短篇集

地獄悶

見上げても角が見えないほどの大きさの鉄の扉がある。それは漆黒の門に嵌められており、扉と門とが鬩ぎあっているが、やはり黒鉄には敵わない。辺りには赤い霧が立ち込めており、視界が不明瞭だった。悲鳴が聞こえたと思わせる床の軋みとともに霧に大きな、とても大きな影ができた。路傍の石のような矮小さを感じさせるほどの体躯を持つ人型の生き物が近づいてくる。接近してわかったが、高官のような装束をしている。私に危害を加えないのは、官位の高さに見合う知性の持ち主だからと納得できるが、一つ奇怪なこともある。あのかたは顔に当たる部分を真黒な布で覆い隠していることだ。官位が高ければ、隠す通りなどなく、むしろ威厳を示すのではないか。そんなことを考えながら、小さい歩幅を重ねているうちに建物の端まで来た。外は空気に触れすぎた血の色のような液体で充溢していた。どうやら流れがらしく、どっぷどっぷと音を立てていた。建物も外も赤と黒ばかりだった。赤は形態を支配し黒は象徴を支配している、ような気がした。来た道を同じく帰り、初めの門に辿り着いた。鉄扉に触れると、触れた部分から凍てつくような冷たさが体全体を駆け巡り、扉の重量感を突き付ける。体の重心を動かし、扉に力を掛けてみた。感覚とは裏腹に、簡単に動いた。扉は虚栄のそのもののであるようだったが、金属の擦れる音はその限りでなかった。扉の先には青が白が広がっていた。無限に広がり水際立つ青に、寄り添う白が随所に見て取れる。心象の原風景だ。気づけば伸びていた手は、澄み切った空|《くう》を捕えていない。重苦しい音が鳴り止むと、手は赤霧を掴んでは散らせていた。

翡翠の光

縦に長い長方形の窓から陽が射している。冬の肌寒さを和らげるように、窓に面した机で微睡む青年と小瓶に光が注がれている。小瓶は翡翠色の液体で満たされ、コルクで緩く封じられている。液体に吸収された光は一様に緑の線となり、机に投影される。青年は幽かな意識の中で驚いたのか、机に腿をぶつけて飛び起きた。その衝撃は机全体に伝わり、小瓶は底の円の縁で器用に立ちながら、くるくる回っている。不安感を感じるメトロノームのようだった。瓶の中の液体は、回転に伴い、攪拌されるように波打っている。さきほどまで規則的に変換されていた光が乱れ始めた。激しく翡翠色を散らしている。やがて、靡くカーテンの影のような優しい投射になった。青年が奪われた目を返された時には、瓶は色褪せつつあった。コルクが吹き飛び、机の端に横になった瓶から中の液体が地に流れている。大半は流れ出てしまって、床には緑の水溜まりができていた。それには眼もくれず青年は、両手で受けを作り、愛でるように液体を溜めていく。そして、翡翠の光源を口にやおら運んでいく。口や腕に液体が伝い、あたかも翡翠の装飾を纏っているかのよう。両の手が空っぽになると、青年は机に伏して、また微睡みに消えていった。

潭の鏡

下を向いて歩く男がいた。常に俯いているため、表情は見えず、不気味がられていた。その男はたいへん小柄だったが、どういうわけか人とぶつかったり、躓いたりしない。ふわふわと漂流するように人の流れの中を過ぎていく様子がこの世のものとは思われず、首をへし折られて死んだ人間の幽霊なのではないかと噂された。
その男は、晴れの日には滅多に街に居座らず、却って雨の日には街のいたるところで姿を見ることができた。この街は丘陵地にあり、その周りには湖が三つほどあり、街自体が大きな湖畔のようなものだった。晴れた日、男は人目をさけ、三ケ所ある湖を朝昼夜それぞれで回っていたのだ。朝は日が昇る前に、昼は正午に、夜は日が沈んでから。そういった具合に湖にいた。少年は彼がどうして湖にこだわるかのか理解できなかった。
雨が降らないので、雨の日での男を観察できない日々が続いた。雨の日での男の動きの方がずっと不可解だったために、情報が得られない日々に焦燥感を感じていた少年は、男に質問を投げかけることにした。
「なぜ貴方は、湖に拘るのですか?」
「湖は美しさをありのまま映すからだ。」
「映し身は贋物ですよ。確かに見た目は同じだけど、余分な過程が挟み込まれている。少し目線を上げれば、本物を見られるじゃないですか。」
正午になり、湖面に真珠が浮かび上がったように輝きは絶頂を迎えた。男は機械的に立ち上がり、依然俯いたままに歩き始めた。
明くる日の夕刻、少年は湖に先回りにして待ち構えていた。そこに定刻通りに男がやって来た。少年を路傍の石のように、見向きもせず、彼は座って湖面を眺め始めた。
「君には世界がどう映る?」
沈黙を破ったのは男のほうで、少年は放心する。
「美しく映ります。人がいて、人工物があって。動物がいて、自然がある。調和の取れた美しさがあると思います。」
「そうか。それでは汚いものはないのか?」
「いえ、汚いものも存在します。糞尿だとか、咎人だとかの触れたくも見たくもない類のものです。」
夕焼けを映す湖面が闇色に吞み込まれた。またも男は素早くその場をあとにする。少年は夜空を見上げて、無数の星をただ眺めていた。
久方ぶりに雨が降った。明け方は土砂降りで外出はままならなかったが、昼頃には雨脚が弱まり、家を出る。街を走り回って、ようやく例の男を見つけた。彼はゆっくりと歩いていた。足音、一音一音を響かせるように。点在する水溜まりに逐一寄りながら、彷徨っている。しばらくは変わったことはなかったが、雨が止んだ途端に、吸引されるように旧市街に向かっていった。旧市街に来てわかったのは、街で最初に作られた区画のために、老朽化が進んでいた。それにより、他の場所よりもずっと多くの水溜りが生成されている。彼の目的はわかったが、いまだ真意はわからず。結局、晴れだろうと雨だろうとやっていることは変わらない。水面と俯きを重ね合わせるだけ。
明くる日の日の出前。まだ訪れていない湖へ赴く。だいぶ早く着いたつもりだったが、男はすでにいた。
「わかりません。なぜ水面に拘るのですか?」
「驚いた。今回は〝湖〟ではないのだな。」
指摘されて、息を呑んだ。以前、自分の口から出た言葉がひとりでに変容している、そんな気がした。
「君の眼には世界は美しく映る。しかし、同時に汚らわしいものも存在している。美醜の共存。君は美に対しては鋭敏だが、醜に対してはそうではない。視覚に頼り切っているのが現状。」
彼は、唐突に話を区切った。暗い空が明るみはじめ、やがて地平線を挟み込む形で紅く染まる。男は立ち上がり、少年は下を向く。
それから、夜までずっと一人でいた。他者から孤立してたが、孤独に襲われることはなかった。湖面は絶えず、外界を映し出す。確かに美しかった。だがそれ以上に、心地良かったのは見たくないものを感じなくて済むことだった。視覚的にはもちろん、他者からの刺すような悪意すらかき消してくれるような気がした。そうじゃない。
湖はすでに漆黒であった。暗く深い色を呈している。雲の中に姿を晦ましていた月が現れ、潭月となる。皮切りに次々と星が、湖面に点で描かれた。
少年は、魅入られたように、俯いていた。


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