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3日坊主の挑戦

SNSというものに初めて触れた記憶は、大学生のころに周囲で広がったmixiだ。

高校生の頃は、「掲示板」なるものに時間を合わせて友人と待ち合わせてログインし、オンラインでの他愛もないおしゃべりを楽しむことはあった。でも、自分の脳内を言語化し、それを他者にシェアするということは、わたしにとってmixiが初めてだった。
書いてみると、けっこう自分の考え方の癖が見えて、それは自分自身を知るためにはよかった。人見知りでいつもリアルでのおしゃべりの後に脳内反省会を繰り広げる性分のわたしにとっては、推敲して言語化した文章で友だちとコミュニケーションをとれることは嬉しかったし楽しかった。
でも、次第に何を書いても自分らしくなってしまうことにコンプレックスも感じるようになった。「本当、自分て面白くない!」と、なんとも言えない気持ちになっていって、だんだん更新しなくなった。

その最中にシフトしていったのが、留学先のフランスで爆発的に広がっていたFacebookだ。写真というビジュアルで伝えられる。思いは、アルバムのタイトルや、選ぶ写真で表現する。留学生たちと写真や思い出をシェアするツールとして、欠かせないものになっていった。
でも、就職して人的つながりがFacebook上でも広がり、“友人”ではない人(職場や、仕事で出会った人たち)にも見られるようになるにつれ、過去が晒され続けている状況に抵抗を感じるようになり、だんだんアップしなくなった。
決定打になったのは、別れて数年経つ学生時代の元恋人が、わたしの親友と超スピード結婚し、それをFacebook上でシェアしたこと。
説明のないまま結婚報告を(わたしも写っている)学生時代の写真と共に公開された。それは、多くの友人にいろいろな憶測や波紋を呼んだ。自分の気持ちだけでも処理するのに時間のかかる事実だったのに、SNSによってコミュニティ全体が巻き込まれてしまったダメージは、わたしにとってかなり大きかった。Facebookは遠ざかった。

Twitterは、たまに、人に聞いてほしい気持ちもあるけど大々的に発するほどでもないささやかな気持ちの吐き出し先だった。パートナーが出来、つぶやきを聞いてもらえる相手を得ると、つぶやく必要性を感じなくなっていった。

周囲に触発されて、ブログに挑戦してみようとすることもあった。でも、長続きはしなかった。だんだん人の目が気になって、自分の思考をわざわざ晒すことへ引け目を感じるようになって、次第に何が描きたいのかわからなくなってしまうから。

どのSNSも常にカギ付き、万人に自分を発信したい気持ちはわかず、友人の狭い輪の中でのツールだった。Instagram、X、Facebook、Threads。相変わらず基本的に「見る専門」である今、日々のありとあらゆることを発信する多数の人たちをすごいな…と見つめても、それをやるエネルギーや意欲は出てこない。何をそんなに書くことがあるのかすら、わたしにはわからないのが正直な気持ちだ。いや、メディアで働く身として、SNSの持つ力の大きさは実感としても経験としてもよくわかっているのだけれど。

SNSは長続きしないくせにそれでも今回noteに挑戦することにした理由。それは、自分の思考を言語化したいと思ったためだ。
結婚を機に始めた10年日記は留学や2度の出産を経てもう6年目になるし、子どもたちの日々の成長はいまも月ごとに書き留め続けている。
でも、忙しい日々に追われる中で、自分がどういうものを好きなのか、どんな瞬間に心が動くのか、どんなふうに生きたいのか、そういうささやかだけど自分が“自分”であるために大事なはずの気づきが、最近だんだんわからなくなっていることに気づいたのだ。

それでも日々は流れていくし、日常は総じてハッピーなのだけど、自分の心の機微がわからないまま生きることが、最近すこし辛くなってきた。というか、いまさら人生の迷子になっている感覚になっている。だって、10年前、まさかいまの仕事を続けているとも、日本に住んでるとも、結婚しているとも、まして2人ものかわいい子に恵まれているとも、想像もしていなかったのだ。

メディアに所属する自分としてではない、自分だけのフィルターを通した世界を見つめ直すために。
これまで続かなかったSNSと同じ道を辿るかもしれないけど、それもやってみなければわからないと思って、書いてみようと思う。

この世界に生まれて37年目の、ささやかな挑戦。



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