アーモンド・スウィート
時間は前に戻って、秀嗣が美術部の先輩に呼び出され、嫌々と、怖々と、なのに少しだけ心引かれて放課後、美術室で活動している美術部に顔を出したときの話し。
ホームルームまで終わり、放課後の活動時間になった。川和田康弘はミニバスケットの練習のために張り切って校庭に向かった。彩葉や人志たち進学塾に通う者たちも、教科書を置き、塾の教材を持って塾に向かうので一度家に戻るために急いでいる。校庭に急いで遊びに出る者もいた。しかし大半は一度家に帰ってから、家の近くのそれぞれの秘密の場所に集まって遊ぶのだった。秀嗣はこの日、美術部に行かなくてはいけないと頭の中にあったので、誰にも一緒に帰ろうと声をかけなかった。不思議なもので、秀嗣に対して一緒に帰ろうと声をかける者もこの日はいなかった。秀嗣に声をかける者も、「帰らないの?」というくらいだ。秀嗣も「うん……」と曖昧に答えて、これから美術室に行って美術部を見学するつもりなんだとはっきり答える訳じゃないので、「あー、そう」といった感じに相手は反応して「じゃーね」とか「じゃーな」と言って学校を帰っていった。
秀嗣はどのタイミングで美術室に行ったものか悩み、五年一組の教室でグズグズしていた。
二組の坂根すずが来ていて、矢沢美佐子を待っていた。二人は吹奏楽部でこれから音楽室に連れだって一緒に行くのだ。廊下には三組の枇杷谷晶輝(あきら)が来て二人を待っているのが分かった。
四階の音楽室まで行く吹奏楽の三人の後ろを、ついて歩いていると怪しまれない程度に距離と取りながら付いて階段のところまで来た。そのまま階段を一階まで下りて帰ってしまえたらどんなに気持ちが楽なのにと思うが、今日帰ってもいずれ先輩に呼び出されるか、放課後一組の前まで先輩が秀嗣を捕まえにくるは想像出来た。だから三階のフロアーで一度はため息を吐きながらも立ち止まり、美術室がある方へ歩を進めなくてはならなかった。
そして美術室の前でもう一度秀嗣はため息を吐いてから、美術部が始まる前は扉を開放している美術室の中へと入った。扉をくぐる頃には、半分以上「もう野となれ山となれ」どうにでも成れという気持ちで、秀嗣の心はスッキリしていた。
美術部には一組の人間はいなかったが、二組の立川小百合と三組の藤塚珠理奈(じゅりな)、八木玖麗(くらら)の三人が、六人がグループで座れる作業台に固まって居た。秀嗣は立川小百合とは三、四年生の頃同じくクラスだったので面識があった。特に仲良く話したというわけではなかったが、距離があったという空気でもなかった。
「よーっ! 久しぶり」と言う感じに、立川に対して手刀をチョンチョンと切ってみせた。
小百合は「何で、あんたここに来るのよ!?」といった感じ額と眉毛を動かして秀嗣を黙って見返した。
小百合の反応に珠理奈と玖麗も反応して扉の所に立っている秀嗣を見た。「誰?」と玖麗が小百合に小声で聞いた。遊海と答えただろうと見えた。なぜなら珠理奈と玖麗が再度秀嗣を見たからだ。
「美術部の見学なら、村山先生に伝えておいた方がいいよ」
小百合が親切で言ってきた。秀嗣は指で美術準備室を指して小百合に聞いた。小百合は、うんと頷き準備室を指した。
準備室には紙やらプラスチックの板やら、厚いボール紙で出来た太い筒、薄いボール紙、工作用方眼紙の束、習字の半紙、巻かれた半紙、古新聞、ペンキの缶、絵画用筆の束、絵画用刷毛の束、デッセンに使う石膏の頭部、アフリカか南米の原住民が作ったお面、木彫りの像、ヨーロッパのどこかの民族衣装を来た人形、美術室の六人掛けのテーブルと同じテーブル三つの上に置かれ、壁には大きなスチール製の引き戸の付いた収納棚が六台~八台あり、たぶん収納棚にはテーブルの上に置いた物ほどすぐには使わない物が、あるいは過去の美術部――東神田小を卒業した先輩の――の作品か、OG、OBの卒業制作品が納められているのかもしれない。
準備室の奥にグレーのパーティションがあってその中に灯りが付いていた。パーティションを回って覗いてみると、村山先生が良い香りのするコーヒーを飲みながら、自分の頭の中にあるイメージのような物をえんぴつで書いていた。
「先生、今日ぼく、美術部の見学をしてイイですか?」
「…えーっと、遊海くんだっけ」と聞かれ、「はい」と秀嗣が答えた。
「絵とか工作に興味があるの? たしか五年生だったよね」
「はい、五年一組です。えーっと、工作するとかには特に興味がない……のかもしれないですが、先輩に見学しに来いと言われて、仕方なくといいますか…、興味が無くはないのでこの際だからという気持ちで…来ました。それでも、絵には興味があります」
煮え切らない秀嗣の話しを聞いていた村山先生は眉間に深い縦の皺を付けながら聞いていた。そしておもむろに自分のジャケットのポケットから秀嗣の手のひらと同じ大きさの知恵の輪を出して、
「この知恵の輪でもやって、静かにしていなさい。授業と違うので、好きなことをしていて構わないですが、うるさくされると美術部員に迷惑がかかるので、知恵の輪でもしてれば時間があっと言う間に過ぎるでしょ」
秀嗣は村山先生か知恵の輪を受け取って、美術室に戻ろうと踵を返した。
「あっ! 遊海くんに声をかけた先輩は誰?」と追っかけ村山先生の声がパーティションの中からした。
「名前は分かりません。いつも美術部で油絵を描いている女の先輩です」
「あー」という声が戻ってきた。先輩の名前を言って教えてくれるのかと来して少しの間待ったが、先生はそのあとは声を発しなかった。
小百合たち三人から離れたテーブルにかけて村山先生から借りた知恵の輪を秀嗣はさっそく始めた。知恵の輪は美術的だろうか、科学的な物じゃないかと頭の中にクエスチョンが浮かびながらガチャガチャと動かしていた。そのガチャガチャさせているのが気になったのか、小百合が声をかけてきた。
「遊海、なにしてるの?」
「ん? 先生に見学しますって挨拶にいったら、これでもやっとけと渡された」
「絵描いたり、何か工作したりしないの?」と小百合がのんびりした声音で聞いてきた。
「今日はさ、先輩に呼ばれて来たんで、絵描くとか、何か作るとかしないと思う」と秀嗣は小百合の方を見ず、知恵の輪に集中しているふうに言った。
さっきから村山先生にも小百合にも、先輩に呼ばれたから来たと言い訳めいたことを何度も繰り返して言っているが、聞いた村山先生や小百合たち三人は、何に言ってんだかなー、と思ってるだろうと想像できた。
それにしても先輩はそろそろ来ても良さそうなのに、放課後になって20分以上経ったのにまだ来ていない。六年生はホームルームが長いのだろうか。まがりにも受験生の生徒も多いと思うが、大半は苦労などせずそのまま区立の中学校に進むと思うのにな。45分の授業を六時限までやったら、あとは何に時間を使ってすることがあるのだろうか。卒業製作? 六年間の思い出作りに、何か学年単位、クラス単位でしてる? 秋の今から卒業式の練習? 特別に、演劇か合奏の卒業公演の練習?
放課後が30分くらい経った頃、村山先生も美術室に現れてやっと美術部が始まった。部員は三年生が四人、四年生が四人、五年生が小百合たち三人を含めて五人、今日は秀嗣も参加。六年生は廊下がすれ違ったことがある程度の先輩の顔があり、あの絵の先輩以外に二人。なぜか秀嗣の他は全員女子ばかりで男子はは居なかった。ハーレムと喜ぶほど秀嗣は大人びてないので、女子ばかりなのでかえって緊張して知恵の輪に視線を向けたまま顔が上げられなかった。
五年以下の部員たちはそれまでしゃべっていたが、六年の先輩二人が美術室に来てから慌てたように各々の活動の準備を始めた。絵を描く物は、創作途中の絵と水彩絵の具と筆、パレット、水入れ。工作の物は美術準備室から段ボールで作っている途中の物、布やボール紙で作っている途中の物、お茶の2リットルペットボトルお酒の5リットルペットボトルを繋げて作ってる物などを準備室から持ってきてテーブルにおいた。なかには彫刻刀を握って版画を掘り始める人もいた。
なのに、秀嗣を呼び出した絵の先輩はまだ美術室に来てなかった。
部員一人ひとりの間を、丁寧にアドバイスをしながら村山先生が動いている。どれくらい手を加えてべきか、そろそろ完成させて次の作品に移りなさいという声が、秀嗣のもとにも聞こえてきた。
村山先生が秀嗣の側を通ったので、秀嗣は知恵の輪から顔を上げて、
「先生、油絵をいつも描いてる先輩は、今日休みですか?」
「さあ。学校に来ているかまでは分からないよ。そこにいる鈴木と佐藤も、彼女とはクラスが違うから今日来ているか分からないだろうし」
「学校に居るか居ないかも分からないんですか?」
「担任(の先生)ではないからねぇ」村山先生は腕を組んで言った。
「先輩のクラスを覗いてきてもいいですか?」
「べつに構わないよ。行ってくれば」
「先輩は何組ですか」
「三組。校舎の反対側にある教室だから」と先生に言われたので、秀嗣は美術室を出て廊下を曲がり、コの字型の校舎の反対側の六年三組に先輩を探しに出た。
先輩は三組のクラスに居て、クラスの友達と笑顔で話していた。でも廊下に顔を出した秀嗣にすぐに気づき、「わたしを探してた?」と言った。
「先輩。今日、美術部には来ないんですか?」
「もう少ししたら行く。待ってて」と先輩が答えると、その場にいた男女の先輩がヒューとか声をあげ、あるいはショタ? などと先輩をからかった。
美術室に戻り、村山先生に先輩は遅れてきますと秀嗣は半分以上怒りながら報告した。
「その知恵の輪解き終わったら、まだあるよ。他には鎌倉細工の仕掛け箱もあるからね」村山先生は先輩の出席には興味を示さずに言った。
「もう知恵の輪はいいです。ギブアップします」本当のところ先生が美術部員に構わないのを感じ、なんだかなーという思いになり、一瞬感じた怒りが徐々に引きながら秀嗣は答えた。
「そう。じゃあ、絵でも描いて待ってる? 彼女を待っているということなら、絵に興味が少なからずあるんだろ?」
「絵描いても良いんですか?」いいよ、と先生は答え。
「何で絵を描く。4Bの鉛筆で何かを見てデッサンでもする?」
美術室をグルリと首を回して見ると、図鑑が何冊か黒板の横に立てかけて置いてあり、動物、昆虫、魚、恐竜という文字が背に見えた。
「じゃあ…、写真集を見て動物の絵を描きます」
「あー、それは良いね。じゃあ画用紙を持ってきてあげる。4Bの鉛筆はいま持ってる?」筆入れの中にいつも一本は入っているので、はいと秀嗣は答えた。すぐに準備室からまっさらなA3版くらいの画用紙を先生は持ってきてくれた。
「大きいなら半分にハサミで切ってから、半分を使いなさい。残りの半分はあとで返してもらうから」
秀嗣も貰った画用紙が大きいち思ったので、半分にした。図鑑を開きパラパラとめくり、描く時間は1時間くらいだと想像して、すぐに描けるもので、普段よく観察しないものということで、ネコを見て描くことにした。
30分ほど熱中してネコの絵を描いて秀嗣は肩を叩かれる。顔を上げてみると例の先輩がニコニコして立っていた。
「ネコ?」先輩は遅れたことを詫びるでもなく、美術部に来てくれたことに感謝するでもなく、屈託なく秀嗣に向かって言った。
「ネコです。ネコ好きなんです。イヌも好きですが…今日はネコです」
先輩は黒板の上にある時計をチラリと見て、「もう時間もないから、わたし今日は絵は描かない」と言った。言ってから秀嗣の隣の席に座り、
「好きな絵は何?」
「……。熊一さんのアリとかネコとか好きです」
「熊谷守一の「アリ」の絵と、「ネコ」の絵だね」
「……それと、なんとか珠子さんの富士山も、ぼくにも描けそうと思って好きです」
「片岡珠子? 「富士山」が好きなんだ」
「……あと、あとピカソとジャガールも好きです。ヘタ上手な感じの絵で、やっぱり僕でも描けそうと思うんで」
秀嗣がピカソとシャガールの名前を出して、ヘタ上手と言ったのが聞こえたようで村山先生が二人の側に寄ってきた。
「ピカソもシャガールも実は凄く絵が上手いんだよ。なんか子供っぽいと感じたり、素人っぽいと見えるかも知れないけど」村山先生は優しく言った。
「あの絵は、わざとヘタ上手に描いてるんですか!?」秀嗣はわざとらしく驚いて見せた。実はピカソの「青の時代」の絵を知っていて、キュービズムの絵と違うことは分かっていた。
「わざとではないけれど。修練して修練して掴んだ表現なんだよ。まだ分からなくていいけど。もし美術大に行くとか、成人しても絵のを書き続けるとかするなら、ヘタ上手ではなく修練して見つけた表現なんだと覚えておいてね」村山先生は秀嗣だけに聞かせるのではなく、美術部員全員に聞かせるように言った。
美術部の活動が終わるまで先輩は横で秀嗣の絵を見たり、先生から秀嗣が借りた知恵の輪をガチャガチャさせ遊んでいた。
村山先生が自身の腕時計を見て「じゃあ、今日はこのへんで終わりにしよう」と声をかけると、立川小百合をはじめ三年生から六年生まで部員は作業を止め、素早く片付けはじめた。各々の製作過程の作品を美術準備室から出すときも素早かったが片付けるときも部員みんなが早かった。秀嗣は先輩にネコのデッサンをした画用紙を片付けてもらってしまった。
先輩は戻ってくると「わたしが来るように言って放課後来て貰ったのに、一緒にあまりいなくて悪かったね。次の活動の時は真面目に最初っからくるから、許してね」先輩は秀嗣に手を合わせて頭を下げた。
つぎに殊勝そうに上目遣いに見つめ「次も来てくれる?」と言った。
「……そうですねぇ」先輩の上目遣いが憎らしくって、秀嗣は濁して答えた。その秀嗣の態度が先輩は気になったのか、首を傾げてから、
「それとも、ウチに遊びにくる?」
「はあ?」秀嗣は目が飛び出すほど驚いた。
もの凄く驚く秀嗣に、してやったりと思ったようで。
さらに「そうしよう。スマホ持ってる? LINEするからてQR出して」と話しを推し進めてきた。
秀嗣は、どうにも先輩に振り回されると感じた。LINEの交換を断ろうと思っていたら「ほら早くぅ」と急かされ、なし崩しにLINEを交換をさせられてしまった。
(つづく)