アーモンド・スウィート
クツクツ薄いだし汁のなかで踊る天種、大根、玉子、ロールキャベツ、ウィンナー、コンニャク、シラタキ、トマト、アスパラ、ブロッコリーなどなど。美味しそうな匂いに、鼻を近づけなくてもヒクヒクと自然に顔が鍋のほうに向いてしまう秀嗣。今日は柿境月姫(かぐや)の家のおでん屋に遊びに来ている。まったく、美味しい食べ物がある場所に、放課後の秀嗣ありという次第。
秀嗣と山崎三保子の関係が姉弟のような幼馴染みだとすれば、秀嗣と月姫は、保育園に通っていた時に告った方と告られた方の間柄。そしてフラれた方とフッタ方という含みのある間柄。
「柿境は、好きなヤツ居ないの?」
「居ないかな。だからバレンタインも毎年幸せなものよ」
ドンと胸を張って見せる月姫。
「ぼくは好きな子が何人も居て幸せなんだけど、好きな子が居なくても幸せなんだ?」
「まあ、離れたくない気持ちにさせてくれる男の子が現れたら、その瞬間から幸せになるんだろうけど。学校には居ないなー」
「居ないかぁ…。柿崎はアイドルにスカウトされるくらい可愛いから。高望みしてるんじゃない?」
「何時の話し?」
「0才の赤ちゃんの時と、小学校に上がってすぐ」
「古い話持ち出さないでよ。キッズモデルか子役にどうですか? て店の常連のおばさんに、お母さんがお世辞で言われただけじゃない。アイドルにスカウトされたとか、勘違いでもやめてぇ」
「だけど、芸能界の道、今からでもあるんじゃない?」
「芸能界とか興味ないから。アイドルにも憧れてない。誘われたって進まないし、オーディションにも応募しません」
「試しにオーディションに応募してみたら良いじゃん」
「しません。じゃあ仮に、応募に合格したら遊海はどする?」
「僕が? 柿崎が合格したら?」
「自分だったどうする?」
「んー、とりあえず悪徳芸能事務所じゃなければ所属して、モデルの仕事してみるかな。CMで一発あてれば、家が建つくらいのお金が貰えちゃうんでしょ」
「家が建つかな?」
「さらにテレビドラマに出演して人気者になったら、一生の仕事がいまから決まるんだよ。こんなに楽なことない。いろいろな趣味を活かして七変化にキャラを変えていけば、40才、50才くらいまでに良い加減貯金もできるし、老後も困らない。素晴らしいね」
「上手くいくかしら」
「まあ、空想だから。柿崎が芸能人になったら、誰よりも自慢するね」
「バカね」少し照れくさい月姫。
「もしお互いに芸能人に成って、成れただけで結局売れなかったら、その時は恋人になってみる?」
「なによそれ」
「僕と柿境は腐れ縁つうか、長馴染み以上友達以上恋人未満ていうか、発展の可能性がなくはないじゃない」
「わたしとあなたは、芸能人なのにモテもしないの?」
「モテるけども、お互いに三十過ぎても独身どころか恋人も居なかったら、付き合っちゃう? 家族になっちゃう? て感じ」
秀嗣は、妄想が膨らんで嬉しそうに月姫に笑う。
「わたしはあなたと家族になんて成りたくない」
月姫に冷たく言い返れ、秀嗣は動揺する。
「(えーっ)ショック…」
「わたしこそ、あなたがわたしを家族しようとしたことに、ショック」
「保育園から今まで積み上げてきた、付き合いはなんだったの?」
「何だったんだろう。おでん屋の看板娘と店に来る、将来も店にくると思う近所の常連さん予備軍の間柄。それだけ」
「それだけ」
「それだけ」
「ああ、そうなんだ」
フラフラとショックを受けたまま店を出て行く秀嗣。
「ちょっと、買い物に頼まれたおでんどうするの? 忘れてるよ、遊海」
「今後の付き合い方を冷静に考えて、答えが出たら取りに戻るから。今までぼくが何度かリクエストして、夕飯のおかずがおでんになったことがあったんだ。沢山あったんだから。…今までありがとう」
「まあー、毎度ありがとうございます。今後とも変わらぬご贔屓をよろしくしますね」
「だから考えてみるから…。期待添えなかったらごめん。さようなら」
結局、秀嗣はおでんを買うために持ってきた大きな鍋を月姫の店に置いて帰ってしまった。あとから月姫が両親にいわれ、秀嗣の家に鍋に入ったおでんを届けた。秀嗣はフラフラと帰って来たと思ったら、自分の部屋に閉じこもってしまったと小母さんが教えてくれた。
「帰るからねぇ。おでん冷めないうちに食べてよぉ」
月姫は階段の下から二階の秀嗣の部屋に向かって大声で言った。
秀嗣からの返事は帰ってこなかった。いつもなら怒っていても、それなりに返事は返してきてたのに。
「ヘンなの、急に」
月姫は、口をへの字に曲げ首を振った。
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