元・原発労働者としての柏崎刈羽原発
私の原発労働者としての柏崎刈羽原発での体験が初めて社会に知られるようになったのはシンガーソングライター・エッセーストの寺尾紗穂さんから取材の申し込みを受けたのが始まりで、それまではNHKや女性週刊誌からも取材は受けてはいたが、放送や記事にはされなかった。
そして、寺尾さんが私を知ったのは当時、私が書いていたブログに柏崎刈羽原発での体験を少し書いたのが3.11後の彼女の眼を引いたのがきっかけだった。寺尾さんは「原発労働者」を書くにあたって「まえがき」で次の事を書かれている。
最初に書かれてある、樋口健二さんも私の知人でもあり、彼の講演には何度かお邪魔している。さて、寺尾さんが私に取材を求め船橋市まで来られたのは3.11後の夏の終わりの9月の暑い日でJR船橋駅の北口にある、バスの待合所でベンチに腰をおろして周り聞こえないようにしてのヒソヒソ話しだった。寺尾さんは小さい録音機で私の柏崎刈羽原発での話しを録音され時々、メモを取っておられた。そして、その取材は2回目に及び講談社から本となって出版され、第一章に「表に出てこない事故」として紹介された。
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私が柏崎刈羽原発で働き始めたきっかけは、やはり、当時の貧困生活で、原発で働けば「カネが残る」というような事も加味しての安易な気持ちでの誘いを受けたからだった。
それが、中越沖地震直後からの原発労働であり、待ち受けていたのは、柏崎刈羽原発の所内はガタガタで道路はデコボコ、建屋の周りは陥没していたのが今でも目に焼き付いているのだ。
さて、昨日書いた石綿の事だが、この話しは寺尾さんにも樋口さにも伝えてはいないが、洞道内での作業は大型送風機も回っているので乏しい蛍光灯の灯にキラキラと輝いて埃が舞っている中でマスクもせず、汗を流しながら東電が公表していた作業をしていた。尚、これらの洞道内での作業には足場材や50万Vケーブルを動かすための機材が必要で所内に設けられている、開閉所の開口から重量のある、これらを降ろし、暗い洞道内では肩に担ぎ運んだ。5号機の開閉所の下などは意味不明の水がコンコンと洞道の壁下から湧き、安全靴の意味を果たしていなかった。いわゆる、膝から下はびしょぬれである。そして、ポリバケツで、この意味不明の水も処理させられた。
その事を2012年頃にになってから東京新聞の投稿欄に何度か投稿した。
(つづく