虚無からラーメン
なんだか死にたい。なんの問題もないのに。
時々意味もなく死にたくなる時がある。
それは積極的なものではなく、消極的なものだ。
なんだかすべてが味気なくて、なにをしていても空虚に感じてしまう。
何のために稼ぐのかわからない金を稼ぎ、時間が来れば画面の前に座り録画された教授の顔を見て右の人差し指を少しだけ上下に動かし、まずいわけではないが特別おいしくもない食事を摂り、明日のことを考えて眠りにつく。
もちろん日々の中で、友人と連絡を取り合ったり、先生と会ったり、映画を観たり本を読むこともある。
普通で不自由のない平和な日々の暮らし。
きっとかつて多くの人が理想と考え、その実現に想像できないほどの尽力があり、犠牲が払われたのだと思う。
そして僕はその結果をただ享受している。
そんな理想の日々の中に虚無がいつのまにか入り込み、生は蝕まれ、まるで死んだかのように呼吸だけをしている人がいることは想像されたのだろうか。
この虚無を超えていくことは今の時代に生きる人の役割なのかもしれない。
虚無とはいつからだったか記憶は定かではないが、それなりに長い付き合いだ。
格闘し続ける中で僕は答えを出し、それを実践してきた自負があった。
その答えは「今を生きる」ということと「自己に対して誠実」であるということだ。
今はどこにあるか。
「今を生きる」ということに関して言えば、虚無の打破を起点にし、学術的に論じ超克した真木悠介(見田宗介)の「時間の比較社会学」やミヒャエル・エンデの「モモ」の現代文明批判の点などから着想を得た。
それらの本に出会うまでも「今を生きる」ことの重要性は心の奥底では直感していた。現代社会に生きる以上これをラディカルに貫くことは実際上不可能とも言える困難を持ってしまうので、ある程度の妥協は必要となるが、特に重要な局面では決断し実践してきたと言えると思う。しかしそれはある程度大きなスパンの中で過去や未来をなるべく考慮しないという比較の点においての今で、より体感としての絶対の今は分からないままだった。
このことを論理の面だけでなく、現実世界で行動として実践し、また感覚し共有することを目指しながらある活動をしたりもした。
この活動では主に小麦の栽培や鶏の孵化からと殺、包丁作りなどからと、限りなく0からラーメンを作ったりしていた。
現在、世界的に流行するウイルスの影響により実質活動は止まっているが、普段当たり前に接している生活の一部との関わりを一つ一つ実感し繋がりを取り戻すことで、線分的に一方向に流れ、常に未来を考え今を生きられず、その未来さえ最後は死に終着してしまう虚無としての時間感覚からの解放を試みた。
大学1、2年生という特殊な環境下ではあったが、一応この実験での仮定は立証されたと考えている。それはすべての過程が充実したものであり今の中に含まれ、0から作り上げたラーメンの一口目を食べた時に確信した。
この時初めて今の在り処を感じ、確かめられた気がする。今というものを意識して感覚することはできないが、それはだれかと共有したり、なにかとの関係の中で生まれるものだ。それは過去や未来まで包み込む。
この活動は組織の運営や価値の伝達といった実際上の困難もあり解決すべき事柄は未だ多くあるが、個人としての本質的課題の解決の糸口であり、この活動の確固たる基盤が築かれた点で満足のいくものだった。
近代以降、自由や個人や自立を目指しつつ、市場経済の力を使いながら発展してきた社会は、その反面多くの繋がりを失い、虚無という生を飲み込む波に直面することになる。自己実現のために繋がりは利用価値がなければ切り捨てられ、面倒なことは無から作り出されたお金で解決され、支払いは来月にすればよくて、今は未来へ吸い込まれ死まで繰り越されていく。人からも時間からも自分からも解き放たれた先にあったのは、巨大な豊かさと果てしない虚無。
市場経済といったシステムや未来といった概念によって得られた恩恵は計り知れないくらい大きく、少なくとも僕の住む世界を豊かにしてくれた。僕はこれを否定しない。また人の発展への欲望を止めたいとも思えないし、思わない。
しかし虚無に向き合わなければまた真に生きるということは難しい。自立や個人や自由は繋がりを断ち切ることでしか成立しえないだろうか。発展は滅亡を招いてしまうものなのだろうか。
僕たちは根を持ちつつ、空へ羽ばたくことはできないだろうか。
日常から解放されようとしていた僕たちは、日常へと解放され得るのではないだろうか。
人や自然との関わり合いの中で自立し、他者と向き合う中で個人を発見し、切り離せない関係のなかに自由を見出すことはできないだろうか。
繋がりに丁寧に目を向けてみることで、すでに当たり前にあるものに豊かさを受け取り、繋がりを大切にしつつお互いに発展していけないだろうか。
きっとこの問いかけはこれから先も続いていくことだと思う。
自己への誠実
この命題は、他者や世界と向き合っていく中で突き詰めるとそれは最終的に自己との対峙にたどり着くという経験則から生じた仮定だ。
人と人との間に存在する人間、そして人はそれぞれ自分だと自覚している。なにかを眺める時、眺められるものが同時にある。自分を意識する時すでに自らは二つ以上に分かれていて、意識する側もされる側もどちらも自分である。その時自分とはなんだろうか。凹凸のように二つが一つであり、否定が肯定であるものなのか。今までの経験上自己に真に誠実である場合、自己の否定であることが多い。
しかし今一つ論理的に詰め切れなく、バタイユやニーチェがヒントになりそうなので、それらを読んで思考が固まったときに改めて文章にしたい。
コロナ禍において
世界的な疫病の流行により今まで行ってきたリアルでの試行錯誤や活動の続行は難しい状況になってしまった。そしてこのような環境だからこそより虚無の存在感は大きくなり、それに対処する必要も増しているのだと思う。
今まで行ってきた活動では、実際の場で今と繋がりの充実感の獲得をするに止まっていた。これからすべきは、自分ではなく「他者」、そして実際の場ではない「他所」に伝え感じ取ってもらうことだ。これは今回の状況に限らずしていくべきことであり、したいことだ。
そのために現実的な問題の一つであった価値の伝達といった面でも技術を磨いていきたいと考えている。主に写真の鍛錬になると思うけれど、今書いているよう文章のように表現するということに境界を設けず、積極的に身体で学んでいきたい。
そしてより明瞭に自分のなかの虚無を見つめ、答えを探し続けるために思索面での探求は止めることなく行っていきたい。
騒動が落ち着いた時、それはきっと実を結ぶことになるはずだ。
その実がきっと誰かの虚無からの救いになると信じて。
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