米軍が狙うのは、いつも一般庶民
1941年12月8日に、先に真珠湾に敵基地攻撃したのは日本だが、真珠湾攻撃から5カ月後の1942年4月には早くにも米軍によって東京の空襲が始まり最も被害の大きかった1945年3月10日を含めて終戦の日まで130回以上もの連続的な空襲が行われている。その中での機銃掃射では狙い撃ちしてくるパイロットが笑っていたという証言もあり、狙ったの一般庶民であり、墨田区錦糸町では、錦糸公園で約1万4000体が焼かれて仮埋葬されたというが、それを伝える看板一つもなく、あまりの多さで処理できない遺体は何日もかけて川や海に捨てられていたという。そして、東京空襲を弔う単独の慰霊施設はいまだに無いと言われる。
その中において米軍が狙わなかったのは皇居はもちろんであるが、上野公園などの皇室所有地や皇族住居、皇居に挟まれた丸の内の金融ビル街、三菱本社、三菱銀行、三菱商事、日本興業銀行、横浜正金銀行、東京銀行、第一銀行、勧業銀行、関東配電(東京電力)などの財閥のビルが林立している。朝日、毎日などの新聞各社、放送会館(NHK)も残った。八重洲では日銀、三井本館。永田町や霞ヶ関でも、内閣府、国会議事堂、警視庁、内務省、大蔵省などが残された。ちなみに上野公園に隣接する三菱財閥統帥の岩崎久弥邸も攻撃を受けていない。広島、長崎、下関空襲でも三菱の主要工場は無傷であり、政財界とアメリカの盟友関係を裏付けているのが特徴だろう。(長州新聞の記事より)
さて、原爆についてだが、中国新聞には、上記のように三菱工業広島造船所では人間魚雷を製造し空襲に備えていて、戦災誌によれば工場内で死亡したのは3人とされていて、爆心地付近に疎開していた従業員が40人が亡くなっていたとされている。
原爆投下と同じく「戦争を終わらせるためにやむをえぬ」というものではなく、日本を単独占領するために国民の抵抗力を摘むため庶民の大量殺戮を狙っていたのは明白であり、糸を引いていたのは共産革命を恐れていた吉田茂や近衛文麿などで、国民を押さえつけてアメリカの占領下で地位を守ってもらうかで、そのためなら原爆を落とされることも甘受するし、東京を焼き払って人民大衆をへとへとに疲れさせることはむしろ好都合という関係だったと考えられる。(つづく