公的医療の充実は、社会主義か民主主義か?〜『シッコ SiCKO』
米国の病理現象を突撃取材で追及するマイケル・ムーア監督が本作で標的にしているのは、米国の医療システム。この作品が作られたのはオバマが大統領になる以前で、米国は公的な国民皆保険制度をもたず、民間の医療保険に依存していました。国民の6人に1人が保険に加入せず(できず)、医療現場を市場主義が支配し、効率優先の病院経営があたりまえのように行なわれていたのです。
マイケル・ムーアがここで問題にしているのは、保険未加入者ではなく、保険に加入している人たちの惨状。それを多面的にスキャンしていくことによって、米国流市場主義医療の病状をうきぼりにするという寸法です。
指を2本切断した怪我人が、接合料金の安い方の指だけを接合手術してもらう話は嗤うに嗤えないし、入院費を支払えない患者が病院から車に乗せられて捨てられてしまう、文字どおりの「医療棄民」の現実には背筋が凍る思いがしました。
こうした現状が、公的医療先進国のカナダをはじめ、英国、フランス、さらにはキューバとの比較において語られます。これらの国で、入院費や治療費のことを質問するムーアに対して、質問の意味を咄嗟に理解できず問い返す患者たちの様子が面白い。
公的病院での治療を無料で行なう医療制度を、米国の政治家は「社会主義的」だと言って否定し、英国の政治家は「民主主義」の歴史において語っている点も極めて興味深いものです。
9・11のテロ事件で、民間ボランティアとして救助活動にあたった人たちが、その後、呼吸器疾患に苦しみながら、政府の補助対象にならず、グアンタナモに収容されているアルカイダよりも低劣な医療しか受けられない事実は、米国社会の捩れを感じさせてあまりあります。意を決したマイケル・ムーアが、彼らをキューバの病院に連れて行き、温かい治療を受けさせるくだりは、とりわけ公開当時のブッシュ政権の神経を逆撫でしたことでしょう。
扱っているテーマは深刻すぎるほど深刻なのに、映画が全編をとおして決して陰鬱な雰囲気にならないのは、ムーア自身の風貌や作品スタイルにユーモアや愛嬌が横溢しているからにほかなりません。この“芸風”は極めて貴重です。随所に古いフィルムを挿入する編集も巧い。日本の生真面目なドキュメンタリストだとなかなかこうはいかないでしょう。
この映画が日本で公開された頃、彼の国の要請と財政逼迫を背景に、構造改革の名のもと医療制度の市場化・効率化へと舵を切り始めていました。すでに多くの観客が指摘しているように、これは他国の話ではありません。私たちの社会にも訪れるかもしれない現象を描いた映画なのです。
ところで、マイケル・ムーアの問題提起に応えるように、この後に大統領になったバラク・オバマはオバマ・ケアを導入して大胆な医療制度改革を行ないました。しかしながら、彼の後を継いだ人物はその制度を撤廃するようです。あらためて本作を見直すことが必要になるかもしれません。嗚呼!
*『シッコ SiCKO』
監督:マイケル・ムーア
映画公開:2007年5月(日本公開:2007年8月)
DVD販売元:ギャガ