アーモンド・スウィート
千々岩麿実(ちぢわまろみ)の家は八百屋をしている。毎日、豊洲市場、大田市場、淀橋市場からその日一番の野菜と果物を仕入れてきて売っている。麿実が生まれる前から、外神田や御徒町近くにある大型スーパーに近所のお客は大分取られていた。しかし千々岩商店にはスーパーに負けない強みがあった。手作りの漬け物が美味しく、しかも種類が豊富なことだ。ぬか漬けに、浅漬け、溜醤油漬けなど、祖母と母が作っている。祖母は秋田の出身で、母は山形の出身なので幼い頃から漬物に慣れ親しんできて、美味しい漬物に詳しく、作るのもの真似るのも上手だった。
麿実は実家の八百屋を悪い商売じゃないと子供心に思っている。将来、大学を出たとしても実家の八百屋を継いでも良いと思っている。ただ、父と母は反対のようだ。「八百屋なんて、お前の代で潰して良い」、八百屋を遣るよりも、お医者さまか弁護士さまに成りなさいと何度も言う。父のなどは「俺は本当は弁護士に成りたかったんだ。しかし、浪人はさせられないと言われて、大学の法学部を一校しか受験できなかった。悔しくも法学部は落ちて、滑り止めに受けた商学部に入ったんだよ」「商学部を出て、八百屋を継がずに会社勤めをするか、親の跡を温和しく継いで八百屋に成るか悩んだよ。でも朝早くから家を出てやっちゃ場に向かう父の背中と、店の奥の薄暗い作業場で背中を丸めて漬物を漬けている母の背中を改めて見て、実家に帰って八百屋を継ごうと思ったんだ」「はっきり言って、法学部に入れなかった処から悔いがある。弁護士に成れなかった悔しさが胸にある。お願いだから麿実、弁護士に成ってくれよ。父ちゃんのお願いだからさ」と言われる。
母からは「母ちゃんは麿実にお医者さまに成って欲しい。神田で開業のお医者の先生じゃなくても、大学病院の先生でもいい。病院の経営者の娘さんと結婚して養子に入っても構わない。母ちゃんは弁護士でも医者でもどっちで良いよ」と言われる。
麿実は思う、ボクの学校の成績を見てから言ってよ、と。中学、高校と勉強したとしても法学部や医学部に入れると思えるの? ボクだって分かるよ、六年後に大学の法学部、医学部に入るなって無理だよ。夢見る夢子さんの白昼夢だよ、と。
そして勉強もせず、今日も自分の部屋でテレビゲームをしている。中学に入ったらスマホかタブレットを買って貰う約束をしている。一人ッ子だから、父も母も祖父も祖母も自分に甘いのか、テストの点数や学校の成績を理由に、麿実の欲しい物を我慢させるということはない。簡単には買って貰えないけども、中学に入ったらスマホかタブレット、高校に入ったらオートバイの免許とバイク、大学に入ったら車の免許と中古の普通車か新車の軽自動車と、父と母は今から約束してくれている。年齢による、所持して良い適齢期のようなものが父や母にはあるのかもしれない。学校の成績で縛るということはないので、それはラッキーだと思う。
「麿実ッ。段ボールを片付けてくれないかな?」野菜を段ボールから出して、店に並べたあとの段ボールはそのままだと凄く邪魔だ。野菜を並べるのに忙しいと、段ボールは片付けずにそのまま店のバックヤードに放り投げられたままになってしまっている。バックヤードは野菜以外にも、祖母や母の漬物、マヨネーズやケチャップなどの調味料も置いてある。なので父はバックヤードと店頭を忙しく行ったり来たりする。空いた段ボールは非常に邪魔になる。一日に何度か、麿実は段ボールを片付けるお手伝いをする。
「あっ……、いいーよぉ!」ゲームの途中だけれども、このまま続けても、ステージクリアを続けて終わりそうにないので、ポーズボタンを押して麿実は腰を上げた。
二階の生活空間から一階の店のバックヤードに階段で下りて行ったらば、父が階段の下で待っていた。
「悪いな。勉強してたところだったんだろう?」両手を合わせるようにして、麿実に頭を下げた。
「いいよ。区切りがつくところだったから」麿実をウソをついた。このように勉強していると思っている父や母にウソをつくのはいつものことなので、最近では慣れてしまった。
「あと、悪いんだけどさ。ばあちゃんの漬物の袋詰めも手伝ってくれないかな? 母ちゃん、配達に出ているから、いまばあちゃん一人なんだ」
「うん。分かった。ばあちゃんの手伝いもする」お手伝いをしたあと、とくにお駄賃やご褒美が貰えるわけではないが、ただゲームをしていただけの麿実は、ウソを父や母についたこともありプラマイゼロと考え、お手伝いの量が増えても嫌な素振りを見せづにやることにしていた。
バックヤードに山に成っていた段ボールを潰し、ナイロンの紐で一つにまとめたあと、ばあちゃんと並んで秤を使いながら漬物を袋に詰めていった。
「まろちゃん。偉いなぁ。今から仕事を手伝いなが仕事を覚えるというのは立派な心がけだよ。ばあちゃんは、まろちゃんを偉いと思ってるよ」祖母はいつもそう言って、一緒に手伝うと麿実を褒めてくれる。
だから麿実は八百屋の仕事を、このまま継ぐことは悪いことじゃないと思っている。