アーモンド・スウィート
「伴さんが昨日から帰ってこないんです」
「伴さんて?」
二組担任の椎本から相談された時に、一組担任の天野は伴牧葉(まきば)の顔が思い浮かばなかった。小柄な体躯のムーミンに出てくるミイーのような感じの女子生徒と気づくまでに時間が掛かった。
「どうしたんですか」
「中央線に乗って西の方へ行ったらしいんです」
「多摩のほうですか」
「何でも…名古屋まで、六千二百六十円の乗車券が窓口で売っているそうで、それで」
天野は鉄道オタクでもなく、電車に詳しくもない。東京から新宿に行くあのオレンジの線が入った車体の中央線がそのまま乗っていれば名古屋に着くとは知らなかった。
「なんでも乗り換えは必要なんだとか。オレンジの電車が運転手を交代しながら東京ー名古屋間を行くわけではないそうです。うちのクラスの鉄道に詳しい生徒に教えてもらったんです」
まったく困ったという顔の椎本の顔を見ながら天野は、新幹線か飛行機で名古屋に行ったほうが早いのになぜ? と思っていた。
「伴さんはなんで中央線で名古屋に向かったんですか? 青春18キップとかいい旅チャレンジ二万キロとかをやるつもりで?」
「それが分からないんです」
「伴さんと仲良しの女子たちは何て話しているんです」
「これから聞いてみます」
伴さんからの様子は動画メールが度々送られてきたらしい。天野は椎本先生や二組の女子から知らされることになる。
男子より女子のほうが冒険心が強いと聞いたことがある。10歳そこそこでフラッと電車に乗って、北に逃避行したのではなく、名古屋に方面に行くとは驚くばかりだと天野は感想を持った。自分のクラスの女子は大丈夫だろうと思うが、過信してはダメかも知れないと戒めた。また、旅に出るのではなく、盛り場にフラッと出て良からぬ人間と知り合い、坂道を転がるように不良化する可能性も考えて置かないとならない。
矢崎芙巳子や田中千鶴の顔が天野頭に浮かんだ。矢崎は父一人子一人の父子家庭で、どこか影のようなものを持っている。いまは真面目に学校に毎日来ているが、何かの拍子に学校休むようになり暇を感じ盛り場に出歩くようになるかもしれない。そんな生徒だ。田中は祖母と母親の影響か、耳年増のところがあり。クラスの誰よりも大人に見られたがる、早く大人に成りたがるところがある生徒だと思う。気付けば盛り場にフラフラと出歩くようになり、チャンスがあれば処女を捨てたり、よからぬクスリを遣ったりする怖さが見ていてある。
これからは二人を気をつけて見ていこう。当然、クラスの他の生徒も男女に関係なく見守らないといけない。不良化する生徒は、小五から生活や態度が崩れ始め、夏期を前後に不良の道を突っ走り始めと、大学の講座で聞いた覚えがある。まあ倉岳や李やW渡辺あたりは大丈夫だと思うし、川和田や菅原も真面目なやつだから大丈夫だろう。遊海もお調子者で危なっかしところがあるが大丈夫だろう。しかし、まだ子供なのでいつ何どき心が傷つき、暗い穴に落ちてしまうとも限らない。また子供だと軽く見ていると彼らは大胆な行動に出て身も心も傷つきながら、大人の手が届かない所に行ってしまうことだってあると想像を忘れてはならない。
伴牧葉のその後はどうなったのか気になりながらも、動き回っている椎本を探してまで声をかけずにいた。それに伴の両親もさぞや心配しているだろうにと思っていた。
夕方の終業まで、職員室で椎本がゆっくり座っている姿を見なかった。
天野が帰る支度を始めた頃、椎本が職員室に帰ってきた。
「椎本先生ご苦労様です。あの後、伴さんはどうなりました?」
「あっ…、お疲れ様です。それが……伴牧葉は今日は帰ってこない模様です」
「はい? じゃあ、ご両親が心配して…。警察に保護願いを出したんですか?」
「それが……、伴牧葉の両親は……彼女の心配をしていないもので…、ほっといてくださいなどと言うので困ってます」
「放っておけ? 伴の家は放任主義なんですか?」
「まあ……そういう訳です。独立独歩で生きろと。三歳の頃から掃除、洗濯、料理、裁縫、挨拶などの躾は厳しくしてあるし、時刻表、地図の読み方も教えてあるから一日二日、一週間、一ヶ月で死ぬようなことはない。まして今の日本でと言ってます」
なんとも無茶苦茶な理屈を持ち出す親だ。事件や事故に巻き込まれないかと心配もしないのか。
「お金を家から相当持って出ている感じなんですか?」
伴が家から大金を持ちだしていると分かったから、その余裕で屁理屈を言っているのだろうと天野は想像した。
「どうも、切符代を入れて一万円くらい持って出た模様です。あと彼女のゆうちょのキャッシュカードも持って出てるそうです。だからお金の方は心配ないから、子供一人で泊めて貰えるか分かりませんがカプセルホテルでも漫喫でもどこでも泊まって過ごすことは出来るだろうと、両親は考えている感じです」
やっぱしそうか、と天野は思った。
「お金があるから、メシも困らないだろうと」
「はい……」
椎本は心から疲れたという顔をしている。子も子なら親も親というところか。地方を悪く言うわけではないが、東京の常識や治安とは違うだろう。夜遅くまで遊び歩いても、24時間の店沢山あり灯りで明るい、常夜灯が路に路に沢山あって明るい、警察官が自転車などで頻繁に巡回している、仕事や勉強、遊びなどで午前ゼロ時過ぎても大人が相当数外を歩いてる、住宅街でも深夜まで起きている人が沢山居て物音に気付くなど、東京では心配ない、危険を感じないくもないが逆の意味で安心という常識も、一歩地方に出れば逆の状況がある。本当に事件事故にあったらどうする。悪い人間に目を付けられて酷い目にあってらどうしようと、娘のことが心配じゃないのか。乱暴され殺されるかも知れないじゃないか。
「でも、椎本先生が警察に保護願いを出したんでしょ?」
「いいえ」
「えっ!? なぜ…」
「警察に相談したりしたら、学校に責任を取ってもらうって言うもので。校長、教頭と相談した結果、明日まで静観することに今決まりました」
なんとも、情けない対応。何とも無責任な対応。何とも自分勝手な大人たちなんだろう、と天野は思った。
じゃあ自分は代わりに動くかといえば動かない。また自分のクラスの生徒、矢崎や田中の親から椎本が伴の親から言われたようなことを言われたら、自分はもっと彼女たちの身の安全を考え行動するかと問われれば、自分も椎本を同じような対応しかできないかもしれないし、しないかもしれないと感じた。
「伴さんのことが、今晩一晩、心配ですねぇ…」
天野も、こう言うのが精一杯だった。