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「四国八十八ヶ所で、逆打ちはしてはいけない」この話、実は、逆打ちの意味は、もっと違うものであった!

ある方からのお話です。


物事には何事にも「基本」がございます。
スポーツしかり、学問しかりです。

宗教の世界、真言密教の世界にも
基本がございます。

「般若心経」や「ご真言」などは
基本中の基本です。
(印は、一般人に関しては
特に必要はございません)


お四国お遍路の逆回り・逆打ちは

3倍の功徳を得られる


などと
ツアー会社を中心に
まことしやかに述べられていますが、


お遍路の基本は「順打ち」

でございます





基本を疎かにしての3倍の功徳など
有り得ません。


弘法大師様空海様でさえ

逆打ちはされません


お大師様でさえされないことを
何故我々普通の人間がしていいのでしょうか。


四国へんろnetさんより

この方は、衛門三郎さんをあげて
いらっしゃいます。

そのあらすじは、

天長年間の頃の話である。
伊予国を治めていた河野家の一族で、
浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・
文殊院)の豪農で
衛門三郎という者が居た。
三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、
民の人望も薄かったといわれる。
あるとき、三郎の門前に
みすぼらしい身なりの僧が現れ、
托鉢をしようとした。
三郎は家人に命じて追い返した。
翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。
8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を
竹のほうきでたたき落とし
(つかんで地面にたたきつけたと
するものもあり)、
鉢は8つに割れてしまった。
僧も姿を消した。
実はこの僧は弘法大師(空海)であった。

三郎には8人の子がいたが、
その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、
8年目には皆亡くなってしまった。
悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に
大師が現れ、
三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、
何と恐ろしいことをしてしまったものだと
後悔する。

三郎は懺悔の気持ちから、
田畑を売り払い、家人たちに分け与え、
妻とも別れ、
大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。

二十回巡礼を重ねたが出会えず、
大師に何としても巡り合い気持ちから、
今度は逆に回ることにして、

巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの
杖杉庵で病に倒れてしまう。

死期が迫りつつあった三郎の前に
大師が現れたところ、
三郎は今までの非を泣いて詫び、
望みはあるかとの問いかけに
来世には河野家に生まれ変わり
人の役に立ちたい
(石手寺刻版には「伊予の国司を望む」)
と託して
息を引き取った。
大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、
左の手に握らせた。
天長8年10月
(石手寺刻版では天長八年辛亥のみ。
杖杉庵縁起では天長8年10月20日。)
のことという。

翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に
長男の息方(おきかた)が生まれるが、
その子は左手を固く握って開こうとしない。
息利は心配して安養寺の僧が祈願をした
ところ、やっと手を開き、
「衛門三郎」と書いた石が出てきた。
その石は、安養寺に納められ、
後に「石手寺」と寺号を改めたという。
石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。

と、あります。


たぶん、このお話から、

逆打ちすれば、願いが叶う、として
広まったのだと思います。

このことをあげてくださった方は、

「逆打ちすれば3倍の功徳を得られる」
というのが
偽の言い伝えであり、
旅行会社、ツアー会社の悪い意味での
マーケティング戦略であることが
あっさりと露呈します。

神様仏様は私達人間より
【格】も【位】も【おチカラ】も
遥かに上でございます。
天文学的な差がございます。
そのお相手に対して、礼儀・礼節をもって
相対することが大切なのは
言うまでもありません。
基本でございます。

基本を大切にしないで、
基本を疎かにしての行動・対応が
実を結ばないどころか不幸を招くのは、
どこの世界でも一緒でございます。

初心者は勿論のこと、
くれぐれも5回・10回お遍路さんしたくらいで
『逆うち』などされませぬように。

日々の生活や仕事もそうですが、
基本を疎かにしての開運など
万が一にもございません。

お遍路をはじめ神社様寺社様を
「観光」として商売の道具にした
会社及び団体は、
今回のコロナショックで大打撃を被りました。

《閏年、逆うち、3倍の功徳…………》

虚しいだけの言葉が響きます。

逆に、本当の意味で、

人の少なくなった状態で、
ご挨拶にお伺いする、お伺い出来る
最大のチャンスでもあるわけです。
普段のお参りでも、
人の少ない時にお参りするのが良いです。
だから早朝をお薦めするのです。

正しい意味で

本当の意味で

【人の行く裏に道あり花の山】です。




素晴らしいお話を取り上げてくださり、
ありがとうございます。

ところが、なんです!

5月下旬に、
このような冊子を送ってくださった方が
いらっしゃり、
読んでみて、驚きました!


逆打ちすれば、
開運ありあり、パワーありあり

なんていうは

大間違い!!

これは、正しい考えですが、

実は、

「逆打ちは、修行である」が

ほんとうだった!!

懴悔(さんげ) 懴悔 六根清浄!

三帰依文


逆打ちとは

自分の中にある、濁り、悪

劣っていると消極的になる

他人との比較で縮こまる

しかし

清濁も、善悪も、優劣も

そして、自分も、他人も

般若心経にある

なのだということ


人の幸せは、わが幸せ

人の苦痛は、わが苦痛

分け隔てなどないものである


人間のエゴの恐ろしさ


若く気づく人もいれば

死の床で気づく人もいれば

まったく悟らず、世を去る人もいる

こうして気づき

懺悔できることの喜び

感謝、感謝ですね

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