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アンズ飴        その13

 僕は漫然と大学生活を送っていた。法律家に成りたくて法学部に入った訳ではないから、一年生の間は長い五月病のような感じを続けていた。
 部活、同好会などに入って仲間を見つけ、どこかに遊びに行ったら気持ちが上向いたかもしれない。
 女の子に声をかけ彼女を作って、毎日一緒に行動して、ラブラブしていたら違っていたかもしれない。
 ただ漫然と無愛想に無自覚に無責任に無計画に無頓着に一人でいた。
 そんな僕を見かねて声をかけてくる人間が三ヶ月に一度くらい現れる。
 この日も、僕は授業前の教室でハンナ・アーレンの『責任と判断』の文庫を読んでいた。本を読んでいる僕に、声をかける前からニコニコと頬笑みながら近づいてくる、背の高い痩せた、ツータックの髪型のメガネをかけた男。
「恐い顔してるね。一年後にはこの世は終わってしまうと考えている顔だね。アンゴルモアの大王はやってきそうかい?」
 知るか、そんなこと。僕は生まれつき無愛想なんだ、と心の中で呟いた。君はコミュニケーションに長けているようだけど、誰も彼もが君の思う通りに心を開くとは限らないよ、と追加して心の中で呟く。
「ナチスと共にあったドイツ人の道徳と戦後ドイツ人の道徳の考察した本だからね。それにハンナ・アーレントは易しくないから。難しい顔になっても仕方がないと思うけど」文庫本を彼に見せた。
 僕は彼を無視せずに答えた。相手をしないつもりでも、うるさいので本が読めない。彼のようなタイプは無視し続けても、しつこく話しかけてくると分かっているので、適当に相手をしてやらないと…、だから相手をした方がよっぽど精神的に良い。最近は相手をして話す作戦をとることにしている。
「『責任と判断』て課題書籍だっけ? 『政治とは何か』を読んで置いた方が良いよと○○先生は講義の中で言っていたけども」
「○○先生も言ってない。誰もね。まあ大学生としてのポーズというか、ハンナ・アーレントの本やジョン・ロールズの本はいかにも大学生が読んでいるとそれらしくみえるだろう?」
「それらしくねぇ。内容は頭に入ってなくても、読んだと答えられるだけでさまになってみえるかもな、確かに」
 彼は簡単に納得してくれたようだ。
「ところで、君は芝居が好きなのかい?」
「芝居は好きというほど見てないな。嫌いではないけど…何かの誘い」
「一週間くらい前に、下北沢で劇場の入ってビルのまで君を見たんだけど、違うかい?」
 かい? といかにも古くさい語尾を付けて話す野郎だな。
「確かに一週間前に下北沢の劇場に、知り合いの芝居を見に行ったよ。気付いたか分からないけど、僕が話していた女の子の初舞台だったんだ」
「あー、…30代くらいの男と学生のような女の子と三人で話していたな。どっちと知り合い?」
「女の子のほう。予備校で一緒に勉強して励まし合って。いっときカップルにもなった子だったんだ」
「元カノが……あの男と……」
 馴れ馴れしかった態度が急に改まって、彼は顔も難しくなった。
「男の人だったどうなの? ▽▽さんの知り合い?」
「知り合いではない」
 彼はすぐに否定した。その声に嫌そうな響があった。
「昼は予備校に講師、夜は赤羽で雇われマスターをしてると言っていたけど、▽▽さんは何か曰くがある人だったかな?」
「…………」
 彼はどこまで話していいのか躊躇している感じだ。
「▽▽さんは、あの劇団の創立メンバーで、かなりのお偉いさんと僕の知り合いの彼女とは別の人から教えられたよ」
「もし、君の知り合い――元カノと今でも連絡がついて気軽に話せるなら、あの男には気をつけろと忠告して上げるべきだと思う。…あの男にはいくつもの顔があるから、僕も直接見たり当事者から事情を聞いた訳じゃないから確かなことは言えないんだけどね」
 いくつもの顔を持つ男か、怪盗ルパンだな。
「いくつもの顔を持つ男? ▽▽さんは、悪そうな噂がある人みたいだね」
「冗談ではなく。▽▽という男は、仕事は俳優ではなく、塾講師でもなく、赤羽の雇われマスターでもなく、風俗店のスカウトだという噂だよ」
「すごいねぇ。表の顔は俳優、裏の顔は風俗店のスカウト!」
「だから冗談ではないと言っているだろう。僕の知り合いが別の劇団で役者をしているんだけど、その彼女と、この間たまたま下北沢で君と君の元カノと▽▽さんを見かけて。彼女が▽▽さんは業界でも噂の女ったらしで、適当に遊んだあとは風俗店に紹介して小遣い稼ぎをしていると言ってたんだ」
 ボーン・トゥ・ビー・ワイルドだね。僕もふざけている訳ではない。なにも彼女もそんな男に引っかからなくても良いのにと思うだけで。しかし、そういう人間の男だから口が上手いのかもしれない。警戒していればひっかからないだろうけど、気持ちが外向きだったらフラフラと近づいてしまうんだろう。
「元カノに注意してあげるんだろう? ▽▽の本性は風俗のスカウトだと教えてあげたんだから」
「もう僕からの電話には出ないと思うよ。一年前からメールも電話もスルーされているから。ブロックしていないと見せかけての、ブロック状態だから。一週間前の芝居も彼女から久々に貰ったメールに応えてのやつだし。その晩の感想メールには「ありがとう」と返信があったけど、続いての僕からのメールからはスルーだからね」
「そうか……メールをスルーされているのか。じゃあしょうがないな。元カノの運命だ。それでも一回くらいは、注意するようにとメールを送ってあげても良いと思うな。僕ならそうするよ」
 背の高いメガネの彼は、なんで親切なんだろう。黙っていても良いのに。
「メールをしてみても良いけど、何で君は彼女の心配をしてくれるの? 僕に近づいてきて▽▽さんのことを教えてくれた」
「んー……、僕は芝居が好きなんだ。▽▽さんが芝居が上手いか下手か知らないけど、芝居を好きになって役者にまで成ろうと思う人を、自分の私利私欲のために地獄に落とすことをするようなことが許せないんだ」
 芝居を愛し、演技をする役者も愛している。ということかな。
「メールじゃなく、電話してみるよ。親切にありがとう」
 「じゃあ」と背の高いメガネの彼は僕の肩をポンと叩いて、今度こそ教室を出て行った。 あれ? 彼、義俠心からわざわざ…
 彼が出て行ったのと入れ替わるように授業を受ける生徒が教室に集まりだした。 
 悪い男に捕まったのなら、洗脳されてるか、虜にされてるか、絡め取られているだろう。彼女はますますメールや電話に出ないんじゃないか。
 
でも聞いた以上、僕は良心に疼きを感じた。 
「余計なことだと分かっているけど」と言って今晩電話してみるかな。 
                            (つづき)

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