鹿狼山 東日本大震災 11年目
鹿狼山につきましては、昨年4月の様子を掲載しています。ご覧くださいませ。
狛犬ならぬ、鹿と狼。
すべては、モンゴルから。
モンゴル人の祖先は
蒼き狼と青白い雌鹿であり、
鹿狼山の名が、モンゴルの狼祖先伝説に由来する可能性もあります。
東日本大震災から、11年目
あの日は、ほんとうに寒かった。
二晩、車の中に寝泊まりして、
3日目にようやく、
家の中を片づけて。
主人は、当日は、会社に宿泊したので、
飼い犬と2人の夜。
ラジオから聴こえる、
「海岸部は、大津波で壊滅」
「沿岸に、多数の溺死体」「津波火災」
という言葉も、頭に入らないほど、
動揺していました。
主人が、街で配っていた号外を
持ってきてくれて、
初めて、大津波が襲ったことを認識しました。
2日目に、実家まで行きました。
中学校まで、津波が来たということで、
実家の方までは来ず。
ただ、母は、大震災の日の午後、
数日前に、沿岸部の方から、
来てほしいと連絡があり、
行く前に、電話をかけたが、出なかったために、
行かずに、近所にいたそうだ。
そのおかげで、いのち拾いしたのだった。
仙台新港のコンビナートは、
爆発して、黒煙をあげて
燃え続けているのが見えました。
たまたま、わたしは、震災の日の午前中に、
1週間分の食料を購入していました。
そのおかげで、早朝から、
買い出しに並ぶこともなく、
運が良かったです。
家庭菜園で、ホウレンソウを、
5箱に育てていました。
青物は、手に入らない人が多かった中、
実家や親戚に回しました。
助かりました。
主人の会社の方は、沿岸部にお住まいで、
家が流され、
その晩のうちに、なんとか、家族が、
仙台市内に来て、
会社の空き部屋に、しばらく住んでいました。
わたしは、1週間分、
購入したものや冷凍にしていたものを
大鍋に、細かく切って
味噌仕立てで、けんちん汁のように作り、
割りばしやら、アウトドアで使うような、
お椀型のものやら、
サーモスのシャトルシェフを使い、
会社のほうへ持って行きました。
とにかく、家を流され、動揺していますので、
温かいものを食べさせてあげたかった。
ストーブも、ファンヒーターではなく、
やかんも載せて沸かせるようなものを
使っていましたし、
ほんとうに運が良かったです。
また、主人も運が良かったんです。
会社のビルが、建築して、3年目で、
免震だったのです。
ですから、
電気も、水道も、わずか3時間もしないで、
使用できたのです!
水汲みも、かなりな行列でしたが、
わたしは、タンクも持っていましたので、
主人の会社へ行き、汲んでいました。
ほんとうに運が良かったです。
ただ、沿岸部には、親戚もいましたので、
大変心配しましたが、
毎年、何回か、地震が起きたら、小学校へと、
訓練もしていましたので、
すぐに小学校へ行ったり、車で、
内陸へ行ったりで
みんな助かりました。
その中で、母の知り合いのご主人さんが
亡くなりました。
その日、娘さんの子どもを見てほしいと
連絡があって、
知り合いの方は、街のほうへ行ったので
助かりましたが、
行く間際に、
「お父さん、大きな地震が来たら、
小学校だよ」
と言うと、高笑いして、
「そんなことあるか」と言ったのが
最後だったそうです。
その方の家の周囲の旦那さまたちは、
「だいじょうぶだ!2階に上がれば
助かるだろうよ」と、
消防団の若い男性に言って、
避難しなかったそうです。
その消防団の方は、
ほかの消防団の方に、
「おいて行けないから、説得する」と
言って、それが最後になってしまったそうです。
母の知り合いの方は、
「お父さん、言う事をきかないから、
その若い人まで巻き添えにして、
死なせてしまって、
ほんとうに申し訳ない」と泣いていたそうです。
数日後、遺体が見つかました。
これから、大震災は、
日本海溝、千島海溝、東海3連動と、
かなり切迫してきました。
沿岸の方は、すぐに逃げる態勢をつくらないと、
津波は、10分もせず、やってきます。
あれもこれも、なんて言っているうちに、
あっという間です。
どうやって逃げるのがよいか。
内陸まで、距離があるならば、車で
逃げることはできるかもしれませんが、
渋滞です、問題は。
海と山が迫っていると、
車は、到底、無理です。
足腰だけが頼りです。
山をよじ登れるだけの体力。
そして、もうひとつ。
財産は、重量のある金庫に入れて
保管してください。
9割は、
持ち主に戻っています。
タンス預金した方は、海の藻屑です。
東日本大震災では、
なんと、1000億円以上が、
海の藻屑だそうです。
銀行などの金融機関に保管するか。
これは、後々、お金がないと、
家の再建も大変です。
国で、なんとかしてくれ、と言いましても、
コロナ禍で、お店を休業する代わりに、
渡していますし、検査費、医療費、
火葬費用なども
みんな、国が肩代わりしています。
まだまだ、日本全国、自然災害で
普及工事は続いているし、
復興住宅に入られている方も
いらっしゃいますし、
福島原発の事もあります。
日本に、
資金は、そんなに無理強いはできません。
自分の身は、
自分で守るよりほかはありません。
なにより、
子々孫々、年金はたぶん、ゼロに近いでしょう。
それだけの借金を
わたしたちは、遺すのですから。
だから、国は今、
若い人たちを育てて、モノづくり、発明、
世界的にもてはやされる、
昔のような日本に戻そうと、
躍起です。
日本が、昭和のころ、
モノづくりや発明が得意でしたが、
いつの間にか、定年制が延びたり、
若い人たちの居場所を、
中高年が取り返してしまい、
日本に新しい風が吹かなくなりました。
日本から生み出されるものが、
薄くなったのです。
東日本大震災は、
災害に対する、ひとりひとりの行動を
問いました。
そのほか、日本の、
世界での、在り方も考えさせることに
なりました。
みんな、みんな、つながっているのです。
国任せ、人任せでは、
自分のいのちを救うことはできません。
神の国、そして、自然災害の国、日本
さあ、切羽詰まっています。
あなたは、どうしますか。