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戦争前夜のとある村のミステリー〜『白いリボン』

何かが崩壊していくことと、何かが芽生えていくこと。世界の歴史にあっては両者はしばしばパラレルに進みゆく。ミヒャエル・ハネケの『白いリボン』は一見するとそのありさまを冷徹に且つ濃密に描いた映画のようにみえます。

第一次世界大戦前夜、ドイツ北部のとある農村。大地主の男爵(ウルリッヒ・トゥクール)やプロテスタントの厳格な牧師(ブルクハルト・クラウスナー)が強い影響力を有する、その村に次々と異変が起こります。

ドクターが自宅前に張られた針金のために落馬して大怪我をします。翌日には、男爵家の納屋の古い床が抜けて小作人の妻が死亡。男爵家の広い庭で収穫祭の宴が繰り広げられている最中に、キャベツ畑が荒らされます。その夜には、男爵家の長男が行方不明に。男爵家の納屋が燃え上がる。家令の赤ん坊が誰かが窓を開け放したために風邪をひいてしまう。ドクターの子供たちを世話している助産婦の息子が失明するほどの大怪我を負って発見される……。
そのうちの多くは「犯人」が不明のままで、また観客にも明示されません。いくつかの謎は謎のまま宙吊りにされ、開戦の喧騒のなかに掻き消されていきます。

この映画の語り手は、この村に住んでいた教師。長い年月を経ての回想という形式をとるのはこうしたミステリアスな出来事を語るに際しての常道ですが、この映画にあってはしっくりと機能しているように思われます。もちろん劇中にこの若き教師(クリスティアン・フリーデル)も登場しており、単なる狂言回しという役まわりにおさまらず、男爵家で乳母をしていた女性(レオニー・ベネシュ)との恋模様が描かれ、また事件の「解明」に関与しようと努めたりもします。

興味深い、否、恐ろしいのは、彼が関わっていた子供たちがこの不穏な環境のなかで不平やフラストレーションを溜め込んでいき、結果としてナチス党員へと「成長」していくこと。そのことを映画は声高に指摘するわけではありません。ラストでさりげなくその成り行きが示唆されるだけなのですが、それゆえになおさら観る者にやるせない思いを喚起します。
もちろん、大人たちの欺瞞や俗物ぶりも容赦なく描出されていて、子供たちはそのような自分たちを取り巻く状況を半ば認識しつつ行動しているようにもみえます。
つまり歴史的な視点で絵解きするならば、地主や貴族が支配する古い封建制的・家父長的秩序が崩壊していく過程と、それにとってかわるようにしてナチズム体制が萌芽していく過程とが一寒村の変化をとおして描かれている、ということになるでしょうか。

子供たちの生々しい表情がひときわ際立っています。しかもその姿は意外と多様です。
死に対する疑問や恐怖をありのままにさらけだす幼児。プロテスタントの謹厳な牧師の父親に反抗する子供たち。自分が知っているらしい「犯人」のことを教師にほのめかそうとする女児。
白いリボンとは、子供たちの悪行を罰するために腕に巻かせるものですが、この映画では、その白いリボンが様々な読みを誘ってやまない暗喩的なモノとしてあります。白い色とは周囲の状況によっていかようにも染め上げられるものであることが示唆されているようでもあるし、時代の暗闇を照らし出すパラドキシカルな象徴的存在でもあるでしょう。

カメラはこれみよがしの派手な動きを抑えつつ、むやみにカットを割ることもみずから禁じながら、時にどっしりと根を生やしたように構えて人々の挙動を捉えていきます。父が子を鞭打つシークエンスでは、部屋を出入りする子供の姿、部屋の中から聞こえてくる音と子供の叫び声だけで構成されるので、かえって厳しい雰囲気が画面を支配します。
 
あらためて考えてみるならば、この映画はナチス台頭前夜の時代の暗部を浮き彫りにしたという以上に、人間という存在の心に巣くう名状しがたたい闇の部分に光を当てた、という方が適切かもしれません。すなわち『白いリボン』は、歴史の一断面を切りとってみせたというにとどまらず、人間という存在に不可避の恐怖や欺瞞、存在することの不安そのものをこそ見つめようとしたのではないでしょうか。
いっさいの無駄を省いたモノクロームの引きしまった映像がいっそう私たちに多くのことを静かに問いかけてくるかのようです。

*『白いリボン』
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:クリスチャン・フリーデル、レオニー・ベネシュ
映画公開:2009年9月(日本公開:2010年12月)
DVD販売元:紀伊國屋書店

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