アンズ飴 その9
僕たちは結局クリスマスもだけど、大晦日も会わなかった。僕が『会いたい。どうしてる?』『一ヶ月以上も君に会えなくて、寂しい。年末の寒さが骨まで染みる』などとメールを送ると、『今、受験勉強の追い込み中。がんばろうね v(^^)v 』と返信が返ってくるだけ。彼女のほうから会いたいとか、会えなくてさみしいという言葉はなかった。
僕の方も彼女から“距離”をとったことにより――彼女から言われて強制的に――以前より予備校の授業に集中する時間が増え、過去問などの受験勉強がはかどった。四月に思っていた志望校には一年浪人しても届きそうにないけども、日○駒○辺りの偏差値の大学なら入れそうな希望が繋がった。一年浪人して今回も入りたい大学ではないので入りませんは通じないだろう。もともと、大学に何しに行くのか僕には掴み切れてないところがあった。文学部に入って将来作家なり出版社の編集者に成れるなら意味があるだろうし。経済学部、商学部に入って孫○義、盛田○夫、松下○之助のような日本の将来を担う経営者に成れるなら意味はあるだろう。法学部に入って日本の法律、アメリカの法律、イギリスの法律を勉強する、弁護士や裁判官にならなくても役に立てる人になれたなら、例えば政治家とか公務員とかに成るなら意味があるだろう。しかし、文学部を出ても必ずしも小説家になれないし、編集者にもなれない。経済学部で勉強するより一日でも一年でも早く、若いうちに市井の飲食店や業種を選ばず会社に入って“勉強”したほうがいっぱしの経営者になる近道だろう。僕は弁護士にも政治家にも公務員にも興味がない。去年、法学部を目指していたのは将来一番潰しが利くだろうと計算してのことで、法律の勉強が心からしたかった訳じゃなかった。
僕は何がしたいんだろう……。そう夏前までグチャグチャ考えていた。それが彼女と出会い、付き合っていくなかで僕は変わった。
悩むのを止めようと。いいじゃないか、成るようになる。僕が思っていたのと違った道でも、進んでみれば楽しかったり、良かったりするかもしれない。その時点で計算違いでも、先に進めば良くなるかもしれないじゃないかと考えが変わった。不必要に考えなくなった。まあ、色惚けして悩まなくなったというのが正しいかもしれない。
正月も会わないまま、一月も終わりに近づいた頃、彼女からメールがあった。『至急、会いたい。大事な話がある』と。
受験を間近に控えたこの時期に、恐ろしい予感を含む「至急」と「大事な話」。何だ、何だ、何だ!
新宿三丁目に近い場所にある外観も内装もレトロな純喫茶という感じの、昼はコーヒーショップ、夜はスナックに変わるらしい店に呼び出され、僕はいつも通り15分前に席に座って彼女を待った。
テーブルの上のランプのシェルに埃りが積もっているんじゃないかと思えるくらい薄暗い店内、かかっているBGMは単調で面白みがなく、コーヒー豆の匂いは焦げ臭く、彼女を待っている15分すら苦痛を感じた。嫌な予感が見るもの、聞くもの、嗅ぐもの全てを最悪に感じさせる。
彼女は約束の時間からさらに15分遅れて店に来た。オフホワイトの綿のゆったりしたシルエットのワンピース、紺色のスエードのローファーという格好で、久しぶりに会う彼女は、今までのイメージからするとずいぶんと温和しめの姿だった。小さな声で「遅れてごめんなさい」といって、僕と目を合わせことなく真向かいに座った。
「久しぶりだね。元気だった」僕が声をかけると。
うん、と彼女は小さく頷いた。
「受験勉強はかどってる?」
うん、とまたも頷いた。まだ彼女は顔も上げず下を向き続けている。
「少し痩せた? 今まで以上に来るまでの道で男たちに振り向かれたんじゃない?」
彼女は下を向いたまま、ゆっくりと首を横に振っただけだった。
そこに店の者が注文を取りにきた。彼女はブレンドを頼み、僕は今日三杯目のエスプレッソを頼んだ。
「…………。それで、至急の用ってなにかな?」
「コーヒーを飲んでから、…落ち着いて話す」
最悪を予想すれば、二つの話題が思い浮かぶ。一つは好きな人が出来た、別れてくれ。一つは妊娠しただ。
「大学受験が終わってからでも良かったけど、すっきりさせるために今日話す決心をしてきたの?」
下を向いたままの彼女は、首を軽く傾げた。
「好きな人ができた、という話しじゃないの?」
ここで彼女は顔を上げた。目元は泣いた後のように腫れぼったかった、そして儚げに頬笑んで首を横に振った。
「別れ話をしに来たんじゃないの」と言ってまた顔を伏せた。
「大学進学に意味を見出せなくなった、とか」
「大学は卒業するつもり。だから来月(二月)には受験して、できれば青○学院大学に入る……」
ブレンドとエスプレッソが運ばれてきた。彼女は顔を伏せたまま、コーヒーを静かに一口飲んで、一息ふーっと息を吐いた。
「良かったよ。心配してたんだ」
僕は、彼女からの話しを先送りにしたいという思いと、話しを聞かずに帰りたいという思いから、普段以上に明るく言った。
「妊娠してる」顔を上げて彼女は言った。その目は真っ赤で涙でいっぱいだった。こぼすまいと耐えているのが分かった。泣いたら自分の負けと思ってきたんだろう。妊娠を告げられた時点で僕の負けなのに。
「あなたの他に、付き合っていた人が二人居ます。あなたを含めて三人と何度も寝ました。誰の子でもおかしくなかった。…しかし誰の子供か、私はわかってるつもり。だから最初にお腹の子の父親に会って話しました。そしたら、相手は自分の子ではないと否定し……」
僕の耳は、彼女の話しを一瞬聞こえなくした。三股か…。僕は何番目だろう。彼女の言い方だと三番目だな。本命さんに妊娠を打ち明けたけど拒否されて、二番目さんにも妊娠の話しをしたけども拒否された。最後に僕に話しを持ってきた。僕なら妊娠した彼女を引き受けるだろうと思って。確かに僕は彼女のことを受験勉強が手につかないほど好きだ。この場ですぐに「あなたの子供よ」と言われたら、大学受験を諦めて結婚を選択しただろう。
「あなたの前に会ってきた人も、わたしと別れるとまで言って否定した。ウソだって言ってもいた」
だよね。やっぱり僕は三番目だ。僕と血の繋がりのない子を鎹に、一緒になろうと迫るんだね、君は。
「ぼくの子供じゃないんだ……」
「あなたの子供じゃないと思う…DNAを調べなければわからないけど。たぶん違う。でも大丈夫、心配しないで。中絶するつもりだから」
「中絶…。まだ間に合うんだ」
「ギリギリ間に合う…」
「中絶するんだ」
「中絶する。私にとっても誰にとっても、お腹の赤ちゃんにひどい選択だけど、いい選択だと思う」
たしかに、お腹の赤ちゃんにとっては最悪の選択だ。
「どんな人? 相手の男は」
「あなたが知る必要はない。あなたの知らない人」
「じゃあ…今日の話は、別れ話でもなければなに?」
「それは…。まず、中絶にはパートナーの同意書が無くても私の判断で出来ます。結婚していれば配偶者の同意が必要だけど、互いが未婚の場合と、レイプの場合、DVから逃げている途中の場合なども同意書はいらないです」
彼女はここまで言おうと決めてきたのか、一気に話した。
「それじゃあ…やっぱり何?」
僕は眉間に皺が寄ってしまった。
「あなたは、どう責任をとってくれるつもりか聞きたかったの?」
「どう責任をとる? ぼくの子供でもないと聞かされて」
「あと的外れな責任を感じて、結婚は考えなくてもいいから。わたしは大学を卒業するまで結婚はしないつもり。学生結婚に憧れはないの」
「結婚する気持ちもないんだ」
「結婚しても、やっていけないでしょ。特に、私とあなたでは」
「僕たちの関係のゴールはどこ?」
さあ、と彼女は首を傾げた。
「さあ、って。無責任じゃない」
僕は彼女に怒りを感じ、歯に力が入るような言葉になった。
「私と別れる?」
意味が分からない。僕から彼女をフレということだろうか。
「僕に何をして欲しいの?」
「逆にあなたは何ができるの? わたしに何をしてくれるの?」
脅迫されている。逃げるべきじゃないか。お金の問題か。それとも愛を捧げろということか。彼女の態度はすっかり落ち着いて、顔があがり、真っ赤だった白目は充血がひき、腕こそ組んでいないが気持ちの中では僕に対してマウンティングをとってるんじゃないか。
「君に対して、僕は何も出来ない」
彼女は、ふーんと鼻で返事をした。そして、コーヒーをひとくち口を付けた。
「でも、君のお腹の子に対しては、祈ることができる」
「祈る? 生まれる前に命が無くなって可哀想にって」
「そう。僕の子ではないかもしれないけど、お腹の子は君の子なのは確かだから」
「…………」
「君の子だから、僕は祈ろうと思う」
「……私の子供に……祈るだけ?」
「祈るだけじゃなく。その子に花を贈ろう。供花、献花として贈ろう」
「…………」
彼女はじっと考え、感に入ったのだろう。
「……そうね。あなたは花を贈って、祈るしか出来ないかもしれないわね」
ぬるくなったコーヒーの残りをいっきに飲み干し、彼女は腹を優しくさすり、僕の頭の上辺りに視線を向けた。
「ありがとう」と言って、彼女は席を立った。
「あっ、伝票も持ってもらっていいかな」
彼女はそう言って、振り向かず店を出ていった。
後で、彼女はメールで知らせてきた。僕たちが会った次の日に、人工中絶をしてお腹を空にしたそうだ。泣くかもと恐れていたが、手術中も、手術後も、家に帰って来てからも泣かなかった、私は自分勝手で冷たい人間と書いてあった。しばらくは麻酔で頭がボーっとしていたらしい。でも麻酔が切れるとお腹や子宮のある辺りが非常に痛くなり、同時に頭の中が空っぽになってしまったことに気付いたそうだ。その代わり、もう自分は普通の女の人と違って、幸せになるべく神様が敷いてくれた線路から断線してしまった、もう幸せになれないと一日中考えるようになり、悲しくもなり怖さも感じたとか。
あと、今は母親のマンションに一時移っている。僕には会いたくない。誰にも会いたくない、だから母親のマンションの住所は教えられないと書いてあった。
メールの最後に
『あの子のために、あの子が天国に行けるように、本当に祈ってください。あの子のためにお花を供えてあげて。お願いします。』とあった。
(つづく)
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