なんてこった!パンナコッタ!!
わかっていたはずのことだけど、ちゃんと言葉にされているのを見たのは初めてかもしれない。いや、見たことがあっても、あまり深くは考えていなかったのかも。
サピエンス全史、下巻の第19章。
タイトルは、「文明は人間を幸福にしたのか」。
え?したんじゃないの?
え?ち、ちがうの?
がびーん!
てっきり人類は「幸福」を目指して一生懸命頑張ってきたのかと思っていた…。
いや、わかっていたはずなんだ、こうすれば幸福になれます!なんて言うのは寡聞にして聞いた覚えがないし、家庭でも学校でも会社でも、話題にすらしたことがないかもしれない。
もし誰かが「幸福になる方法を教えてあげる」なんて言ってきたら、うさん臭すぎてこわい。変な高いセミナーとか勧められるんじゃないかと、身構えしまう。
どうやら、
人類は、幸福を定義できていない。
なんてこった!パンナコッタ!!
ふと浮かんできたフレーズ、これって何だっけ?と調べてみると、吉本新喜劇の茂造じいさんのギャグらしい。お、Tシャツもあるのか。なんかちょっと欲しいかも…。それはさておき。
便利さや快適さはどんどん向上してるけど、でもそれがそのまま「幸福」ではないかもしれない模様。
そう言われれば、インターネットなんてなかった子どもの頃、不便だから皆が今より不幸だったのか?と言われれば、そんなことはないはずだ。
思いを寄せる愛しいあの子の家に電話すると、なぜかたいてい親父が出て冷や汗をかいたのも、良い思い出だ。誰もがスマホでつながる現代では、もう作られることのない思い出だろう。
ユニクロのセルフレジすげー!スーパーも早くこうなって欲しい!とか思うけど、幸福とは違う気がする。
多くの仕事で目標に掲げられるのは成長や改善であって、それを目指してみんなが働くことで、暮らしがより便利で、より快適になっていく。
この先もどんどん便利で快適になっていくんだろうけど、それが幸福とつながらないとしたら、いったい何のために発展していくんだろう?
また、幸福について、「遺伝の宝くじ」なんて話もある。
確かに…いつも何だか楽しそうな人もいれば、いつもどこか不機嫌そうな人もいる。心理系の本などを読んでいると、自動思考とか認知の歪みとか出てくるけど、そもそものスペック、仕様にも違いがあるのか…。
ふと、「環境の宝くじ」もあるかもと思った。
子どもは親を選べないし、親も子どもを選べない。どの時代のどの国に生まれるかも、全然選べない。どんな教育を受けて、どんな人に出会うかも、全くもってコントロール外。現代に生まれた我々は、明治維新の志士になることはできないし、キリストにもブッダにも会うことはできない。ホントにいたのか知らんけど。
たまたま昭和の終わりの日本で、酒好きの父親と夢見がちな母親のもとに生まれ、中流家庭の子どもとして育てられ、それなりに頑張って勉強やら仕事やらをしてきたつもりだけど、中世ヨーロッパ貴族のもとに生まれていたら、全然違う人生になっていたはずだ。大谷翔平として生まれてたとしても、全くおかしくない。
仕様も環境もコントロールできないんだから、自分にできることは限られるなぁ。そう考えると、何かちょっとだけ気が楽になる。
数学を中2であきらめたのも、いくら聞いても英語が聴き取れないのも、歩きスマホの人を見てイライラしちゃうのも、何か全部しょーがなく思えてくる。
全然自分、悪くない。だってそういう仕様で生まれ、そうなるべくな環境で育ってきたんだから。ほぼ運。
それで終わってしまうと厭世的なニヒリズムになりそうかな。決定論みたいなのも、何か嫌だし。
全然自分は悪くない。そこからはじめて「さて、ではどうしましょ」と、腰を上げる感じが良いのかな。
幸福とは?とか考えられる余裕があるのは、実はとても贅沢なことなのかもしれない。時代が時代なら、奴隷に働かせて自分は哲学や芸術を楽しむ、貴族的な遊びなのかもしれない。
サピエンス全史は上下巻の長編だけど、色々と目からウロコなので、とりあえず第19章だけでも、ぜひ読んでみてね。