取り留めのない会話(1)-遠くて近くにいる者

「一体楊ぜんの奴は、何をしておるのだ?
もう、三十分も待っておるというのに…」

 神界の入り口で一人の青年が愚痴を零している。

 彼の後ろに隠れるようにして、主を待つ犬型の宝貝-パオペイ-であるこうてんけんも、大きな欠伸を一つして体を丸めた。

 その主である楊ぜんは、神界では変化の術の使い手で有名である。

 青く長い髪を持つ彼は端(はた)から見て女性を思わせる姿をしていた。 

 容姿端麗という言葉は、彼の為にあるのかもしれない。

 片や待ち侘びている彼の名は太公望と言って、楊ぜんよりも背は低く、髪も黒くて短い。

 しかし容姿とは裏腹に頭がきれて、誰に対しても平等な態度が、人間や仙人達に安心感を与え、信頼を得ていた。

 そんな彼が何の因果か、今下界ー人間が住む場所を仙人達はこう呼ぶーに身を置いている。

 実は今日が下界へ向かう日であるのだが、楊ぜんが用事があると言って、彼を引き止めていたのだった。

 言い忘れていたが、実はいん周革命から三千年もの月日が流れている。

 そして人間達には気付かれないように、封神の儀式ーいん周革命を含むーが三回程行われていた。

 太公望が下界へ降りたきっかけは、今からおよそ百年前後に行われた、第三次封神計画であった。

 封神の儀式ー死んだ仙人達を神として命じることで、会社でいうなら辞令のようなものであるーの最中に幾人かの亡者達が、仙人達の弟子になりたくないと言わんばかりに、神界から逃げ出した。

 その彼等を捕獲するべく、儀式の最高責任者である太公望が下界へと降りたのである。

 実際には、時間がかかったものの半数以上は無事捕獲・封神されたが、未だに二人は雲隠れしている状況であった。

 彼には、もう一つの顔がある。

 そのきっかけは、今年初夏の雨の日に、日頃の疲れが溜まってしまったのか、過労のせいで倒れているところを、縹夫妻に助けられた事に始まる。

 太公望はこの縁を利用して、下界でいう中学生になりすまし、例の二人を探していた。

 因みに下界での名は、縹宝ーはなだ・たからーと名乗っている。

 何はともあれ、太公望は下界で仕事と遊びを両立し、それなりに楽しんでいるようだ。

「…空が青い」

 下界よりも青く澄んだ空を見上げ、溜め息混じりに呟いた太公望は、未だ来る気配がない楊ぜんに痺れを切らし
「おぬしの主人は一体何をしておるのかのう?」
と、こうてんけんに語りかけながら傍にしゃがみ込む。

(まあまあ、もう少しのんびりと構えて待ちましょうよ)

彼のつぶらな瞳に、そんな言葉が浮かんでいる。

 そして、置かれた太公望の左手を、彼は頭でぐいっと押し上げたその瞬間
「お待たせしました、師叔(スース)」
という、優しく語りかけるような声が、背後から聞こえた。

「…遅かったではないか、楊ぜん」
「申し訳ありません、もう少し早くここへ来たかったのですが、元始天尊様に引き止められてしまって」

 呆れながら立ち上がってそう言った太公望に、楊ぜんは苦笑して謝る。

「それにしても、その右手に持つ色とりどりの袋は一体何だ?」

 振り向き様に不思議な表情(カオ)で訊ねた太公望に
「ああ、これは先程天界へ帰えられたじょか様から託されたものでして」
と、楊ぜんはまるで何事もなかったかのように、微笑んで言った。

「まさか、その袋に下界のお菓子を沢山入れてくるように頼まれたのではないだろうな?」
「そのまさかです」

 楊ぜんの答えに、引き攣り笑いを浮かべ
「仕方がないのう…次に帰る時にお菓子を詰め込んでくるようにしよう」
と、太公望は溜め息混じりにそう言った。

「じょか様にも、そのようにお伝えしておきます。」

 空いていた左手で、風に靡く青く長い髪を押さえて喋る楊ぜんに
「髪が邪魔なら、縛ってくればいいではないか」
と、機嫌が直ったのだろうか、太公望はニッコリ笑って言った。

 暫くの沈黙の後、頭上に広がる大空に目を向けた楊ぜんが
「それにしても早いもので、ついこの間神界に帰って来たと思ったら、あっという間に三日が過ぎてしまいましたね」
と、何処かしみじみとした口調で言った。

 涼風が彼の頬を優しく撫でる。

 それは、楊ぜんにとって慰める風と言っても、過言ではない。

「次に帰って来るのは、下界でいう冬休みだとか…」
「うむ」

 太公望はこくりと頷き
「今回は扇の機転で学校を休むことが出来たが、これから先は高校へ入る為の受験というものがあるらしいから、そう簡単に神界へは帰ることが出来ぬかもしれぬ。
へたをすれば冬休み返上で、勉強しなければなるまい」
と、自分の身に起きる少し先の未来に、決心した口調で言った。

 しかしその裏ではきっと、勉強などしたくないという気持ちが隠れていることぐらい、楊ぜんにはお見通しである。

 それを敢えて言わず彼は
「そうですね…」
と、苦笑して言った。

(ああ、このまま何も喋らなければ、彼は行ってしまう…)

 内心で焦りを感じてしまった楊ぜんは、何を思ったのか
「下界は楽しいですか?」
と、太公望を見据えて訊ねた。

「何を言うかと思えば…」

 彼は不思議な表情-カオ-をした後、理解し難いと言う代わりに、小さく首を傾げた。

「今更そんな事訊かんでも」
「真面目に訊いているのです」

 さも面倒臭そうに外方を向く太公望に対し、いつになく真剣な眼差しで問う楊ぜん。

 太公望はチラリと、まるで目配せをするかのように楊ぜんを見るが、やはり気迫があって直視出来ない。

「まあ、それなりに楽しいぞ」

 太公望は苦笑を交えながらも、ありきたりな言葉を口にすると同時に、渋々楊ぜんへと瞳を向けた。

 このような瞳になった楊ぜんは、どんなに誤魔化そうとしても、誤魔化しきれない。

「遠い過去(ムカシ)には、下界に住んでいたあなたの家族や仲間など、多くの者がちゅう王が率いるいんに殺されました」
「そうであったな…」
「更に僕を含むかつての第一次封神計画に参加した仙道達も、今は封神の儀式により、あらゆる神となって、下界には自由に行き来出来ない状態です」
「…」
「そんな知人などいない、ましてや見ず知らずの方達と共に生きていくことに、辛さを感じないのですか?」
「楊ぜん、何を言って」
「彼等は僕達神界に住む者よりも寿命が短い。それを考えると、いずれ彼等がいなくなった時、寂しくてどうにもならなくなるのではないかと、心配になるのです」

 不安で今にも潰れそうな心を、吐き捨てる楊ぜんの姿が痛々しく思えて、どんな言葉をかければいいのか、太公望は悩んだ。

 でも、この言葉がきっと合っているのだろう。

太公望はスーッと瞳(メ)を細め
「要するに、再び下界に降りたら、このまま帰ってこないかもしれない…そう言いたいのだろう?」
と、彼の本心を代弁した。

 痛いところを突かれた楊ぜんは、ゴクリと唾を呑み込む。

 “見透かされている"

 この思いがますます彼を動揺させ、言葉を失わせていった。

「そうです、永遠に生き続けることが出来る師叔(スース)が、縹夫妻や出会った人達から受け取った優しさや温もりが、いつまでも忘れることが出来ずに、亡くなってしまった後も下界に留まろうと考えてしまうのではないか…その思いが強くなっていく気がしてならないのです」

 太公望の気迫に負けじと、本音を曝け出す楊ぜん。

「うむ…なるほど」

 太公望は彼の本心を受け止めんが為に、大きく頷いて
「そんなに心配せんでも、必ず帰って来るから、安心せい。
わしが最後に帰って来る場所は、ここ神界だからのう」
と、笑いながら言い放つ。

 これで少しでも彼の気持ちが落ち着いてくれれば良い……

 太公望は今できる限りのことをした、そう思ったのだろう。

「…太公望師叔、僕はあなたを下界へ行かせたくありません。
これは僕の我が儘ではなく、神界にいるみんなの意見です」
「そうか、それでは皆の者に伝えるが良い。
わしのことを心配してくれ有難う、とな」

 そう言って太公望は、楊ぜんが持つ袋を受け取ろうと腕を伸ばした。

(どうすれば、彼を引き止められる?)

 楊ぜんは自問自答しながら、彼に袋を手渡そうとするが、何故か途中でやめてしまう。

「何をしておる、楊ぜん?
用事がないのなら、もう行くぞ」

(用事なら…)

「白鶴童子が運転する黄巾力士-コウキンリキシ-に乗って、もう下界へ向かわねばならぬ。
準備も出来ている頃だ、わしはそろそろ行くぞ」

 再び黙ってしまった楊ぜんに、とうとう痺れを切らした太公望は、最後の別れとして、そう言った。

 そして、ろくに返事をしない楊ぜんから離れようとして、くるりと背を向けた。

「さらば、こうてんけん。
楊ぜんとおとなしく待っている…うわっ!?何をするか…」

“離せ、楊ゼン”と、彼の腕の中で藻搔き叫びながら、太公望は必死に抵抗するが、反対に力が強くなっていく。

「楊ぜん、いい加減に」
「……」
「なぬ!?風の音で良く聞こえぬぞ?
うわっ!?何をする!」

 再び突き放されて、太公望は驚きの声を上げた。

「太公望師叔、気をつけて」
「分かっておる、早くその手に持っている袋を渡さぬか!?」
「はい」

 いつの間にか、満面の笑みを浮かべた楊ぜんは、ムスッとして再び手を伸ばした太公望に、預かった袋全て手渡した。

 奪い取るように袋を摑んだ太公望は、怪訝な表情を浮かべてから、ゆっくりと背を向けて白鶴童子が待つ広場へと歩き出す。

 視界から消えていく太公望の姿を、いつまでも見送っていた楊ぜんは、今にも消えそうな声で

「時が来たら、僕も下界へ行く事にします。
その方が僕にとっても、あなたにとっても、楽しいと思うのです…」
と、決意新たに呟いた。

(神界を吹き抜ける風が、どうか今の言葉をあの人に届けてくれるように…)

 内心で強くそう願った楊ぜんもまた、背を向けてその場から去って行った。

お仕舞い

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