VRChatは、VR体験を豊かにするだろうか?

本稿は、ある程度VRChatの文化を理解している人、VRに興味がある人向けのものになっている。この記事を読んでVRChatについて知ろうとか、VRChatの楽しみ方を知りたい!という人にはあまりおすすめできないので、その辺を理解してもらえると嬉しい。

VRChat、楽しんでる?

VRを手に入れたのであれば1度は訪れてみたい、不思議でカオスな世界。人々は好みの容姿を纏って、ユーザーが用意した様々なワールドへとjoinして、各々好きな時間を過ごしている。

僕自身、VRChat(以下より、VRCと略称)にはUserになる程度は訪れている。Publicで知らない人と仲良くなったり、友達とゲームワールドで遊んだりして、それなりに楽しくVRCを遊んでいるつもりだ。

そんな中で、僕がVRCを遊ぶ中で抱いた疑問について、考えをまとめようと思う。ここから先の話は完全に僕の主観で恣意を進めていく話なので、ぬるめの気持ちで読んで欲しい。異論は認める。

VRCの楽しみ方、それで本当に正しい?

先に言い訳をしておくと、VRCの楽しみ方に正しいも間違ってるも存在しないと思っている。表現媒体としてのVRCもまた、そう思う。僕は昔から物事を「正しい」か「間違っている」かで分類する癖がある。もちろん、その間に多少の振れ幅は存在するのだけど、基本的にド主観で自己中な僕はそういう考え方をしてしまう。なので、この先もそういう表現が出てきた時は本来の意味での「正しい」「間違っている」というよりも、そう言ってとりあえず分類することで恣意のコマを進めているんだな、程度に考えて欲しい。

今回僕が伝えたいポイントは、簡潔にまとめると「VRCはユーザーの消費の質を下げて、VR文化全体の発展を阻害しないか」という事だ。

ここで、「消費」について定義しようと思う。
ずばり、ユーザーがVRコンテンツを利用すること。具体的には、VRC内のワールドギミックもしくはイベント等でユーザーが遊んだり体験したり、交流したりすることなど。これらを総称して「消費」と呼ぶことにする。

ここから、大きく分けて2つの疑問をメインに話を展開していく。

1.コンテンツの多機能化

VRCはVRSNSである、という話を色々な所で見かける。これに則れば、VRCの目的とする所は人同士の交流だ。その過程で、クリエイティブなユーザー達がより面白く交流するために作り出したワールドが、ゲームワールドやイベント等である。

VRC内のとあるワールド。見ての通り、某タワーバトルを模した設計のゲームワールドである。

ここで1つ目の疑問である。
無料で遊べて色んなゲームができて友達ともお喋りできる。ちょっと楽しすぎるのだ。コンテンツが集約しているし、導入も簡単。これはまさにVRコンテンツのショッピングモール、イオンである。田舎のイオン現象、とでも名付けようか。

田舎にイオンができると、商店街は瞬く間にシャッター街と化す。これと同じ現象がVRコンテンツにも起こりかねない、というか起こっている。具体的には、Steamなどで買えるVRのゲーム。わざわざお金を出さなくても、VRCで同じような体験が出来てしまうのだ。

当然、質はかなり下がると思う。ゲーム会社が金をかけて作ったゲームと素人制作のゲーム、どちらが質が高いかは明らかだ。しかし、VRCはゲームだけでなく、気の合う仲間たちとお喋りを楽しみながら、もしくは激カワ無言勢のお気に入りちゃんを愛でながら、ゲームを遊べる。しかも無料。人は無料に耐性がない。質の高いゲームをするよりも、こっちの方が快楽の総生産が多いのである。

この快楽は人を盲目にさせる。作り込まれた1つの体験よりも、色んな要素の総和の方が、表面的な満足感が高い。しかし、本質的に豊かなのは前者である。

これのおかげで、ユーザーはコンテンツを使い捨てるように消費するようになる。この消費の仕方は、まさしく現代の大量生産・大量消費のそれであり、豊かな消費とは言いにくいのではないだろうか。

VRが実現しうる体験は、ほとんどVRCでまかなえる。それは本当に豊かなVR体験なのだろうか?そして、VR体験がVRCで完結することは、VRの発展を目指す上で正しいことなのか?これが1つ目の疑問だ。

2.VRCはVRの持つ特性にフィットした文化形態か


~とあるVRChatterの一日~

あ~、今日も一日疲れたなあ。とりあえず、ブラウザからVRCにログインして……お、アイツ今日オンラインじゃん。ちょっと遊びにいこう。

……いや~、今月そのマヤちゃんに何万溶かしたんすか?めっちゃかわいーです……○○さん、お酒飲みすぎですよー。明日仕事なんでしょ?その辺で……ちょっとフレンドにあいさつ回りして来ますね。それじゃ……

……ふう、 もうこんな遅い時間になっちゃったな。今日はこのままVR睡眠かな。睡眠ワールド行こう。


これ、ほとんどのVRCユーザーがこんな遊び方をしていると思われる。ここで重要なことは、こういった遊び方はVR体験を楽しんでいるというよりも、SNS的側面が強くなることで出来上がる馴れ合いの文化、インターネット特有のコミュニケーションを楽しんでいると言えることだ。

VRでSNSを楽しむこと。ひとつ前の主張ではスルーしていたけど、これはそもそもVR体験として正しいのだろうか?これが2つ目の疑問だ。

VRCを楽しむ、という意味では全く間違った遊び方では無くて、むしろ良く楽しめていると思うが、今回はVRの体験としてそれは正しいのか?という論点で話していこうと思う。

VRが持つ特性として、現実とは全く異なった体験、特有の世界観におけるオルタナティブな日常、などが考えられる。つまり、非日常的な経験を得られるということがVRの大きな魅力であると思う。
それに対して、SNSの持つ特性はまさしく日常の延長である。リアルで面識があるないに関わらず、自分の日常を他人に伝える媒体として、SNSが存在する。

VRCは、VRを体験する舞台でありつつ、メタ的要素を含んだSNSとしての側面を持つ。VRCがVRSNSである、このこと自体が 、豊かなVR体験を日常の代替にすり替え、それがあたかもVRの意義として人々に定着しつつあるのではないだろうか?
それはなんだか勿体ないような気がするし、正しいVRCの遊び方なのだろうか。

こういったことを考えると、果たしてVRCはVRに最適な文化形態であるのかという疑問も生じる。VRとSNSはお互いに二律背反の特性を有しているため、まったく親和性のない物なのだろうか。いや、それは行き過ぎた極論であると思う。VRでSNSを楽しむことは、VR文化の一つの形であるし、これを否定することは文化の発展を阻害する。というか、現にVRCがVRの発展に寄与する事例は山ほど存在するだろう。

SNS性がVR体験にいい影響を与える場合も多く存在する。ここで重要なことは、ある意味SNSが持つ生産性の無さとどう向き合っていくか、それがVRになった時に界隈の成長を阻害しないかという点にある。要は心配なのだ。VR界隈が。

丁寧なVRC生活を送ろう

これまで長々とVRCの楽しみ方について書いてきたが、基本的に楽しみ方は人それぞれだ。お砂糖するもよし、クリエイターとしてアバターやワールドを作りまくるのもよし、そんな多様性がVRCの持つ魅力の一つであると思う。

しかし、そこにプラスして、大きな視点からVR全体の魅力を意識して欲しい。いままで知りえなかったもうひとつの世界、非日常、これはVRCのみならずもっと大きな電子の世界に、HMDを通して見つけていけるはずだ。
豊かなVR体験は、僕らがまだ気づいてないところに溢れている。

いいなと思ったら応援しよう!