牛肉麺と近視人
ニコニコした、店主に差し出された黒いお盆。
それを会釈して黙って受け取って。
踵を返した時に、相棒がちらっと目配せするから、それをうつむいて心中で受け止める。
すすすと靴底をあんまり浮かせずに、するっと近いテーブルに腰掛けた。
箸を掴んで向かいに渡してーすぐに食い始めるのがこの地域の習慣だ。
あんまりジロジロ見ないようにーまっすぐ箸を突っ込んで掴むー牛肉は9枚だけど、たしかに少しだけーほんの少しだけ一枚一枚が分厚い気がして。
それは控えめに言っても、事件だ。
内装も地域色を出してはいるけどー動線はこの星の西半球はどこも同じ。
相棒がそれでこれみよがしに麺をかかげてーそれに息を吹きかけたらー心なしか湯気が濃い。
それはさすがに気のせいだろう。
「廟へ行ってお参りしたら、もっと人員を産んでくれるかもしれないよ。」
「今日、仕事の後に行こうか。」
母星は全てを確実に知ることはない。
けれど、母星はすべての起こりうる未来とーそのほかの起こり得ることすらない未来までもーそれら一切が起きる前から思い浮かべているんだ。
僕たちの現実は、母星が全部作ってるんだ。
手工芸品のノルマが、今週は一割増だー意識の中で着信が入りこんできた。
「いちいち着信で頬杖つくなよ」
「そんなことより、ありがたいね、僕らの創作の喜びが増えたってことだ」
「波をこの時期に寄せてくれてる」
僕らは日々変わるノルマに合わせて手工芸品を工場で作っている。
その工芸品のレベルも、数百年で随分と複雑になっていってーたった3世代前の工芸品がちゃちく見えるのはー通勤中に見える廊下の展示で存分に知っている。
母星は、僕らに進化の喜びを味わわせてくれている。
けれどーそれも全部は計算が行き届いているからこその秩序だ。
どの惑星でーいつ、何がどれだけ必要かーそしてそれが数百年後、数万年後、数億年後ー僕らが考えつかないくらい後の時代にーその小さな因子がどれくらい積み重なるかー母星はその悠久の流れをシミュレートしている。
僕らの心拍数もー星がいくつみえるかもー計算されているー麺をすする手を止めて、紙ナプキンで鼻をかんでーこの鼻毛が落ちるのもきっと計算されている。
そしてー必要な時にー必要な食べ物を食べるーそのタイミングはー僕らの自由意志だけれどもーそれらはずっと前から青写真があったことー僕らが生まれる数百年も前から。
そんな小さいことまでーでも全部のボトムアップがあるからー僕の骨密度もー毛細血管のパターンもー全部わかってるんでしょう?
だからーエネルギーと物の流れがー全部調和を保ってられてる。
だからーほんの少しでもタンパク質供給量が違えばーこの一杯の牛肉麺がーどれだけのドミノを引き起こしていくのかーちっとも想像できないけれどーレンゲで薬味の効いたスープを口に運ぶたびにー喉が温まるのと反対に心は冷えていく。
怖い。
「人員が増えて、俺らの工場も賑わったらもっと楽しくなるな」
相棒が、話を振った。
「みんなお参りしたら、母星にもきっと届くだろう」
母星の表面には神経細胞が張り巡らされてーそれがコアの記憶装置につながっていてーそれ以上のことは僕らにはよくわからない。漏斗のようにーあらゆる星のあらゆる情報はそこに流れ着いてー意思決定はそこで全て起きてー遥か彼方にもその情報はからまって伝わっている。
宇宙ひろしといえど、全ての決定はたった一つの星で起きている。全ての秩序がそこにありー全ての流れはーその秩序の維持と拡張につとめられていて。
僕らは、そのごくごく一部をー毎日ー手を動かして作っていってる。
そのために生まれてきたんだから。
「店主のおっちゃんも生き甲斐があるだろうなあ。美味しい牛肉麺で人々を喜ばせているんだ」
「僕は自分の仕事が好きだよ」
暗に、その話を広げたくないんだ。
「牛肉麺を作るのにー必要な因子ってなんだろうなあ」
「わからないけどー母星が選んだんだから最適な組み合わせに違いないさ」
「もちろんそうだよ。でも僕らだって想像したらいいじゃんかー自由意志と想像力が、僕ら人間の本質だろう?」
「想像の喜びを母星は僕らに生まれつき与えてくださったからね」
「ありがたいことだよ」
それでもー店主の身を僕は案じていた。それは相棒もおんなじで、だから口をついて出たんだろうなあ、ああいうのが。
必要な時に必要なだけ作られるーそれは人間も同じだ。生殖は大昔の機能でー僕らは、今は、全部母星の生み出した設計図でー保証書のついた遺伝子がーきちんと小器官がマップされた細胞をタネにしてー最適なタイミングで生み出されて、各惑星に配員される。
遺伝子とタンパク質と代謝物ーそのネットワークは、外部のー気候や地理や社会環境と相互関係を築くーそれらが全て調和を成してー僕らは生まれ持った至高な職業でー最高の仕事をしてー生涯を過ごすんだ。
仕事という創造はー僕ら全ての秩序を生み出して維持する母星が行うー創造という仕事ーその箱庭なんだ。
進化というのはーダイスを今は振らないんだーきっとそれがー物事の到達するべき姿であってー母星がそれを実現するずーっと前からそれを世界は待ち望んでたんじゃないのか?そしてー僕が思うにーその前と後とでー進化の原理はちっとも変わらないんだと思う。
ただ、母星は、その進化の過程をーより円滑にー悲劇をやわらげー流れる血を減らしたー今でも人間は時がくれば死ぬー不慮の死もあるー種はいつか滅びるしーその全部を伝えてくれるわけじゃないし。でもー進化に必ず伴う打撃や絶滅のショックは和らいでいてー何より僕たち自身がそれをある程度予期してー受け入れられる。それが母星の優しさだ。
「この牛もうまいねえ。良い人生をきっと生きたんだろう」
「母星がそう思し召したんだ。きっとそうだー全ての牛は等しく良い人生だよ」
「僕は特にうまく感じるさ今日は」
「どうしたんだい、店の風の吹き回しが妙なのかい」
「空調が調和しているのは当然じゃないかーでもね、代謝の平行状態が基準を外れることだって僕もあるよ」
「もちろん母星はそれを知っているー僕ら近視人が詮索することじゃないよ」
ただー母星が、その進化の範囲を調整してー然るべき方向に生命が進むのをーそれを根っから信じたってー外れ値はまた統計の普遍さーだから僕らみたいにー予定と少し外れた溝を沿って動くボールもまた周天しているのがこのシステムで。
そういった外れ値もまた織り込んでるのが、母星の計画だ。そしてーそれでもごく稀に想定外の想定外があったとしてもーバックアップは存在するしー迅速に部品は取り替えられるー宇宙は全くロバストだ。
それは母星が樹立される前からそうだったのかもわからないしー母星の樹立が宇宙に新たなレベルの秩序をもたらしたのかもしれないけれどもー
「分を弁えるから取り分がおいしいんだよ。与えられるものには計算しつくされた意味があるからね」
全部食べ終わってお椀を置いて言ったーなおも名残惜しそうに最後の牛肉を噛んでいる相棒をまっすぐ見た。
「なあ、人間が運命のレールを外れることってあるのかなあ」
「ざるから溢れる豆がどれか最初にわからなくてもーいくつこぼれるかはさいしょからわかってるのさ」
「お前がそう言わなくても」
「他の近視人がきっとそう言ってたろう」
翌日。
引き戸を開けてー二人でいつもの注文をして。
おんなじ顔のニコニコしたおじさんが出してくれる。でも黒いお盆をーまるで初めてみたいに受け取ってしまってー肩に妙に力が入ってさ。
すこーしだけおじさんの頬の肉付きが違う気がしたんだよね。気のせいかもしれないけど。