アーモンド・スウィート

 川和田康弘は今日も放課後一人残って、ミニバスケットのリングに向かってシュートの練習をしている。雨の日は休むけども、夏の暑い日も、冬の寒い日も康弘は黙々とシュート打ち、ドリブルを繰り返してきた。
 将来はバスケットのプロ選手になりたいと夢みている。アメリカのNBAで活躍したいとまでは考えていないけども、日本代表になってオリンピックに出たいくらいは夢みている。小学生で165㎝以上ありもうすぐ170㎝を越える背丈になるだろう。手足も一般の日本の大人に比べても長いと思う。掌の大きさはもう父親と同じくらいだ。

 父は175㎝くらいで男性として特別大きいわけではない。けども母は、175㎝あり普通の女の人より大分大きい。父は生まれ時から実家が魚屋で、スポーツ選手になろうなどとは考えてこなかったそうだ。小学校のときはおろか中学、高校でも運動部に入らなかった。料理には興味があったらしく、食べるのも好きで特にステーキが大好きだった。家が魚屋なので、魚料理を売りにする店を出せば両親も喜ぶだろうと思っていた。しかし本当は洋食店かステーキハウスにコックになって、肉料理を食べさせる店を出したかったらしい。高校を卒業して、父親の知り合いの魚料理が自慢の仕出し弁当の店に入った。京都ならいざ知らず東京では仕出し弁当の店は珍しかったから、知る人ぞ知る名店に入れさせてもらった。しかし洋食屋の夢が諦められず、休みの日には日本橋、銀座、有楽町など洋食屋、レストランを食べ歩いた。康弘の母との出会いは、アメリカの食文化の何分の一かでも分かったらいいかなーという気持ちで行ったアメリカ資本のチェーン店『HOOTERS』に行って、運命的に出会った。康弘の母はフーターズの店の中でも背が高く、グラマラスな身体ではなかったがスタイルも良く、目立っていた。しかも性格が明るく、誰にでもフレンドリーで親切で、キビキビと働き、笑顔が素敵な女性だった。
 康弘の父はいっぺんに一目惚れしてしまった。フーターズで働きたい、いや彼女と働きたい、一緒に居たいと思った。だから初日から彼女を口説いた。フーターズではその時、残念にも調理担当は募集していなかったので、料理の腕を身につけるためにフーターズにできるだけ近い場所のレストランに、仕出し弁当の店をすぐ辞めて入った。そこはサラリーマンの街有楽町のガード下にあった老舗の店で、店の前に張り紙をだしてコックを募集していた。康弘の父は魚料理は、門前小僧習わぬ経を読むで、三枚に捌くところから、刺身、焼き物、煮物まで自信があった。が、肉料理、野菜を使ったサラダの味付け、煮物、スープは、レストランのオーナーシェフに教えて貰うまでほぼ素人だった。まずオーナーが作った料理を食べさせて貰って、味を覚えるところから始まった。
 普通、ハンバーグやオムライス、クリームシチュー、カレーライスくらい家で食べていただろうと想像するかもしれない。康弘の祖父は肉が好きではなかった。おそらくだが自分の父は肉を食べるとお腹を壊す体質だろうと康弘の父は想像している。肉と言えば焼き鳥や唐揚げや、雀焼き、雉焼き、鴨鍋、水炊きなど子供の頃から鳥肉を使った物ばかりだった。豚肉や牛肉は食卓に上がった記憶がない。しかし、笑ってしまうのは、康弘の父が学校で食べたカレーライスを家でも食べたいと泣いてお願いしたら、困った顔をした母が苦肉の策として、大根、ニンジン、ジャガイモなどを大きく切って、コンニャク、竹輪、厚揚げ、がんもどき、魚肉ソーセージが入ったおでん風カレーを作ってくれた。うちは徹底して肉を食べないんだなと、悔し涙を目に溜めながらカレーを食べた想い出がある。
 有楽町の店では毎日毎日がんばった。ジャガイモの皮むき、タマネギの皮むき、みじん切り、玉子の殻割り、玉子の攪拌、皿洗い、店の内外の掃除なんでもやった。それこそ休み日は愛しいあの子に会いにフーターズに来たかったが、洋食の料理人として一日でも早く一人前に成るよう、一日でも早く独立できるように味を覚えるために銀座、日本橋の洋食店を食べ歩いた。
 月一度はフーターズに会いに行った。最初の日から彼女のシフトを聞いていた。三度目にはSNSのアドレスを教えて貰っていた。彼女が店に出ている日しか行く気がしないので、万が一にも彼女が休みの日にフーターズに行っても意味がないと思ったから、必ず彼女がいる日に店に行って、彼女を指名して彼女が空いているなら彼女とずーっとおしゃべりをしていた。そのときに、康弘の父は自分の店を持つ夢を語り、出来るなら君と一緒にやりたいんだとプロポーズのようなことを真剣に伝えていた。

 康弘の母も、心を許した男の人から、そこまでの熱烈な言葉に悪い気はしなかった。しかし、10年も、それ以上も待つつもりも考えていなかった。いま20代の自分が、10年後は30代になっている。店で売れっ子になったとはいえ、人気に自信もあったが、世間では女は若ければ若いほど良いとされていることは事実だから、30うん歳になったタンクトップ、ショートパンツの自分を想像するは嫌だった。だから、5年は銀座の店にいるけども、それ以上は実家のある福島に帰ると伝えた。
 康弘の母も根は真面目な人だったので、彼が店を出すときに少しお金を出して欲しいと言ってきたときの為に、派手に遊ぶことなく、服やアクセサリーに高いお金を使うこともなく、美容ケア専門店にお金を使わずに30品目を良く噛んで食べ、室内で出来るストレッチや体操で体型を維持して、成るべくお金を使わず貯金していた。
 実は康弘の母の実家は家から見渡す限りの田んぼを持っている、近隣でも並ぶ者がないくらいの裕福な農家だ。お願いすれば独立資金を貸してくれただろう。しかし親元を離れる時に、一人前の大人として見られたいと思って東京に出てきたので、結婚して起業するなら親にも兄にも一切頼らないでやりたかった。言うなれば意地のようなものだ。
 約束の5年には間に合わなかったけども、康弘の父は7年かけて一人前のコックになった。約束からオーバーした2年を康弘の母は、経営の勉強と思い、知人と共に東大駒場キャンパスに近い代々木上原駅、井の頭通りに朝と昼は定食屋、夜はスナックという業態の店を出した。その時の定食屋での経験から、お客さんからすごく美味しいと言われる料理を自分でも作れるようになった。そして、彼の実家がお魚屋さんで自分の実家が美味しいコシヒカリを作っているのだから、その両方を活かして魚料理が自慢の店を出すことにした方が良いと考えるようになった。
 彼は最初不満だったが、魚と牛肉、豚肉の全ての下処理と下拵えをやるのはかなり大変だと修行経験から分かったので、豊洲に自分の父の懇意にしてる仲買もあるし、肉の方は有楽町の店から教えて貰ったけども、さらに良い肉を欲しいと思えば、自分で何年もかけて信頼を積重ねなければならないと考えられたから。
 彼女の提案を受け入れて魚自慢の店を出すことに最終的に決めた。

 康弘は父も母も朝の仕入れから、魚仕込み、下拵え、料理、店の営業と朝早くから夜遅くまで働いているのを小さい頃から知っている。バスケットのプロ選手になって、お金を沢山貰い、両親を楽させたい、両親を喜ばせたいと思うようになったのは、やはり小さい頃からだ。
 怠けたいヤツは怠ければいい、ズルしたいヤツはズルすればいい、自分は怠けないしズルもしない。正直に真面目に練習することで、プロ選手に近づけると考えるから、人は人、己は己だもの。

 そして今日も康弘は真面目にシュートの練習をし、ドリブルの練習をし、ドリブルからシュートの練習をしている。

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