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雨垂れちゃんと呼ばれたい

2024年6月25日

こんな存在がいたらいいな、と思った話。
フィクションだけど、私の脳内に彼は確かに存在する。

私はいつも通り、彼だけに雨垂れちゃんと呼ばれたい。アマダレちゃん…私は漢字なんてダメ。すっかり忘れてた、「好き」と向き合うこと。私は愛と人間を考える人だと気づいてから愛へのハードルが無駄に高くなった。深い所で考えるクセがついたせいで、何かを好きだと感じることへの抵抗を感じる。唯一なにも考えずに「好き」だと言えるのは彼だけだ。私たちは、たまに会って、互いに頭を撫でて、会話をしたり、しなかったり。周囲は私たちを男女の関係の何かに当てはめたがるけれど、そんなものはお互いウンザリ。ただこ色が好き、この食べ物が好き、の延長線上にお互いがいるのだ。愛ってものは本来、哀しみだったり真理だったり、華麗だったり、ココア味だったり。全ての感情に伴うものだ。それは難しく感じるけれど単純なことかもしれない。彼の「愛は存在しない、あるのは愛の証拠だけだ」という言葉も一理あると思った。大きく愛と捉えると、複雑に見える。でも、彼と私の関係に名前をつけるとしたら、小さな愛、かもしれない。小鳥が鳴くのに春を感じたり、朝ごはんにお気に入りのコーヒーを飲んだり、雨の日、ちょっと湿った空気をベランダで感じたり、そこかしこに転がっているのは小さな愛なんじゃないかな、と彼が言っていたのを思い出した。彼は私を雨垂れちゃん、と呼ぶ。それは、梅雨のある日、マンションの一室で、2人で窓際に腰掛けてちょっぴり私が泣いた日。「君は雨漏りみたいに泣くね」と涙を拭ってくれた。古くなった、とさえ言わなかったが、「痛みに痛みきった地盤が涙を雨垂れみたいにこぼすんだ」と。「割とまだこのマンション新しいのにねー」と笑ってみせると、「いくら新しくても、大事に扱ってくれなきゃガタもくるでしょ」と、薄灰色の雲で埋まった空を眺めて「今日は満月だよ」彼は私の機嫌を取るのが上手だった。慰めるわけでも鼓舞するわけでもなく、ただそこにいて生暖かい空気を漂わせる。ぼやけたまま、心に寄り添ってくれる彼は小さな愛の代名詞。


アマダレちゃん、今日も生きながらえたね。1日ひとつ、なにかをしたら自分を褒めてあげよう。まぁ、確かに生きてるだけで十分だけど、そこから一歩踏み出せたらそれは、自分で頭を撫でて自分を抱きしめてあげてね。
私から、私へ、あなたへ


存在しない彼(私)と存在する私の対話

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