妖怪になりたい
「早く妖怪になりた~い!」
私はよくこんな事を思う。
例えば何か面倒に巻き込まれた時とか、誰かに一生懸命気を使っている時とか、大勝負に出る日の朝とか、とても苦しくて消えてしまいたいような夜とか。
皆が神に祈るようなタイミングで呟く、
爽やかで面白くて軽やかな祈りの言葉。
妖怪というのは私にとって
自由の象徴だ。
面倒なことに巻き込まれた私は、正しい人間としての選択を迫られる。細やかな気遣いと数々の嫌な仕事を片付けながら、「めんどくさい」って言う代わりに「妖怪になりたい」ってぼやく。
妖怪ならばきっと、こんなゴタゴタ全部ぶっ飛ばしてケタケタ笑って逃げてくだろう。いいないいな、私も早くそれになりたいな、って思いながら、人間としての仕事を頑張る。
妖怪というのは私にとって
未練の先にある未来だ。
大きな勝負にはいつも失敗が、新しい挑戦にはいつも「死んだらそこで中断」という未練への恐怖が付きまとう。
私は昔から未練が怖くて怖くて仕方ない。
(途中で中断して悔やみながら死ぬくらいなら、最初からなにもしない方がいいのではないか)
と不安になる度に私は「妖怪になりたい」って唱える。
大きな大きな未練を抱えて死んだ人間は、妖怪になるのではないか。
例えばまだまだ絵を描きたかった画家や、死にたくなかった作家。彼らは本当に消えてしまったのだろうか、彼らの溢れるエネルギーは本当に消え去ってしまったのだろうか。
いや、消えてしまったのだろう。分かってる。分かっているけれど、そこを認めると怖いから私は妖怪になったと思うようにしている。
たぶんこれは信仰と同じで、心の弱さを支えるために真偽の分からないものをしゃにむに信じて生きているのだ。
私はほんとに全力で生きて、それは沢山の未練を抱えて、妖怪になってまた生きるのだ。
死にたくない。消えるのは怖い。大丈夫。私は妖怪になるのだ。
妖怪というのは私にとって
生に前向きな現実逃避だ。
さっき死にたくないなんて言ったが、不思議なことに私はたまに消えたくなる。
まあきっと誰にだってあるだろう。
例えばなにかとんでもない失敗をした時とか、急に酷く恥ずかしい体験を思い出した時とか、その他特に理由はないけど生きるのが面倒になった時とか。
そういう時私は「死にたい」と言いたくない。
「死にたい」というのはあまりに強い言葉で、例え脳内だとしても口に出したら本当にそんな気がしてきて、恐ろしい。
正しくは死にたいのではなく逃げたいのだ。
人間としての営みをやめてしまいたいのだ。
それならば、ロボットになれば解決するのではないか と考えていた時期もあった。
だけど何故かそれはしっくりこなかった。
金属で出来た電気で動く、冷たい機械の身体。
きっと恥も恨みも、喜びも幸せもないだろう。
それはそれでなんというか、つまらないなと思ったのだ。
できることなら泥臭く、苛烈に自由に軽快に。
人間はやめつつ、“人間らしさ”を失わないでいるには。
私は妖怪になりたい。早く妖怪になりたい。
妖怪になるために必死に人間を生きるのだ。
まだ今は、妖怪にならなくてもいい、と思い続けて生きることで、妖怪になるのだ、私は!