『ヒカリ文集』が描くもの、または勝利を収めた親切について

書く側と書かれる側のどちらがよりカッコいいかということと同様、愛する側と愛される側のどちらがカッコいいかということも問題となる。[i]


〈女性作家〉を「批評」する

 2024年の日本において、自らを〈女性〉[ii]であると意識し、そのジェンダーに即した創作活動を行う者は、ほとんど絶滅したと言っても過言ではない。それは「文壇」における〈女性作家〉が「批評」の場において、「正統」に「評価」されてきたからだ、と評価するのは、韜晦がすぎるかもしれないが、一旦そうしておきたいと思う。そもそも「評価」されることはそれほど重要でないかもしれない。

 〈女性〉というジェンダーカテゴリーそのものに疑問を呈する作家の一人に、松浦理英子がいる。彼女の作品のいずれも、社会的に受け入れられやすく、想定されやすい安易な物語を拒否している。

 

  女が––と書きつけた途端に疲労感に見舞われ思わず筆を放り出して戦線離脱したくなるのは、女による女についての言説が市場にだぶついている今日このごろ頃だからである。[iii]


同じ理由で、女性が(と書きつけた途端に疲労感に見舞われるが)「批評」をしようとした時に、批評の歴史に対して自らの立場を表明しなければならないことにうんざりしないでもなくはない。[iv]それに加えて、対象となる作品が女性作家のものである(とわかっている)ことが、その作品を評するときに足枷になる、と瀬戸夏子は語る。[v]まず歴史的な蓄積があり、その上で今日的な問題––〈女性作家〉の作品を批評をするときに、批評する〈女性〉の私はどの立場から何を発言すればよいでしょうか?––が立ち現れてくる。2024年の日本の「批評」とはそういう場だと、私は感じている。


ヒカリとは何者か?

『ヒカリ文集』は、学生劇団の劇作家兼演出家である破月悠高の遺稿の発見をきっかけに、元劇団員たちがとある人物についての文集を寄せた、という形式の小説である。元劇団たちは十数年の時を経て劇団在籍時を振り返ることになるが、そのどれもが同じく劇団員だったヒカリとの思い出に彩られている。ヒカリはみんなの恋人だった、と言ってしまえばただの学生のサークル内恋愛を美化したストーリーにすぎない。しかしそうではないのが、ヒカリのすごさであり可哀想なところでもある。

 ヒカリは「どっちかと言うと変わった、不思議な顔だったよ。」[vi]と描写されるように、外見的な特長があるわけでもなく、ただただ気遣いができ、そうすることに一切の疑問を抱かないことで男女を問わず周囲の人間を魅了している。その気遣い、親切さの度合いが普通の人とは全く違うために、「完璧な恋人としてふるまうロボットのよう」にもみえ、そのことがヒカリと付き合ってきた各人を苦しめる一因でもあった。

 

 久代 みんなに興味と愛情を向けられる女性って意味なら間違ってないよね。
 雪美 そんな小ぎれいなことだった? 誰もが遠巻きにして憧れてるだけの人じゃなかったでしょ、ヒカリは。みんなそんなに純情じゃなかったわよ、ヒカリも含めて。
 裕 確かにね。
 雪美 興味と、愛情と、欲望を向けられてたくらいは言わなきゃ。[vii]


脚本家破月が遺した戯曲の一場面、元劇団員たちがヒカリを懐かしんでいる部分だが、この「興味と、愛情と、欲望」を向けられていたという雪美の言葉が示すように、それぞれの劇団員たちがヒカリと結んだ関係は単なる「恋人」とは言えないようなものだった。それは単純に性行為をするかしないか、という低層の問題だけでなく、恋愛感情を抱くかどうか、という根幹に関わる部分での問題であった。


 「だけど、君は俺のこと好きじゃないよね?」
 「恋とは別の意味ですごく好きだよ。それじゃ不満?」[viii]

   「恋じゃないよね、お互いに」
 「うん、だけど、遊びでもない」[ix]


劇団員とヒカリの会話(後者がヒカリ)からは、何とも悲しいすれ違いが起きているようにも感じられるが、それだけはなく、お互いがお互いを受け入れ心地の良い関係を築いている。それができるのは、ヒカリが相手を思いやり気遣う人間だからである。それが「恋」とか「愛」という感情を伴わないとしても、ヒカリの親切さに触れた人間に何か温かいものを残すこと。松浦理英子はこの物語で「脱愛情中心主義、脱愛情至上主義」を書こうとした[x]、と語ることからも、ヒカリの愛情に薄く、しかし親切で優しさのある人間性は、実際対面したらどう感じるかはわからないが、魅力的に感じると言わざるを得ない。ただヒカリと付き合ってきたそれぞれの人間は、その期間をどう捉えればいいのだろうか。恋をしている人間だけが陥る、その相手のどんなところも愛おしく素晴らしいものに思える、ある種の幻想がある。過去の恋愛を現在から振り返ってみたときに、あれは幻想だったと正気に戻る瞬間があるのが普通だ。しかしこの小説の全員が、その全てが美しく喜びに満ちたものではないにせよ、ヒカリとの関係を未だ冷めない幻想のように感じているようである。本当にそんなものがあるのだろうか。初読の際、私はこの小説に何とも言えない魅力を感じながらも、時間差をおいた集団食中毒のように全員がバタバタとヒカリに惹かれていくことに、羨望を抱きつつ疑わしい気持ちにもなった。それはヒカリが実際は、特段魅力的なわけではないのではないか[xi]、という疑念ではない。というよりも、文集を書いた全員があれほどまでにヒカリに心を注げるのはどうしてか? という疑念である。そもそもこの小説が「文集」の形式を取っていること、またその「文集」を書いている本人が本当にその当人かは明らかにされない[xii]という、形式そのものがフィクション性を帯びているということが、この小説自体がある種の幻想として私たちの面前に立ち現れてくるように感じられてならない。恋愛という幻想から愛情を取り去ったとき、残っているものがこの小説が伝えようとしている感触であり、ヒカリという存在そのものなのかもしれない。


「愛は失敗しても、親切は勝利を収める」

 松浦理英子がこの作品について語るとき、カート・ヴォネガットの「愛は失敗しても、親切は勝利を収める」ということばをよく持ち出し、「私もそういう立場です。」と語る。[xiii]『ヒカリ文集』以前からSMの関係を通して、主人/奴隷、愛する者/愛される者の暴力的な関係を何度も変奏してきた松浦の、核となるモチーフの一つにこれがある。『ヒカリ文集』で書かれた関係性はこのことばにまとめることができる。ヒカリは愛を与えなかったが、ヒカリが相手を気遣ってした言動は、それぞれの記憶に鮮明に残り続けていく。「愛」は使い続けていると擦り切れてしまうが、「親切」は何度使っても充分ということはない。何度も何度も使って、思い出して、味わって、しゃぶり尽くしてもまだそこにある親切は、その後の人生において「護符」[xiv]のように自分を守ってくれるものになる。この小説が描き出しているのは、ある一人の親切が、相手のその後の人生に良きにしも悪しきにしもずっと働きかけていくすがたである。それはこの小説が私たち読者に働きかけていることでもあり、私たちはその働きかけをいつまでも感じかながら、ときにはそれによって動かされながら生きていくしかないのである。




[i] 『優しい去勢のために』「われらがヒーロー2」p110

[ii] ここでの〈女性〉は主に作者の性自認を指しているが、本来このような分類は無意味である。そして作者のジェンダーを問題とするとき、同時に意識されるのが文体のジェンダーであり、この部分については蓮實重彦の松浦理英子に対する印象的な記述を持って、現時点での文体のジェンダーの問題への私なりの回答としたい。「文章の男性性を批判する文章の女性性などあるはずがない。」(『文藝』1993年冬号)

[iii] 同書「月経お祓い」p66

[iv] この点については、『文藝』2023年春号「対談 瀬戸夏子×水上文 なぜ、いま「批評」特集なのか」や、『群像』2022年7月号「我々は既にエミリー・ディキンソンではない 瀬戸夏子」が、広く言語表現の場において女性がどのように扱われてきたか、という身近な問題意識から「批評」を批評しようとしている。

[v] 同書内の対談において瀬戸は、「目の前に男の作品と女の作品がある時、意識しないことはできるのか。できているんですか? という抑圧もあるし、実際にできていないとも思う。それを男性に言うと『気にせずやりなよ』と言われるけれど、気にせずやることは裏切りでしかない。」と語る。この感覚は確かに私にもあり、こと批評をしようするときにその対象が女性作家であるために、瀬戸の言う「薄皮一枚の肯定」が発動し、批評のことばが精彩を欠くのではないか、との不安は納得できるものである。その一方で、こういった主題を〈女性〉だけが考え/発言している(発言の場が用意されている)ように見えることについても疑問に感じている。

[vi] 『ヒカリ文集』p21

[vii] 同書p29

[viii] 同書p181

[ix] 同書p199

[x] 『群像』2022年4月号「小特集 松浦理英子」p104での発言。『親指Pの修行時代』が脱性器結合主義、脱性器結合的性愛主義を書いた物語であることを思い出すと、今回の『ヒカリ文集』がさらに進んで愛情を解体することは、『親指P』からこの作品までをひと繋がりに理解するべきものとして受け取れる。

[xi] 佐々木敦は『ヒカリ文集』の書評内で、「私にとって、この小説が興味深かったのは、語られれば語られるほど、ヒカリが『特別な存在』から遠ざかり、ごく普通とは言わないまでも現実にもいなくもない––特に『青春』という奇妙な一時期には自分の周囲にもいたような––ちょっと変わってる程度の女性に思えてきたことである。」(『文學界』2022年4月号)とヒカリの普遍性を記述している。このような感じかたをする人は少なくないだろうと思われ、それが奇妙に面白くもある。

[xii] 松浦は自作解題的に、「この作品の中の署名付きの文章だって、署名も仮のものであるし、実際は誰が書いているのかはわからない。(中略)この形式自体が仮のものである可能性もある。」と語っている。(『群像』2022年4月号のインタビューにおける発言)

[xiii] 『群像』2022年4月号p98や『群像』2022年3月号「心を使わない人 松浦理恵子」等での発言。

[xiv] 同書p128、劇団員の飛方雪美がヒカリとの思い出について書いた部分より。「つき合っていた時間の思い出は眩しくいとおしく、私を安らがせると同時に力づける護符のようなものになっている。ヒカリのおかげで言える。この先何一ついいことがなかったとしても、私の人生は最低最悪というわけではない。 ほんとうに、地獄にでも天国にでも一緒に行きたかった。」