(18/10/12-13)サハリン西海岸黄金ルート ~南樺太一周一泊二日~
戦前の日本領時代に敷設されたサハリン鉄道は、ソ連〜ロシア統治下においても異色の1067 mm狭軌線ネットワークとして存続してきたが、現在1520 mmへの改軌工事が進められており、2020年までには完了する予定である。そんなサハリン"狭軌"鉄道の最後の日々を記録するため、2018年10月中旬、サハリンへと飛んだ。10月中旬のサハリンは紅葉真っただ中である。
■ユジノサハリンスク発トマリ行6201列車
今回の旅の最初のランナーは、ユジノサハリンスク発トマリ行の近郊列車、6201列車である。17時、ユジノサハリンスク駅の待合室は、この後のノグリキ行603Жを待つ乗客でいっぱいであった。しかし、いくら待ってもトマリ行の乗車アナウンスがない。不安に思い駅舎外の地下道から2番線に行ってみると、ТГ16に2両の座席車を連結した6201列車が停車していた。一昨年訪問した時には駅舎側の1番ホームからの発車であったのだが…。どうせ空いていると思っていたのだが、発車間際の乗車であったため通路側の席にしか座れなかった。ほぼ満席の状態で、17時21分定刻に発車。
発車してしばらくすると、車掌が検札に回り、どこの駅まで乗るのかを一人一人に確認してゆく。どうやらイリインスクやトマリまで向かう客がほとんどのようだ。運悪くずっと通路側の席で我慢しなければならないかもしれない。しかも車内は暖房が効きすぎて異常に暑い…。
幸運にも、隣の客がドリンスクで下車したので、窓側に移動できた。天気は生憎の雨。薄暗い湿原の中を列車は走る。日本領時代は白鳥湖と呼ばれていた場所だ。ヴズモーリエに着くころに完全に暗くなった。
20時、アルセンチイフカ駅に到着、ここは東部幹線と北部横断線の分岐駅で、デルタ線となっている。列車はその西側の頂点で停車。東部幹線の乗り場からは1 km以上離れていて不便だが、周囲の人煙はまれであり、乗降する一般客などいないから問題にならないのであろう。
北部横断線は、戦前には真久線という名で計画されていた路線であるが未成に終わり、戦後ソ連が引継いで完成させた路線である。時折並行する道路を走る車のライトが光るだけで、その他の人工物は何も見えない。人家が見えてくると、列車は速度を落とし、幾本もの側線を持つ大きな駅に着く。イリインスクである。線路はここでスイッチバックして西部幹線へとつながっているので、6201列車は機関車を付替えるため30分も停車する。駅舎と反対側には、廃車となったД2気動車が並べられていて、明かりが灯っている。どうやら廃車体は乗務員詰所として使われているようだ。
イリインスクで半分程度の乗客が降り、身軽になった6201列車は、西部幹線を南下してゆく。ピンジンスカヤからの峠を越えて、21時53分トマリ到着。4分の早着である。トマリの町は日本領時代からの低地の旧市街と、南の丘の上にある新市街があり、多くの乗客は新市街の方へ歩いてゆく。
今夜の宿は、駅からほど近いヴォストチナヤ(Гостиница Восточная)というホテルである。ネットで情報の得られる中ではトマリで唯一のホテルであり、https://www.komandirovka.ru/countries/russia/sahalinskaya-oblast/hotel/というサイトから予約メールを出すことができる。ただし返事は来なかったので、実際に予約できているかどうかはわからなかった。ホテルに行ってみると、周りには車がたくさん停まっていて、部屋には明かりもついている。どうやら営業はしているようだ。中に入ってみると、すぐにフロントがあるのだが誰もおらず、ここに電話しろと電話番号が書いてある。サハリンで使える携帯電話を持っていないとここで詰んでしまうので、トマリに泊まろうとするときはSIM契約は必須だ。ロシア語での電話ということで緊張したし、全く上手く話せなかったのだが、何のことはない—隣の部屋に管理人がいたらしく、そこで宿泊手続きができた。一泊2500ルーブル。少し高いが他に選択肢はない。
■トマリ発77km pk9行き6108列車
翌朝は、5時半に宿を出て、トマリ駅に向かった。駅にはД2気動車3両のホルムスク方面77 км пк 9行きがすでに停車している。トマリからの客は自分の他には家族連れ4人と、おばちゃん1人だけであった。しかし列車は発車時刻になっても出発しない。労働者の国ロシアでは、列車が遅れようがいちいち乗客にアナウンスなどはしないし、乗客も騒いだりはしない。そのまま30分遅れでトマリを発車、しかし、数キロも行かないうちにまた停車する。ここでも結局15分ほど止まり、遅れは45分に拡大する。遅延の原因は不明だが、Д2気動車もそろそろ限界で故障が頻発しているのだろうか。
7時、東の空が明るくなってくる。列車は海食崖の上を行き、タタール海峡が見渡せる絶景だ。しかし、この区間を昼間に走る列車は無い。7時32分、42分遅れでチェーハフ着。30人くらいの客が乗ってきて車内が賑やかになる。ピアネーリ駅では貨物列車と行違う。機関車4両に貨車が6両のみのアンバランスな列車であった。列車は海岸を行き、錆びた廃船などを見ながら進む。8時38分、28分遅れでホルムスク セーヴィルヌィー着。ここからはニコライチュクの別荘へと向かうお年寄りたちがたくさん乗ってくる。ホルムスク市街を抜け、旧王子製紙の廃墟を過ぎると、列車は内陸に向かい、旧手井貯水池の際へ至る。紅葉が湖面に反射している。宮脇俊三が、本当の紅葉の美しさは文章にできないという様なことを書いていたのを思い出した。これはそういう紅葉だ。
旧手井貯水池際を走る列車を撮影するため、79км пк 9駅で降りる。この駅へは道が繋がっていないので、線路上を歩いて移動する。途中から林道に入りホルムスク方面へ15分ほど歩くと、有名な撮影地がある。ここで折り返してきた列車を撮影した。
■カスタラムスカヤへのバス
ここからホルムスク市街へ向かって林道を歩く。市街から徒歩で別荘へ向かう人とすれ違う。日本から来たというと、宝台(旧豊真線のループ線)へ行ったのかと聞かれる。急に日本時代の地名が出てきたので驚く。
ホルムスクのバスターミナルは工事のため丘の上の市政府前に臨時移転していた。ここでは週末の市も出ていて、日本時代の絵葉書や手紙を売っている露店もあった。ここで次の102 км撮影地へ向かうためチェーハフ行のバスを探したが、なぜか乗車を拒否されてしまい、仕方なくカスタラムスカヤ行のバスに乗る。
撮影地まではカスタラムスカヤから6 km位なので歩けないこともない。バス停から未舗装の道路を歩いていると、ホルムスクで乗車拒否されたバスが止まって乗せてくれた。102 km駅前で降りようとすると、本当にこんなところで降りるのかと心配された。
この撮影地は、道路の峠から羽母舞原野を背景とした俯瞰撮影ができる場所で、原野の農地跡には日本時代の殖民区画の痕跡も見ることができる。
しかしこの日は日差しが強く逆光で、あまりいい写真は撮れなかった。帰りは102 км 駅から6104列車で帰る予定だったが、この列車を撮影してから歩いてカスタラムスカヤまで戻れば、ギリギリホルムスクからユジノサハリンスク行最終バスに乗れるかもしれないなどと計算する。明日の午前の飛行機なので、今日中にはユジノサハリンスクまで戻りたい。海岸線に出てから、6104列車を撮影し、カスタラムスカヤへ向けて歩いていると、車が止まってくれバス停まで乗せてくれた。サハリンの人の親切に感動する。予定よりだいぶ早い16時半のバスに乗れたので、ホルムスクには18時に着くことができた。まだユジノサハリンスク行の公共バスもある時間だが、乗り合いタクシーを利用する。その方が所要時間が短いばかりか運賃も安い。トヨタのタクシーは国道を疾走し、わずか1時間半でユジノサハリンスクへ到着した。
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