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アーモンド・スウィート

 稲垣邦孝(くにたか)の父は今日も彼を残して行ってしまった。邦孝の父は長距離トラックの運転手をしている。主に大型機械や電気製品を運ぶことが多い。壊れたら大変な品物ばかりを運んでいる父は、会社にそれだけ信頼されている。邦孝は父を尊敬し、憧れていた。しかし、ここではないどこかに行ける父のことを羨ましいと思っていた。母や友達のことが嫌いなわけじゃない。学校がイヤなわけじゃない。表現しようのない感情が胸の奥に渦巻いていて、その渦巻く感情は邦孝を遠くへ遠くへと思いを馳せさせる。座っていても寝ていても身体がここではないどこかの空気の中へと走らせ。肌の下一枚の中でムズムズするような感覚はくすぐったくもあり、蕁麻疹のように痒くもあり、邦孝を冷静にさせてはくれない。
 父のトラックの後ろを今日も全力で追っかけた。
 父はサイドミラーを見て、トラックを追っかける邦孝に、気をつけて学校へ行けよ、頑張って勉強しろよと、ポーっと大型トラック独特のクラクションを鳴らした。

 醤油味噌屋の前まで走ってくると、店の横の細い路地から菅原忠夫(ただお)が鞄を片方の肩に掛けて出てきた。忠夫は、同じクラス五年一組の川和田康弘(やすひろ)と並び、小五の現在でも身長が170センチ以上ある。小学生用の鞄を背負っている大人の姿にみえた。
「おうっ」走って目の前を通り過ぎようとする邦孝に忠夫は声を掛けた。
 邦孝も、「おうっ」と振り向きもせず声だけ返した。
「父ちゃんに置いていかれたのか」忠夫はからかうつもりもなく、正直な言葉を言った。邦孝が父親大好きなことは、学校でも有名な話しだから。
 邦孝はカチンときて走るのを止め、振り向いて忠夫を睨んだ。
「何だよ。そうなんだろう」忠夫は睨まれようと悪びれもせず、学校の方向だからと邦孝に向かって歩きを止めない。
 忠夫は身長が高いだけではなく骨も太い、高い身長のために細く見えるが組み合って見ると力も強い。邦孝が喧嘩しようとしても大人と子供の差があり、睨むくらしいしか手が無い。
「気に障ったんなら謝るよ。悪かったな」忠夫は邦孝の横を通り過ぎる時にぼそりと謝った。
 忠夫は身体の大きい乱暴者じゃない。基本気の優しい男だ。だからぶっきらぼうな言葉を口にしても、殴ったり蹴ったりと理不尽な暴力は使わない。それを分かっているから、喧嘩に成りそうな雰囲気になっても怖くはない。
 その本当は乱暴者じゃない性格が、隣の二組の数名からつけ込まれ、時どき妙な言いがかりを受けられたりする。遠くから泥団子をぶつけられたり。腐った野菜を忠夫の上履きの中に入れられたり。忠夫が学年のある女子を、トイレで押し倒して痴漢したという噂を立てられたりしてきた。
 そういう時に頼りに成る男がクラスに一人居るのだが、彼は物事を大きな事件にしてしまう。親も先生も、学校も地域の大人さえも巻き込む。子供の悪戯や喧嘩がいつの間にか、子供、その親、先生がみんなで話し合って解決する問題に成ってしまう。忠夫は彼のことは友達として好きだけども、彼に頼ろうとは思わない。
 あと、乱暴者ではない性格の忠夫は、その身長と体格を活かして運動をすれば良いのにと親や先生、近所の大人たちから言われるが、その乱暴者ではない性格だから、ぶつかったり蹴ったり叩いたりする、頭に血が上って汚い言葉を吐いたり、相手を貶めたり、勝った者は総取り、負けた者には何もやるなと求めるスポーツの世界に馴染めない。体格が良かろうと、スポーツはしないと心に決めていた。
「一緒に行こうぜ。何所まで走っても、立ち止まっていても学校に遅刻するだけだからな」忠夫は振り返って邦孝に言った。
「おうっ」と邦孝も忠夫の後を追って、学校に向かって歩き出した。
「父ちゃん、今度はどこに行ったんだ」
「長野に行った。電子部品の大切な何かを運ぶらしい」
「ふーん…。お前、鞄持ってないが、教室に(教科書やノートは)全部置いてあるのか?」忠夫は見下ろして邦孝を見た。
「教科書は隣の(平石)輝に見せてもらうし、ノートは机の中にいつも一冊置いてあるし、どうせ勉強なんかしないから」
 邦孝は勉強がしたくないし、成績も悪い。だからと言うわけではないが、二年生の三学期から教科書もノートも参考書も鞄に入れて登校していない。
 いつも鞄は、父を悲しませない為に背負ってるだけだったから、父が行ってしまった今日はもう要らない。いつものように天野先生に怒られ、呆れられるだけだろう。

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