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言語を学ぶということ。

中学に入ったあと、英語が絶望的にできなかった。

試験ではいつも赤点ギリギリだった。原因ははっきりと自覚していた。
何しろ、「文頭のアルファベットは大文字にする」「文末にはピリオドを打つ」といった基礎的なことを、まるで覚えようとしていなかったのだ。
というか、「そんなの覚えなくていいでしょ!」と意地にも近い、謎の自信に満ちていた。あえて無視しようとしていたような気さえする。

小学生時代、周囲よりほんの少しだけ英語に触れる機会が早かったし多かった。(とはいえ帰国子女のような圧倒的な優位性などなく、単にほんの少し、チャンスときっかけに恵まれていただけだけど。)その自負が、謙虚な学びを妨げていたとのだと思う。

当時、思春期真っ只中だったわたしは、日本社会におけるティーンの女子として常に劣等感に苛まれていた。何しろファッションや流行には疎いし、会話で面白い切り返しや小話ができるセンスもないし、集団生活には居心地の悪さを感じるし、背が高いし肌荒れは酷いし、そもそも可愛らしさのない顔立ちで、どこをとってもコンプレックスだらけだったのだ(今にして思えば、それだって個性だし、堂々と胸を張っていたらよかったのだけど)。
その反動で、日本の外に出ると深呼吸ができるようで、世界への関心が強かった。強かったくせに真面目に英語を学ぼうとしていなかったのは愚かという他ない。本気で。

そんな残念でダメな当時の自分にとって、トンカチであたまを殴られたような気持ちになった経験が、中学2年生のときに親戚に連れられて訪ねたバングラデシュでの、シュモーナとの出会いだった。

シュモーナは、親戚の友人の一人娘だった。わたしより10歳ほど年上のお姉さんで、強めにカールした黒髪のロングヘアを束ねて、鮮やかなバングラデシュの伝統服を見にまとっていた。
穏やかで物静かな印象だったけれど、実際に話してみると内面にバングラデシュの歴史や文化に誇りと熱い思いがあることが伝わってきた。

国外に出たことがないにもかかわらず、シュモーナは英語が堪能だった。年齢差も関係なく、わたしにいろんなことを話してくれたし、わたしの話を聞こうとしてくれた。

世界最貧国のひとつとされているバングラデシュ。
旅行でお世話になったシュモーナの家はバングラデシュの中でも裕福な家庭だったが、シャワーで出てくるのは水だし、夜も薄暗いし、水浴び最中に停電も度々だった。

田舎に訪ねた際、出してくれたチャイを口に含むとものすごく牧場の香りがするので、聞くと、燃料が牛糞なのだった。もちろん水道も通っていないから、食器は川の水ですすいでいた。

でもそういう経験は、それこそ「生きる力」に満ちているように感じた。だってわたしが日本で夜でも明るい部屋で本を読めるのも、1時間くらいあったかい湯船に浸かっていられるのも、すぐにコンロで料理ができるのも、自分の力では何一つしていない。業者さんや過去の人々がインフラを整備してくれただけなのだ。本来は、そんな生活は当たり前じゃなかったのだ。

同時にシュモーナは、バングラデシュがかつて「黄金の国」と言われたほど豊かな大地が広がっていたこと、ベンガル語に誇りを持ち、だからこそ独立を果たしたのだということを、わたしにも分かるように話してくれた。ベンガル語の本がずらりと並ぶ本の夜市や、ベンガル語の歌、行き交うリキシャや車のクラクション、元気な子どもたち、郊外で過ごした夜に見た満天の星。

バングラデシュは、悲壮どころか、とてつもなく鮮やかでエネルギッシュで豊かで、生きる力に溢れていた。

世界は広くて、豊かで、とっても複雑なのだということ。英語を始めとする世界のことばを知ったら、もっともっと、知ることができるのだということ。

「もっと英語を話したい、もっと真剣に勉強すればよかった」という、伝えたい気持ちにボキャブラリーが追いつかない焦燥感。加えて、“一度も国外に出たことがない”シュモーナの、英語の堪能さにはもちろん、わたしを通して日本を知りたいという熱意に、ただひたすら、ぐうの音もでないほど打ちのめされたのだ。

置かれた状況を言い訳にして、努力を怠っていたのは自分ではないか!!!!
それが今に続く、わたしが言語を学ぶ原動力。


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