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アーモンド・スウィート

 柳瀬幸輔は父を尊敬していない。幸輔の父は頑張って頑張って准陸尉にまで上がった苦労人だ。しかし、大学さえ卒業すればその上の三等陸尉から一等陸尉まで成れたかもしれないのに、それくらい苦労して頑張って日本の為に兵役についたのに、ある意味名誉職である准陸尉にまでしかなれなかった。
 本人も悔しく思っているのか、情けなく思っているのか、それとも元軍人として驕っているか、幸輔をなにかと叩く。しかもグーパンチで。頭にはゲンコツを落とし、顔にはグーパンチで。理由は何でも良いんだろう、自分の気晴らしになれば。毎日している兵式体操、ストレッチの延長戦に誰かを直接的に痛めつけたいだけだろう。アカの他人の暴行すれば犯罪行為だが、自分の子の幸輔を殴るだけなら罪にならないと思っている。子供を殴るのも虐待という立派な犯罪なのに。だから幸輔は父を尊敬しない。
 息子から尊敬されなくてもいいから、お金は家に入れて欲しい。父は毎月の軍人年金のほとんどを外で飲むか、クラブ、キャバレーの女性と遊ぶために使ってしまう。母は「仕方がないんだよ」と呟いて、黙々と内職をしているが、幸輔は口惜しい。幸輔も夕ご飯のあと七時から十時まで母の隣で内職を手伝っている。内職しなければ幸輔の小遣いは愚か、幸輔の服すら新しいのが買えないから。幸輔は季節に関係ないオールシーズン着るシャツが四枚あるだけだ。シャツは下着と兼用なので、後は下着のパンツを四枚、半ズボンが一本、長ズボンが一本、秋冬用のジャンパーが一つ、オールシーズンの学校指定の雨合羽が一枚だけしか持っていない。四枚のシャツはいつも薄汚れていて、何の匂いか分からない臭いが染みついている。この臭いは洗ってもとれないから嫌になる。半ズボンの裾は、左の裾が破れて抜けていて左右で長さが違う。長ズボンはオシャレではなく、前ポケットの下側が自然と破けていてポケットに物を入れると、何でも必ず落とす。ヒザのところやお尻も破けている。子供乞食のようで幸輔は恥ずかしく思っている。実をいえば母のズボンのヒザの部分も破けていて、母は何度も繕って履いている。自分の物くらい買えば良いのにと思う。内職のお金のほとんどは母が稼いで居るのだから。じゃあ父はと言えば、クラブやキャバレーの女性に会いに行く為に、毎年ユニクロで自分だけ新しい服を揃えている。靴だって毎年買い換えている。靴すらも幸輔と母の物はボロボロなのに、狡い。
 幸輔は、同じ五年一組の松村義隆、山田豊臣と普段から一緒に行動している。本当は友達とも何とも思っていないから付き合うのは嫌なんだが、独りぼっちだとクラス担任の天野先生が気を遣うので、「大丈夫か?」などと声御掛けてきてうるさいので、形だけでも松村と山田と付き合ってやっている。今日、松村と山田が幸輔の家に、遊ぶに来た。本当に迷惑に思う。
「汚ぇ部屋だなぁー」「臭い!」と大きな声ではしゃぐので、隣の部屋で内職している母に聞こえる。母は隣の部屋でどう思っているだろう。想像すると胸が苦しくなる。それにまだ夕方だから、近所のコンビニに自分の買い物をしに出ているだけの父が家に帰ってくる。父に、松村と山田の柳瀬の家に対する悪口を聞かれたら、どんなことに成るか分かったものではない。自分は当然として(とばっちりだがしかたがない)松村も山田も、父にグーパンチで殴られるかもしれない。父はそういう人だ。
噂だが、同じように退役軍人の父を持つ五年二組の猿渡真朗の父と路上で喧嘩したらしい。
 松村と山田、早くだまれ! 父よ、早く帰ってくるな! と幸輔は心の中で声をあげていた。直接、松村と山田に言わないのは、声を出して言ったならば、松村と山田は幸輔にどんな暴力をふるってくるか分からないからだ。松村か山田のどちらか一人だったならば温和しいけども、二人揃うと松村と山田は手が付けられないバカで、暴れん坊で、悪戯魔になってしまう。だから声を出して言えないし、父に見つかりたくもないのだ。
「なあぁ、外に出て遊ぼうぜ」幸輔も二人に対しては、乱暴な慣れなれしい言葉を使う。
「せっかくお前の家に初めてきてやったんだぜ、お茶かジュースくらい俺たちに出せよ。気が利かねぇな」山田が口をすぼめて言う。
「まったく、想像以上の貧乏だなぁ。将来芸人になったら、カメラの前で貧乏自慢をホクホクとしゃべるんじゃねぇ?」
「しゃべるなよ、恥ずかしい」と松村と山田、二人ともキーィキーィと引きすった笑い声を出す。
「どこの家も似たり寄ったりだろう。お前らの家も同じようなものだろう」他の家はウチとは違うと分かっていながら、幸輔は言い返した。
「絨毯はボロボロ、って色は変色しているし。これ醤油かソースをこぼした後じゃないか?」松村が大げさに言う。が、父がどこからか拾って来た時にはすでにボロボロだった。訳の分からないシミがすでにあった。幸輔や母の所為ではない。ボロボロで染みだらけと分かっていて持って帰った父の所為だろうと幸輔は思う。
「カーテンの裾も変色しているぜ。きっと洗ってないな。大体、何色のカーテンだったんだ?」山田が興奮している。カーテンは元々オリーブ色だった。父がカーキ色よりオリーブ色のほうが平和的でイイと言って買ってきた。でもいまは完全にダークカーキ色に、つまりドロウンコ色だ。
「だいたい幸輔ンちは、なんて臭いだ。酸っぱいわ、キムチのような発酵臭に感じるわ、ゴボウみたいな臭いも混ざっているわ。ワンダーランドだな」
「ダークサイドのワンダーランド。チェンソーマンとか地獄の悪魔だとか、夜な夜な出てくるんじゃないか?」涙を流しながら山田が笑う。ついに部屋の中で転げ回って、足をバタバタさせる。
「足、バタバタさせないで! ここはアパートなんだから、下の階に響くから」ついに隣の部屋の母も我慢できなくなって注意してきたようだ。
「なんだよ。ここは隣との壁も薄ければ、上と下の部屋との間の天井、床も薄いのかよ」バカ笑いを引きながら、山田が文句を言う。
「壁や天井、床が薄いのはウチの所為ではなくて、公団住宅だから。東京都か千代田区のせいだろう?」と言い返した。
「東京都も千代田区も、地方税収入がいっぱいあるってオヤジが言ってたのを聞いた。だから公団住宅がこんなボロな訳ねえだろう。ウソつくな」
知らないよと幸輔は思う。もし幸輔の住むアパートがボロボロなんだとしたら、きっと元軍人に退役後に与える住宅はボロボロでも良いと都か区の役人が考えたんだろう。六年の勤め、十二年の勤め後は一生住むに困らない住宅を与えるという約束をしたけれども、住まいの質までは良い物を与えるつもりはなかったんだろう。
キーィ ドアが開く音がした。父がついに帰ってきた。
 幸輔はなんのかんの言わずに立ち上がり、「松村! 山田! 外に行こう」と、あぐらをかいて座っている二人の手を引っ張って立ち上がらせようとした。
「お前さん、ちょっと待って」と母も幸輔と同じ危険を感じ、父に中まで入らせず、玄関で足止めしようとしてくれた。
「何だよ! 金ならねぇから」父の恥ずかしい言葉を松村と山田に聞かれてしまった。恥ずかしがっているより、たぶん二人を父の暴力から助けるほうが重要だ。
「分かったよ。今日はどこにも行かねぇよ」と言いながら、ドカドカ床を鳴らして父が幸輔たち三人のいる部屋の前までくる。
部屋の襖を開けた瞬間、幸輔に引っ張られながらあぐらをかいた姿で寝転がっている松村と山田を父は見た。元々、恐い顔をした父だけれども、二人の姿を見た瞬間、さらに顔が怖くなった。
「あぁぁん…。他人ンちで寝転がってるとはイイ態度だな。しかもウチの大黒柱さまが帰ってきた声を聞いただろうに、それでも寝たままの姿とは俺も舐められたものだ」言うが早いか、部屋に素早く入ってきて二人を蹴り上げようとした。既のところで幸輔が父の前に入り、二人は蹴られずに済んだ。もちろん蹴り上げられたのは幸輔だが。間に入った幸輔を蹴ったくらいで、父の瞬間湯沸かし器のような怒りは収まる訳はなく、もう一歩、踏み込んで手前の山田の背中を蹴り上げた。蹴られた山田は一瞬、息ができなくなったらしく胸と背中を同時に押さえよとしながら苦しんでいる。それを見た松村は、直ぐに立ち上がり部屋の角に逃げた。
「クソガキ! 逃げ足が速いな、えっ!?」父は松村を追っかけて行きながら、彼に太腿を水平に蹴ろうとした。
「やめて! 子供たちに暴力を振るうのは、止めて!」母が、幸輔が今まで聞いたことがないほどの大きな声を出して、部屋の中に入ってきた。
父は松村を蹴るのを止めて振り向いた。そして「キッ」と母を睨んだ。しかし母の顔は、大声以上に驚いたが、今までにない恐い顔で、赤鬼のようだった。
 父と母はしばし睨みあった。父の頭に「女、子供には手を上げない」というのはない。父が一歩踏み出して母に近づくと、母も赤鬼の形相で父に一歩向かってきた。睨みあって終わって欲しいと幸輔は心の中で願った、が父は母を平手で思いっきり叩いた。
母は女の人なのに、父に平手打ちされても顔を揺らすこともなく受け止め、次に負けずに父の顔を平手打ちした。叩かれた父がもう一発叩こうとあげた手を払いのけ、二発目も母が先に入れた。
クソぉ…… と奥歯を咬むように父は声を出した。が仕返ししなかった。
 今日は幸輔が驚くことばかり起こる。
 父は母に二発叩かれたあと、コンビニの袋を持って、怒った顔のまま無言で部屋を出て行った。
「幸輔とあんた達、さっさと外に遊びに行きな!」母はそう言って、内職をしていた部屋に戻っていった。
 松村と山田も全てを理解したようで、もう何も言わず、素早く幸輔を部屋を出ていった。
 逆に幸輔は、父がそこら辺をうろついてないか心配で、直ぐには部屋の外に出て行きたくなかった。
 しかし父はアパートの周りには居なくなっていた。飲み屋に行ってしまったようだ。今夜は久々に帰ってこないかもしれない、と幸輔は思った。

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