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アーモンド・スウィート

202X年 いまの日本とはちょっと違う。

ここではないある場所。神田駅から東側と南側に展開される準住居地域。
東側は神田明神下のいわゆる「火事と喧嘩は江戸の華」の神田の雰囲気が百分の一か千分の一か残っている職人、町人の街。隣は今はないけどやっちゃ場(青果市場)があった秋葉原。秋葉原は現在はヲタクと趣味人の街。南側は直ぐ隣は日本橋という立地そのままの商業の街。魚市場は元々は日本橋。この日本橋に三越があり、白木屋(東急百貨店)はもうないけれど、高島屋がある。梶井基次郎がレモン爆弾を置いた丸善がある。麒麟の像で有名な日本橋の袂の野村證券があり。さらに進めば京橋、銀座。三越の後ろは日本銀行。日本銀行のすぐ側に東京駅。東京駅の回りは大手町、有楽町のビジネス街。ちょっと行けば霞ヶ関の官庁街。


 東神田小学校五年一組に通う遊海秀嗣(ゆかいひでつぐ)は、朝から息をハアハアしながら学校へ向かっています。運動神経は悪くないけれどちょっと運動不足です。今週は秀嗣と中嶋彩葉(いろは)が日直だからです。秀嗣は遊ぶのと空想するのが大好きな男の子。彩葉は休み時間をはじめ少しでも時間があれば本を開き読んでいる女の子。いつも五年生にはまだ難しいだろうと思うような小説を熱心に読んでいます。
 日直の仕事は、クラスの誰よりも早く登校して、担任の天野先生の机の上や机の下を掃除しておきます。黒板を丁寧に黒板消しで拭き、黒板消しとチョークをきれいにして置きます。窓の所にある一組みんながお世話している植木鉢八個に水をあげます。夏ならばエアコンの電源を入れておきます。冬もエアコンを同じように入れておきます。一晩で薄ら溜まった床のほこりを軽く掃いておきます。二人で手分けしてやります。一つでもやり忘れていたり、中途半端な仕事しか出来なかったら、クラスのみんなから責められ、天野先生からは朝のホームルームの時に、自分の席の所に立たされて注意されます。これ以上ない恥ずかしさで泣いてしまう女の子もいます。
 日直の一週間は他の平和の一週間と全然違い、命賭けです。だから必死に学校へ向かいます。


 秀嗣が教室に着くと、彩葉が涼しい顔で自分の席で本を開いていました。
「おはよう」
「……おはよう」彩葉は本から顔を上げずに言います。
「もうやっておいてくれた?」
「な、わけないでしょ」
 やっておいてくれも良いのにと秀嗣は思いました。でも朝の日直の仕事がなければ、あとはクラスの誰かが来るまで自分の席で黙って座っていなければなりません、暇です。彩葉は本に夢中で、話しかけても答えてくれませんから、秀嗣は毎日つまらなく感じていました。仕事があればつまらない時間が埋まり、彩葉と二人きりの朝の時間もなんとなく過ぎて助かります。
「黒板と黒板消しする? 鉢植えの水やりする?」秀嗣は、彩葉に黒板掃除と水やりとどっちがしたいか聞きました。役割分担したほうが効率が良いからです。
 彩葉は答えるより先、植木鉢の下に置いてある中サイズのジョウロを持つと廊下の先にある水飲み場に向かいました。
 秀嗣は鞄を自分の席に上に置くと、黒板の前に行って黒板消しを持って丁寧に上から拭き始めたました。秀嗣は黒板の隅から隅まできれいに拭きます。角かどまで拭かないと済まない性格です。
「ばかね。あと一時間もすればすぐに真っ白になっちゃうんだから、そこそこ拭けていれば良いのよ」水を汲んで帰ってきた彩葉が秀嗣に言いました。
「まあね。でもきれいな黒板を前にした方が天野先生も朝から気持ちが良いじゃない」
「先生、気にしないと思うけど」
 秀嗣は全身を使って黒板を拭き終わると、続いて黒板消しを持って一階の職員室前の廊下に置かれている黒板消しクリーナーに向かいます。
「あのさ…」
「ん?」秀嗣は呼び止められて、教室の扉の所で振り向いて彩葉を見ました。
「クリーナーは、先生の机の上と下の掃除と、床の掃除が終わった後でもいいんじゃない。効率が悪いなーて毎日わたし思ってた」
「こういうのは順番があるじゃない。黒板をきれいにしたら、黒板消しをきれいにする。黒板が終わったら次の仕事に掛かるって」
「だから、その順番が効率悪いんじゃないかなって言ってるの」彩葉は軽く睨むように秀嗣を見ました。
 窓から入る朝の光が彩葉の顔半分を照らします。髪がキラキラと輝き、睫毛も光り、少し興奮した桃色の頬、油絵の天使のようでした。睨まれている秀嗣は胸がドキドキしました。
「…………」
「分かってるの。聞こえてる?」
「んー…、そうかもね。じゃあクリーナーは後にするよ」
 彩葉は水やりをやったジョウロを鉢植えの下に置くと、先生の机の側に置いてある乾拭き用の布巾を持ちました。秀嗣が教室のうしろにある掃除道具箱に向かい、一旦黒板消しを掃除道具箱の中に置いて、箒とちり取りを持って床の掃き掃除を始めます。
「ねえ、中嶋」みんなの机の下も箒で掃きながら、秀嗣は彩葉に声をかけました。
「なに?」
「マンガとか読むの。小説ばかり読んでるけど」
「マンガも時々読むけど」
「そうなんだ。…小説はいつも買うの? 学校の図書室で借りるの、それとも公立の図書館で借りてるの?」
「なんで?」
「何でって。買っているなら大変だなー、て思って」
「つまらないことで話しかけないで。手を動かして」秀嗣は掃く手を止め、彩葉の顔を見て話しかけていました。秀嗣は人に話しかけたり、話しかけられたりすると手が止まってしまうのです。
 一通り掃除が終わりました。
「本は神保町へ行って、古本屋をぶらぶらしながら買う。分かった?」
「そうなんだ、…新刊は買わないんだ。待てる人だったんだ」
「欲しければ待たずに買う。ブッ○オ○なら1、2ヵ月で新刊でも売りに出されてるから」
「作家は誰が好きなの?」
「なんで?」
「中嶋の読んでいる本、僕も読んでみようかなーと思って。それとも、それ読んだら貸してくれる?」
「貸してあげてもいいけど…」クリーナーかけに行きなさいよと彩葉に言われ、秀嗣は掃除道具箱に箒とちり取りを戻すのと入れ違いに黒板消しを持ちました。
 指図されっぱなしだなとモヤモヤしましたが、急いで一階に向かいます。
 秀嗣が教室に戻ってくると、彩葉は自分の席でまた本を開いて読んで居ました。黒板消しを置くと秀嗣も自分の席に着きました。といっても、秀嗣はこういう時に読む本を持っていません。教科書を開いて読むか、ノートに悪戯書きをするかしか暇を潰せないのがつらいところ。今日は彩葉と少し話せました。もう少し話したかったなーと思いながら彩葉の顔を見ていました。


「わたしのこと好きでしょ」本から顔を上げずに彩葉が言いました。
「えっ…どうして?」秀嗣は的を射られたような気がしました。
「どうして、て。わたしが自分で、こうこうこういう理由で遊海がわたしのことを好きだと思う、って言うのはヘンでしょ」
「……」
 二人で沈黙して、張り詰めた時間が流れます。
「いやー、性格は…頭は良いと思うよ、顔は…カワイイのかな、クラスの中では」秀嗣は彩葉の機嫌をとりつつ、はぐらかしてしまおうと思いました。
 彩葉は驚いたように本から顔を上げ、秀嗣を見ました。
「好きじゃないの? 好きと聞けば、これからはみんなの視線がないところでしゃべってあげてもいいけど」
「何だよ、みんなに内緒で話すって」
「もうすぐ誰か来ると思う。それまでにわたしのことを好きって言わないと、もう絶対に、一生、口をきいてあげない」彩葉は睨みました。
 睨まれたので秀嗣は黙りました。黒板の上の時計の音がチクチクと大きく聞こえます。
「さあ、ねえどうなの?」
「中嶋のことは、嫌いじゃない」
「…………」
「嫌いじゃないより、どっちかといえば好きな割合が多い」
「…まったく、煮え切らないな。好きなの、好きじゃないの、どっち?」
「好きかもしれない」
「もうすぐ誰か来るよ。聞かれたらわたしは知らないフリするし、二度と口をきかないから」
「好きだと思う」
「好きだと思う? なんだそれ。煮え切らない」
 秀嗣は同じクラスの渡辺珠恵、渡辺理加のW渡辺のことも密かに好きでした。中嶋彩葉は三番目でした。大事な決断をするのはなんとしても避けたく、ウソもつきたくありません。彩葉に告白してから、やっぱりW渡辺のどっちかにグッと気持ちが惹かれて、彩葉よりもっと好きになったら後悔すると思います。だから、はっきり「好き」とは言えません。
「どうしても好きと言わないとダメ?」
「好きと言ってもらわなければダメに決まってるじゃない。わたしも納得して、心の準備がいるんだから」
「心の準備て何さ」
「何かよ」
「結婚の準備とか」
「ばか。小学生のいまからそこまで心を決めるわけないでしょ。きっと中学は別々の学校に行くだろうから、あと一年半で別れるでしょ」
「だったら、いま良ければいいじゃん」
「わたしを軽い女にしたいようじゃない。わたしは本気の愛しか受け付けないし、大恋愛が理想なんだから」
「みんなに内緒の大恋愛?」
「秘すれば花。恋愛はいまも昔も、周りに隠してするから燃えるし、楽しいんじゃない」
「難しいな…」
「……」
 彩葉は、バカなんだからか、子供なんだからと言って頭を振りました。

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