アーモンド・スウィート
始まるかもしれないし、始まらないかもしれない 2
中嶋彩葉は船橋から総武線快速で東京駅まで通学していた。父はもともと目黒に実家があり、神田は母の実家だ。今も母方のおじいちゃんおばあちゃんは健在で、…健在どころか二人ともまだ還暦の六十才にも成っていない。当然見た目も身体も若い。
彩葉が船橋の小学校に通わず東神田小に通うのは、区立中学から都立○比谷または○段中・高に進むという狙いがあった。もちろん船橋の近い場所にも千葉県立○葉中学・高、(私立)市○中学・高、渋谷○育学園○張中と首都圏近郊で知られた中学はある。しかし、東京都内のほうが、ゆくゆく東京大学を頂点とした大学進学に有利と思われる公立・私立の中・高の一貫校が多い。都立日○谷、区立九○中・高は多くある選択の一つとして、彩葉の両親が先を考えた上での戦略である。彩葉は桜○、女子○院、雙○、○ェリス○学院に進むことを希望していた。
彩葉は祝日に一人で東京まで出てきて、東京駅丸の内側の○善書店に向かっていた。初めて一人で総武線快速に乗っての東京行きだった。総武線快速一本で行って、帰ってくる。寄るのは○善書店だけ。両親が心配するような怖いところは一つもないはずだった。
彩葉は、少し混んでいる車内で、初めての一人ということもあり緊張していたのかもしれない。それが回りにも分かっていたのかもしれない。扉のところの手すりを持って立つ彩葉に、少し汗臭いような、加齢臭臭いような背広の男が近づいてきた。なぜかしら狭いところに追い詰めるように身体を寄せてくる。手で彩葉の身体を触るわけではないが、どうも男のお腹や股間を彩葉の顔や胸の辺りに押し付けてくるようだ。
「止めてください!」と小さな声で言って、男の顔を恐る恐る見上げると、男は彩葉のことを観察するように見下ろしていた。笑ってもいなかったが、彩葉がどこまで我慢するか見ているような冷たい視線だった。
彩葉は、股間を押し付けられるだけではなく、もっと酷いことをされるんじゃないかと怖くなった。もう顔を上げることが出来なかった。
彩葉から聞かされる話しで、秀嗣は少しずつ思い出していた。
秀嗣は一年前、四年三組の仲間数人と、三年生の春に転校してきて、四年生の冬に転校して行った鹿谷(しかや)くんの家に遊びに行った帰りだった。彼は当時、亀戸に住んでいた。なので亀戸から錦糸町まで総武線各駅で行き、錦糸町で総武線快速に乗り換えて東京駅に帰る途中だった。電車に乗ってすぐ、小さくなっている彩葉を秀嗣たちは見つけた。彩葉の表情から痴漢が行われていると分かった。
「あれ、うち(東神田小)のヤツじゃねぇ?」仲間の一人が言った。
「大人に押されているみたいだね。痴漢かもね」
「でも最近の大人は、子供が注意したら逆ギレするから怖いよね」
「あの子の近くにいる大人が、痴漢に気付いて注意すれば良いのにね」
仲間はほぼ、厄介事には関わらないで居ようという雰囲気だった。
しかし秀嗣の性格からして見過ごせなかった。一人勇気を出して、男に声をかけた。
「おじさん。その子、僕たちの友達なんだ。なあ?」秀嗣はこのとき、中嶋彩葉のことは知らなかった。一年から四年生まで一度も一緒のクラスになったことが無かったので、たぶん東神田小で同級生だったはずくらいにしか分かっていなかった。
「なあ?」と言われた彩葉の方も、助かるかもしれないと思ったが、秀嗣のことは知らなかった。一緒のクラスになったことがないのもそうだが、交際範囲がまったく違い、交わったことがなかったから。
「佐藤くん? 偶然ね。どっこからの帰り?」適当な名前を言って、秀嗣に答えて移動しようと考えた。
その時、偶然かタイミングが悪かったのか電車が大きく揺れ、男の身体が彩葉の身体に強くぶつかった。
思わず「キャっ!」と彩葉は大きな声が出た。
「おい、おっさん! 揺れるのを利用して、痴漢してんじゃねえぞ!」
秀嗣は男に怒った。車内が一瞬にして、秀嗣と彩葉、男に注目した。
「いきなりなんだ!? 痴漢なんてするわけがないじゃないか」
男は車内を見回し、注目している目を気にしながら言った。
「さっきから、おっさんの股間を、ぼくの友達に押し付けてたじゃないか。回りに見えなくても、僕は分かってたんだぞ!」
秀嗣は、男にも回りの視線にも怖じ気づかないで言い返した。
「言いがかりは止めないか。子供だからって、人を傷つける間違いは許されないんだぞ」
「言いがかりでも、見間違いでもないって。おっさんの股間を、ぼくの友達に押し付け、擦り付けていたって」
彩葉は黙って聞いていたが、秀嗣の言葉に顔が急に赤くなった。
「大丈夫か? 顔赤いぞ。嫌だったよな」秀嗣は彩葉を気遣う言葉をかけて、「女の子に何てことしてんだ。おっさん!」と男に一歩近づいた。
「怒るぞ! もう許さないからな」男は逆ギレしてみせた。
「良いよ。東京駅に着いたら、駅の事務所に行こうぜ」
秀嗣は、正義は我に有りと思っているので一歩も引かない。
そのあと痴漢男は最初は必死に、次に少しずつ秀嗣を子供とバカにして否定しだした。
しかし男は電車が東京駅に着くとすぐ、扉から走って逃げようとした。秀嗣は痴漢男を逃すまいと、男の背広の腕を両手で掴んだ。逃げようと必死の男に秀嗣を引き摺られた。男を逃がすまいと取りすがったことが、結果に失敗だった。子供といえど引き摺るのは重い、男は振り返ると大人の力で秀嗣をホームに押し倒した。
「止めないか!」
秀嗣は後ろでんぐり返しするほどに大きく転んだ。頭を強く打った。
男は秀嗣を押し倒したまま、もう振り向きもせず階段を下りていった。東京駅のホームで真後ろに転んだ秀嗣は、頭が白くなっていた。逃げていく男を声も出せずに見送った。仲間たちは心配しながらも、笑いながら近づいてきて秀嗣を起こしてくれた。
「ヒーローぶって、大人に注意するからだよ」
「痴漢にあったはずの彼女、お前が痴漢男に掴みかかっている隙に消えちゃったぞ。バカだなー」
仲間から容赦ない言葉を浴びせられた秀嗣は、真っ白だった頭の中が、今度は真っ赤になるほど恥ずかしくなった。
なので秀嗣はあの日のことを忘れようと思っていた。思い出いだしたが、ただただ恥ずかしかった。
彩葉は教室に戻り着く前に、秀嗣の前で立ち止まった。
「あの日も、ありがとう」改めて言った。
「いやぁ……痴漢男はそのままになっちゃったし」
「しかたないよ。大人だったし、目つきが怖かったから。遊海こそ乱暴とかされないで、良かったじゃない」
「あの後、あんな感じの嫌な思いしたり、怖い思いしなかった?」
心配する言葉をかける秀嗣を、彩葉は真っ直ぐに見つめた。
「大丈夫。この間もだけど、あれからはパパかママが一緒に電車で着いてきてくれるし。わたしも一人で電車乗って東京に来ないから」
「そう。そうだよね、中嶋は可愛いし。…一人で東京に来ない方が安全かもね」彩葉に真っ直ぐ見つめられて、秀嗣は戸惑った。
「可愛いから痴漢に遭うとか、不良に絡まれて連れて行かれそうになるとか関係ないと思うけど?」
「いや確かに。可愛い可愛くないは関係ないね」
秀嗣は彩葉の視線に耐えられず、視線を外し踊り場の天井を見る。
「それに船橋から神田まで、毎日登校してるんだけど」
「そうだね。中嶋は毎日学校に来てるね。心配ないっちゃないね」
「心配してくれてたんだ」
秀嗣は天井に視線が踊らせながら、
「いやー……あんなことがあったし。心配しないこともないけど…」
「やっぱりわたしのこと、本当に好きでしょ? だからわたしのピンチに現れるんでしょ。これは偶然じゃなくて、遊海がわたしのこと考えていたから、わたしのピンチに現れるんでしょ」
「えーっ」秀嗣は驚いて、彩葉を再び見た。
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