アーモンド・スウィート
秀嗣が音に聞かせた話しは、先日の朝の職員室のところから始まった。
毎日朝から職員室は、クラス担任の先生方と、一年生から六年生までのクラスの生徒たちがいつも沢山居る。先生に頼まれてプリントを持ってクラスに帰る者、逆にクラス全員分の宿題を持ってくる者、朝から呼び出され怒られている者、保健室に行く前に挨拶だけしにくる者、午後から学校を抜ける担任の先生に代わり自習させる為の準備に呼ばれたクラス代表、緊急な事情で遅れる音楽の先生の授業時間をどうするか打ち合わせするクラスの音楽係とそのクラス担任などなど、朝から騒々しく活気がある。
東神田小には保健室登校の生徒が三人いる。なぜか彼ら彼女らは優秀で、一人で自習している。中間、期末のテストも、保健室か理科実験準備室、家庭科作業室で受けながら一回も赤点を取ったことがない。このまま保健室に卒業まで居るのだろうかと、朝、職員室ですれ違う時に秀嗣は思う。保健室の前を通るときに垣間見えると、三人は思い思いに、ベッドに寝っ転がって黙って天井を見つめていたり、図書室から借りたであろう本を気ままに読んでいたり、保健の先生と楽しそうにおしゃべりしてたりしていた。
秀嗣と彩葉は一組担任の天野先生に呼ばれて、職員室に居た。
「まあ、教科書と違って厚い物じゃないから」天野の机の足下にA4サイズの理科の補助教材の本が四十冊あった。厚みは確かに5・60パージくらいの物のようだけど、カラーグラビア紙の四十冊は相当に重い。四十冊が軽い物なら、大人の先生が一人で教室まで持ってくるはずと秀嗣はすぐに思った。重いから日直の二人を呼んだんだろう。
「先生は持たないんですか」
彩葉は聞いた。天野先生は、あっ? と言って。
「他に持って行く物があるんだ。別に、重いものを彩葉や秀嗣に持たせて、自分だけ身軽に教室に戻ろうっていう狡いことは考えてないからな」
天野先生は、ホームルームで配るプリントや丈夫なボール紙で出来た箱、新しいチョークの箱(五十本入り)などを抱えるように持った。彩葉は、そっちを二人で手分けして持って、補助教材四十冊を先生が持てば良いのに、と思ったが言葉に出して言わなかった。
二十冊ずつでは男子の秀嗣の気持ちが治まらないと言い、彩葉が十冊秀嗣が三十冊と秀嗣が提案してきた。それでは自分が待つ分量が少なすぎて嫌だと彩葉が主張したら、じゃあということで最初に五冊、まだ自分がが持つ量が少ないと要求したら彩葉が十七冊秀嗣が二十三冊持つことで最終的に決まった。六冊では男女の力の差でもない気がする。でも秀嗣に華を待たせたあげたと思えば彩葉は満足だし、自分が六冊多いことで秀嗣も渋々納得した。
天野先生は少し後から行くと言うので、秀嗣と彩葉が補助教材を持って先に教室に向かった。
「ねえ、朝の答え聞いてないんだけど。教室に戻るまでに返事を聞かせてくれる」
秀嗣は、彩葉からの突然の言葉に驚いた。しかも、朝のホームルーム前のクラスの他のみんなが来る前におきた、秀嗣が彩葉のことが好きだとか、彩葉のことを気にしているという、彩葉が指摘した事件のような事故のようなことを思い出し、急に顔も身体も熱くなって、耳と頬と額が赤くなるのを自分でも分かった。
「なんだよ、急にヘンなこというなよ」
「ヘンなことじゃないよ。今後の私たちの付き合い方に関わることなんだから」
「なに? 中嶋さんと遊海の付き合いに関わることって?」
突然、二人の後ろから誰かが声を掛けてきた。彩葉も秀嗣も飛び上がるようにして、後ろを振り向いた。二人の直ぐ後ろに田中千鶴(ちづる)が笑顔で立っていた。
千鶴だと分かり、彩葉はチッと舌打ちした。さっきは松村と倉岳、今度は田中に邪魔された。今日中に秀嗣から「好き」と応えてもらうの諦めたほうが良いかなと考えた。
「男と女の間で、付き合いに関わると言えば、恋愛か怨恨かどっちかだと思うけど」
千鶴は女性週刊誌のような話しが大好きな子だ。大恋愛かドロドロの怨恨か。三角関係、浮気、寝取られ(大人ならまだしも小学生の間にはない)、ストーキング、廃人になるくらい大失恋の話しが大好物。
「なんだよ、怨恨って!」
秀嗣が千鶴にくってかかる。
「あなたを殺したいほど憎い、殺しても良いですかぁ。てね、石川さゆりの『天城越え』の歌詞にあるじゃない」
「その歌詞、怨恨じゃなく悲恋を訴えているものだから。恋愛の歌でしょ『天城越え』は」
彩葉が指摘すると、千鶴はチロッと下を出した。
「からかうのもいい加減にして」
「中嶋さんと遊海が付き合っちゃえば面白いじゃない。美女と野獣のカップルて感じで、高杉がもの凄く焼くと思うから、さらに面白い」
「えっ…。高杉、中嶋のこと好きなの?」
秀嗣が千鶴に視線を向けると、千鶴はコクッと頷く。秀嗣は続いて彩葉に顔を向けて、知ってた? と目顔で問うてくる。
彩葉は面倒くさっ、と思ったし、田中のやつ余計なことを、と思った。しかし、顔には出さなかった。
「高杉に告白されたのは本当。好きじゃないからって即答で断ったわよ」
「まあ高杉くん、渡辺珠恵さんのことも好きだったから。中嶋さんに断られて良かったみたい。渡辺さん一筋に決めたって、感謝してもいたしね」
「なんで知ってるの?」
千鶴が自分が告白されたように言うので、秀嗣が聞いた。
「自分で全部、話してたから。聞いたらなんでも」
「おれ、知らなかったなぁ。いつ、どこで高杉は言い回ってたの」
「言い回って居たわけじゃないけど、半月前くらいに中嶋さんにフラれたって加瀬さんに話してたのを、その場にいた女子数人がさらに根ほり葉ほり聞いたら、全部話してくれたのよね」
「中嶋にフラれた。そんでもって渡辺珠恵が好き、て?」
「そう。笑顔で」
あぁ知らなかった、と秀嗣は声に出して言った。
「他人(ひと)が誰を好きになったの、フラれたのなんていちいち知る必要なんてないでしょ。男子たるもの惚れた腫れたは気にしない。ドシっとしていた方が格好いいと思うよ」
彩葉は、それないりに秀嗣にメッセージを送った。
「まあ古色蒼然とした考えね」
千鶴は面白がる。彩葉は言い返そうか思ったが、じっと堪えた。
「なんだ、まだ教室に戻ってないのか」
気づくと天野先生が三人に追いついて、直ぐ後ろに来ていた。
「油を売ってないでさっさと教室に補助教材を持って行け」
彩葉と秀嗣の隣の田中を見つけて、
「ずいぶんゆっくりと登校して来たな」
「はい。母が寝坊して朝ご飯の支度が遅かったのもで。朝ご飯をちゃんと食べてこないとダメって、先生はまえに言ってましたよね」
千鶴は悪びれず答える。
「ご飯をちゃんと食べて来たんなら感心だ。力が漲ってるだろう。お前もこれを持って行け」と自分が持っていたプリントの束を千鶴に待たせた。
「先生が教室に行くまでに戻ってないと、今度はこんなに優しくないからな。もう三人で油を売ってるんじゃない」
はーいと答えたあと、秀嗣と彩葉、千鶴の三人は無言で教室を目指した。
彩葉のこの時(職員室前)の気持ちは、あとで彩葉から聞かされたと秀嗣は音に語った。
音は中嶋彩葉を直接は知らない。加瀬和歌から聞いた人となりと、五年二組の麦畠遥佳(むぎはたはるか)が三年、四年生のときに中嶋彩葉と一緒のクラスだったから、遥佳から聞いて知ってくらいのレベルだ。音と遥佳は一緒のスイミングスクールに通っている。
それにしても、秀嗣が音にここまでいろいろと話していると中嶋彩葉が知った、必ずショックを受けるだろう。恥ずかしくて死にたいと思うかも知れない。面白半分に関わったら後でどんな恐ろしいことになるか、秀嗣に少しずつ冷たく接しながら親離れ姉離れさせないとと思う音だった。
(つづく)
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