終戦の日
昨年2019年の今日8月15日に当時のRosmarinus.blueのHPにて敗戦の日によせて、全体主義からの脱却と一人ひとり個として個人の人生を生きてほしくてブログを書いた。(WordPressから引っ越したので今は削除されています)
今年は「終戦の日」と、言葉を選んだ。
今年は何を記憶しよう・・・昨日から、ふと、じいちゃんがまだ生きていたら(多分100歳くらい?)今日はどんな日を過ごしてどんな言葉を掛けるだろうか・・と考えていた。
子供の頃のじいちゃんの記憶といえば、職場の人が遊びに来ると決まって呑み会が始まって、酔ってご機嫌になると決まって軍歌を歌った。
更にご機嫌になるとお小遣いをくれた。(私は酔ったじいちゃんが嫌いだったので貰うとすぐに逃げたが。)
じいちゃんの事が嫌いだったのは、ばあちゃんに手をあげていたから。それさえなかったら他人の子供にも優しい人だった。私はじいちゃんの自転車の荷台にちょこんと座り、山菜採りに行ったりもした。
視力の良かった私はじいちゃんばあちゃんの見逃がしたキノコ(ヌルっとした落葉キノコがお目当て)を見つけるのが楽しかった。
思春期になってからは駄々こねてプチ家出をしたりしていたけど、心配してほしかったんだぁって今なら分かる。
朝から一升瓶抱えて浴びるほど呑んでクダ撒いて、病気になり60代で亡くなってしまったけれど。。。
子どもの頃、8月15日にじいちゃんがどんな気持ちで何をしていたか全く記憶にない。私自身も。
戦争に行ったじいちゃんは、「終戦の日」と「敗戦の日」、どちらの言葉を選ぶだろうか?
私はじいちゃんに向かって、「日本が戦争に負けた日だね」って言えるかな?
って、個人的な疑問にぶつかって、こればっかりは分かんないやってなった。。。
それでも戦争の記憶を美化しないようにしている。歴史は学ぶためでもある。
Rosmarinus.blueは『全体主義』を危惧しています。
わたしは過去(2014年)に『秩序とバランスのとれた満点の星空』と表現したのですが、『秩序』とはどのようなことだと思いますか?
Rosmarinus.blueは『抑圧からの解放』がテーマなので、一般的に思い浮かべるであろう「権力者が決めた制度や声に従う」ことや「個の違いを認めない」ことではない。
それぞれの尊厳を踏まずに、各々が思考し、安心して生きられる社会であること。
そうした尊い生命こそ尊重される社会になるよう、政治がサポートしていくことだと思う。
言葉を奪う暴力(差別や格差拡大やヘイトスピーチ)などの排外主義がもたらす社会的『分断』を越境することが課題だと思うのです。
社会的分断が起こるのは、一人一人の個人が政治的存在(社会)だからですよね。
なんとなく『みんな一緒』を強要することでもない。
思考するのを止めたとき、人は簡単に全体主義に陥るから。
Peaceとは?
Justiceとは?
わたしがこの言葉を使うとき、思考するとき、個の尊厳を踏むことは定義しないようにしたいと思っています。
戦争はもう繰り返さない。
❇︎画像は以前、夢で見たことを起きがけに殴り書きでスケッチしたもの。今も手を加えず残しています。
波に打ち上げられた、様々な軍服を着た亡くなった人たち。
また戦争をするために戻ってきたのではない。戦争を知る前の亡骸が戻ってきたのだなと感じた。