで伝わるように、桜の花びらが秒速5センチメートルで落ちるように、情報の伝播にはギャップが存在する。どんなに高頻度に更新し続けても、企業理念が普及するころにはすでに時代遅れになっている。まるでアキレスと亀のパラドクスである。
このように社員満足度の高い企業理念を激動の時代に維持し続けるには、途方もないコストが必要であり、現実には不可能だといえる。すなわち、必要とされる「企業理念2.0」は、維持にコストがかからない企業理念だと言えよう。
メンテナンスフリーな企業理念
維持不要ということは、そのままほっぽらかしになっているということではない。その意味するところは次の二つだ。
1.極度の汎用性を有する
2.自動的に更新される
極度の汎用性とは、時代の変化にともなった、その瞬間瞬間に応じた多様な解釈が可能だということを指す。また自動的な更新とは、人間が維持作業をしなくても、企業理念が更新され続けることを指す。最新企業理念マッピングで利用した二つの軸──実現度と意識、そこに囚われた企業理念である限り、無限にメンテナンスを繰り返す地獄しか待っていない。求められているのは虚軸、紙面を突き破ってその向こう側に到達する、そんな発想だ。未来の企業理念は、二軸に支配された企業理念のゲーム盤から脱却する必要がある。バトルロワイヤルものの定石通り、ルール自体を無効化したうえで、そこに新しい価値観を導入する。それが企業理念2.0だ。
われわれの結論を示そう。企業理念2.0には、次の二つの方向性が考えられる。
1.企業理念と社名(商号)の一体化
2.再帰性・インタラクティブ性の導入
本章は「理論・提言編」として、企業理念2.0を模索した。導き出された二つの方向性は、具体的にどのように実装されるべきなのか? 次の記事では「実践編」と題して、実装例を紹介しよう。それは本誌のために実施された、新しい未来に向けた実験的成果である。
雲散霧消(クラウド)化する企業理念
1990年代後半から2000年にかけての数年は、日本犯罪史において特徴的な時期だった。この頃に発生した犯罪の特徴は、加害者が少年であることだった。神戸児童連続殺傷事件、豊川市主婦殺人事件、西鉄バスジャック事件、山口母親殺人事件……。「キレる十七歳」と名付けられた彼らのスタイルには共通点が少なくない。とりわけ着目されたのが、それらが「理由なき犯罪(殺人)」である点だった。
理由なき犯罪。そこに本当に理由がないのか、筆者には疑問でもあるが、それは企業活動においても同様のことがいえる。ほぼ同時代的にコーポレートガバナンスの必要性が声高に叫ばれるようになり、2005年に会社法が制定される。そこにはコンプライアンス(法令遵守)やCSR(企業の社会的責任)の要請が背景にある。すなわち、前世紀までの日本の企業活動においては、資本主義的な成長を追求するあまり、「理念なき企業経営」が行われていた側面がある。
理念なき企業の跋扈の果てには、荒廃した市場環境しか存在しえない。では、企業理念はなぜ必要なのだろうか? それは企業、とりわけ大企業が個々の労働者の集団としての団結を維持・発揮するうえで肝要だと考えられるからだ。
そもそも、企業理念とは創業者のものである。創業当初の顔の見える範囲であれば、わざわざ企業理念という形式で明文化しなくても、目指すべき姿としての理念の共有は容易だった。しかし、会社の発展とともに新しいメンバが入ることや、企業活動に追われることでの忘却等により、理念は徐々に失われていく。だからこそ、第一原理として明文化し、共有する必要があるのだ。そのようなたゆまぬ努力の帰結として、企業の独立性や社風が確立される。それなくしては、企業の持続的な発展は考えにくい。
雲散霧消化……。企業理念もいまや交換可能であり、所有から利用への変化を遂げようとしているのである。
DEMPAエッセイ 間違いだらけの後期高齢父さん
ここまで本特集を読んでもらえればわかるように、企業理念には、「平和」や「感動」、「幸福」など、理解はできるもののすんなり描写できない言葉が使われているケースが多い。こうした言葉は、各個人がそれぞれのイメージで認識しているものだ。したがって、価値観の多様化した現代において、これらの言葉の使われた企業理念に対して人々の想像するものは多様であり、イメージの齟齬は避けられない。
理念はジャック・ラカンの言うところの想像界にある。ところが、企業理念はそれを言語活動の場に持ち込む。つまり象徴的なものであり、また企業理念を与えるものは父であり、またその手続きにおいて去勢が行われる。
ここで現代の日本社会を考えてみよう。大企業のルールに人々は縛られているものの、大企業は旧来の形骸化した企業理念を捨てず、新しいヴィジョンを得られずにいる。この状況を打開するにはどうすればいいのだろうか。
そのような形骸化した企業理念を生み出した父は、もはや寝たきりで父性を示すこともできない。したがって、日本の医療制度に倣って「後期高齢父さん」と呼びたい。日本の復活のためには、後期高齢父さんを叩き起こし、父性の復権が必要なのである、と言いたいところだが、そうした言説は空虚だ。価値観の多様化が進むにつれて父性は常に失墜し続けているし、それを食い止めるにはインターネットを禁止するくらいしか手段がない。いずれにしても後期高齢「倒産」は避けられない。
そこで、一つの戦略として、去勢なしの企業理念というものを考えてみたい。それは、想像界が直接表現される企業理念である。どのようなものか。特定のターゲットにおいてほぼ確実にイメージが共有されるが、それ以外のターゲットには何も伝わらないもの、例えば萌えキャラが挙げられる。それにより常に母親の居続ける世界を作り出し、父を必要とさせない。しかし萌えキャラが企業理念だという時点で明らかなように、社会性は著しく欠け、また萌えキャラによりコンテクストを共有している社員は常に満足状態にあるため、市場競争を行うことは難しい。この戦略が成り立つのは、あらゆるコミュニケーションの壁が崩壊し想像界と象徴界が重なるのを待つしかない。
もう一つの戦略もある。シニフィアンの循環を作り出すことだ。この循環は完全でなければならない。もし循環が不完全で、シニフィエなしのシニフィアンが存在してしまうと、それは「対象a」=ファルスが示され、去勢が必要だということに他ならないからである。そうではなく、永遠に循環することで、純粋な象徴界を作り出し、想像界と切り離す。これによって、去勢は必要なくなるし、各個人のイメージの齟齬を低減し、会社に一体感をもたらす。団結は達成され、企業のヴィジョンはステークホルダーに共有される。
さて永遠に循環し続ける企業理念とはどういうものか。それがわれわれの提唱する一つの方向性である「再帰性の導入」された企業理念なのである。