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父と私、党員とその家族

こんにちは、哀しき春です。以前このような報告をいたしましたら多くの反応をいただきました。

まず、父をねぎらってくれた方やいいねをくださった方、そしてこの投稿に関する様々な声をいただきこの場で感謝の言葉を述べたいと思います。
皆様本当にありがとうございます。

そして私が党員2世であることを書き忘れてしまい大変申し訳ございません。

私の父母はともに共産党員でした、恐らく私が覚えている範囲では小学生の頃からすでに党員であったので20年超の党員生活だったと思われます。
そう思うと両親の党員人生を私は踏みにじってしまったのではないか、と懺悔の念があります。
ここでは私の子どもの頃のお話、主に父との思い出ですが書き記していきます。当然、明るい話ではありませんのでご了承ください。

―家は貧乏だった

私は雪深い田舎町で生まれました。父は私が3歳ごろに転職し、家の近くの町工場で働き、母は嘱託職員として事務業をしておりました。
経済事情は裕福ではありませんでしたし、欲しいものは特別な日(誕生日やクリスマス)にしか買ってもらえませんでした。今でも覚えているのが二つありまして、それは小学生低学年の時のクリスマスでした。

私は当時、近所の友達なら誰もが持っていたゲーム機が欲しいとサンタさんにお願いしました。サンタさんならきっとくれるだろうと心待ちにしながら布団へ入ったのでした。
しかしながら、朝にプレゼントが置いてあるであろう場所で見たものは当時人気だった海外小説でした。私はそれでも嬉しかった、「やったー」といったのを覚えています。
その声を聞いた母は「よかったね」と言い、ただ涙を流して、よかったねよかったねとつぶやき頭をなでてくれました。
父はというとただ黙ってそれを見ていましたが、表情は申し訳なさそうだったと思います。これは何年か後に父からもらった手紙に「欲しいものを買ってあげられずごめんね」と書かれていたからです。

そして鮮明に覚えているもう一つの思い出が「じゃりごはん」です。
小学生高学年の時、父母と買い物をし車に荷物を詰め込むさ中に、お米の袋が破けて駐車場に白米が散らばってしまいました。
それを父と母はかき集め、袋に戻してしまったのです。食卓に上がったご飯の中にはアスファルト片が混ざったこともあり、噛むと「ガリッ」として吐き出す。あの感触はいまだに口の中が覚えております。

そんな環境ではありましたが、家では笑顔が絶えることはなかったです。それは父がひょうきんな性格であり、よくふざけあっていたのと母が私や父にとても優しく、大切にしていたからです。
それは今でも続いている、かけがえのない関係で今思えば本当に私は大切にされてきたんだと実感しています。

─共産党との関わり

父はニュースや政治番組を好んで見ており、よく不満をぼやいていました。確か当時は小泉政権下で郵政民営化や非正規雇用緩和などが話題となっていた時世で、父はよく「政治を変えないといけない」と言っていました。そんな父が共産党にシンパシーを感じるのは当たり前で、気がつけば両親ともに入党しておりました。
私が初めて党の人と会ったのは、地区の会合で父と共に参加した時です。なんの話かは覚えていませんが、お菓子をたくさん貰いチヤホヤされていた気がします。「こんなにお菓子をくれるなんていい人たちだ」と子どもながらに思ったことでしょう。

中学生になる頃には父の活動は忙しくなる一方で、休日も家にいることはありませんでした。
町議選になればより忙しくなり、毎朝早く起きてはビラ配りと家に帰れば電話かけ、それでも大変だと言わずに笑顔でそれをこなしていました。

ただ私は反抗期もあってかそんな父を恥ずかしいと思い始めました。
というのはクラスで友達が「あなたのお父さんがしつこく選挙の電話をしてくるの止めて欲しい」と言ってきたり、家に直接「新聞勧誘がしつこい」とお叱りの電話がかかってきて母が謝るという光景もちらほら見るようになったからです。
父にそれを咎めてもうやむやにされるだけであったので、いつしか家族の中で党活動については何も言わなくなり、更には父が「今の日本はおかしい、だから変えなくちゃいけない」と政治問題について熱く私に語るためか、「共産党は正しいことをしているんだ」とぼんやりそう思えるようになっていきました。

思い返せば、私も高校生の時には党支部主催で広島の平和式典へ行ったりしていましたし、共産党の議席が伸びると父と家の中でお祭り騒ぎをしていましたね。その頃になると父も母も活動に躍起になっておりましたし、家の中に党のポスターが貼ってあったりと共産党が生活の一部と化していました。その環境であっても私は「普通のことだ」と気にもせずに生活していました。
よくよく考えれば、私が大学進出のために家を出てから「ブラック企業問題」で感銘を受けて入党に至るまで、なんの不思議もない下地があったわけです。

─私の入党に喜ぶ父、そして記者に

それからは前回書いたように私も入党し、党員としての人生を歩んだわけです。父に赤旗記者に内定が決まったことを話すと「おお!すごい」と大変喜んでくれました。そのことに私も「入ってよかった、日本をよくするぞ」と決意し、上京したのです。

ところが実際はあの環境だったわけで、3か月ぐらいで「辞めたい」と思い始めてきました。しかし、両親に辞めたいといえばがっかりされるし再就職先も見つかるとは限りません。貴重な新卒カードを切って後悔し始めた頃に父から電話がかかってきました。
内容としては私の記事で日刊紙の購読者が増えたよ、という報告でしたが私の生活はそれどころではありませんでした。「うるさい!生活が苦しいんだ!」と言い電話を切ってしまいました。

それからは連絡を取ることが少なくなり、たまに実家に帰っても選挙と重なり要員として手伝わされる…
次第に家族との距離も離れていきました。そもそも実家までの交通費もカツカツだったのでという理由もありますが、あの頃は顔を合わせるのも疲れていたと思います。ただ仕送りの中に入っていた手紙などで父の考えや思いが垣間見えた時はありましたし、家族として嫌いになる訳でもありませんでした。仕事でも家庭でも「共産党」ということに向き合うのにだんだんと嫌気が差してきたんだと思います。

そんな父も2019年に大病を患い、考え方が変わってきました。

―「そんなら俺たちも辞めるわ」

2021年ごろからは父の言葉からも「活動に疲れてきた」とぼやくようになりました。それもそのはず、回復しきっていない体で父は週一で朝の4時から日刊紙を配ってきたのですから相当こたえたことでしょう。
「もう活動を休んだらどう?」と提案はしましたが、「人がいないから」とあきらめ気味でした。

そしてあの2023年の私の騒動が起きたわけです。あの時は泣きながら両親に電話し、すべてを話しました。
父は黙って聞いてくれました、そしてどんな働き方をしていたかなど詳しく教えてほしいと言われ、ありのままを話しました。すると父はこう言いました。

「言っていることとやっていることがまるっきり別じゃないか」

そして今までの堪忍袋の緒が切れたのか、「もしお前が記者を辞めるなら俺たちも党員辞めるわ」という言葉が電話越しに飛び込んできました。
私はただ黙っていました、それでは今までの父母の時間はどうなるのかと。しかしそんなことが聞ける状況ではなかったので、処分が決まったらまた電話すると言って切りました。そして処分が決まり、また電話をしたら「記者をやっていくのか?」と尋ねられ、「もう無理だ」と答えました。

そして今年の春に転職が成功し、私が記者を辞めると「前よりいい職場だから前を向いて働くんだぞ」と背中を押してくれた父。「妻と子どもを大切にして生きていくんだよ」と母も激励してくれました。
本当に万感の思いとはこういう事かもしれない、と言葉をかみしめていました。

両親はその後、上記の投稿のように離党。「残り少ない人生を温泉などへ行きたい」と笑顔で話してくれました。今の職場のボーナスが入ったら温泉旅行をプレゼントしてあげたい。そう思いながら今日も働いてきました。

長くなりましたが以上です。駄文お付き合いしていただきありがとうございます。

またご一読くださると幸いです。


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