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和歌山県 神社巡り(6月17日)➂ 伊太祁曾神社 切り通しからの一考
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178329-Cgig9Awqcl.jpg?width=1200)
とにかく
この、ときわ山の切り通しに関して
ネットには
ほとんど上がっていない
あまりに
ごちゃごちゃしたので
まとめます
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178566-hDV11tuO71.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178121-FN3tfnIjEo.jpg?width=1200)
つまりは
●最初
日前神宮の遷座地は
伊太祁曾神社が鎮座していた
↓
山東盆地
山東地区 亥の森に鎮座
↓
奈良時代、和銅6年、713年
現在地に鎮座する
●五十猛命
●『日本書紀』で
素戔嗚尊の子とされる
五十猛神と同神とする説がある。
●この神が
「木国」の神として出てくることは、
大国主神の神話中の
この段が
「大き樹を切り伏せ」
「矢を茹めて其の木に打ち立て」
「其の木を析きて取り出して活け」と
木が題材に取られていることに
関わると考えられる
●大国主神の根堅州国の訪問の段の
「木国の大屋毘古神」
キ(乙類)が
オクツキ(墓)やアラキ(殯)の
キ(乙類)への連想を伴う
という見方により、
根の国への入り口が
木国の大屋毘古神と
結びついているとする説がある
●木の繁茂する
紀伊国の土着の信仰神
と想定する説がある
●古事記編纂 712年
●日本書紀編纂 720年
日本書紀のほうに
五十猛命の話が
書かれている
「我が国に樹木を植えて廻り
緑豊かな国土を形成した神様である」
●熊野参詣の目的
黄泉の国
黄泉がえり
蘇り
●熊野古道 紀伊路
布施屋駅~海南駅
この切り通しは
この区間の一部である
![](https://assets.st-note.com/img/1689692177163-RQuRFpPNa2.jpg?width=1200)
熊野古道とは、
熊野三山
(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)
へと通じる参詣道の総称のことであり、
また、霊場・山岳修行の道でもある。
平安期には、
貴族や上皇など身分の高い人々の
ものだった熊野詣は、
浄土信仰の広がりに伴い、
中世期以降には
「蟻の熊野詣」と言われるほど、
庶民や病人にいたる多くの人々が
行列を作り、
魚、肉、葱、韮などを絶つ
潔斎をしながら、
長く険しい祈りへの道を歩いた。
一口に熊野古道といっても、
ルートはいくつもある。
平安期の貴族は
京の都から紀伊路を経て
本宮を目指したが、
熊野詣が一般庶民にまで広がった
江戸期に入ると、
東国からのお伊勢参りを
終えた人々が、
伊勢路を通って詣でることが多かった。
●皇室で
熊野三山を参拝したのは
宇多法皇
平安時代中期
延喜7年、908年が最初
●熊野古道
熊野三山参詣が
頻繁に
行われるようになったのは
平安時代、1090年の
白河上皇の熊野御幸から
と言われている
●切り通しは
仮説として
908年以前に造られた可能性もある
●江戸時代後期の
伊太祁曾神社の絵図には
すでに切り通しが描かれている
●紀ノ川は
中央構造線を
掘り込んで流れている
![](https://assets.st-note.com/img/1689692176572-eDYhH7iA1N.jpg)
和泉山脈南縁の
奈良県五條市から
和歌山市付近に至る区間では、
7世紀以後、
9世紀以前に最新活動があったと推定され、
1回の活動に伴う
右横ずれ量は
4m程度であった可能性があります。
また平均的なずれの速度と
1回のずれの量から求められる
平均的な活動間隔は、
約1千1百−2千3百年であった
可能性があります。
西暦601~900年までの間に
4メートルもズレていた!!
![](https://assets.st-note.com/img/1689692171648-KkCE6b1rRQ.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692175154-TKkF7hvIAe.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692177277-XDGZ2qZNgE.jpg?width=1200)
和歌山あたり、白亜紀だ
その頃、中央構造線に大きなズレが起きて
![](https://assets.st-note.com/img/1689692176814-5jPyxGDZR1.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692168159-6w3id07Wql.png?width=1200)
三波川変成帯の一部だとすれば
変成岩である
紀伊半島の結晶片岩中の
白雲母のK-Ar放射年代は
70-110Maを示し、
これらは何れも
三波川変成作用が
白亜紀後期であることを示している
約1億2000万年前~6000万年前に
地下深くのやや強い圧力で
形成された泥岩起源の三波川変成岩類
しかし
古事記、日本書紀を
編纂するにあたり
「古事記」は
和歌の母体である古代歌謡
(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や、
古代神話・伝説などの
素材や記録を取り込んだ
日本文学の発生や源流を見る上でも
重要な素材の宝庫となっている
神話重視
「日本書紀」
歴史の記録には、
書記官の存在が不可欠である。
日本における文字の使用が
渡来人によってもたらされたことも含めて、
日本の修史事業は
朝鮮半島・中国大陸の情勢と深く関係していた。
日本では
5世紀後半から6世紀にかけて、
倭王権の下に
史(フミヒト/フヒト)と呼ばれる
書記官が登場する。
彼ら、フミヒトの多くは
渡来人によって構成され、
人的紐帯に基づいて
倭王権に仕える形態から
やがて欽明朝期の百済からの
フミヒトの到来を経て制度化されて行った。
「帝紀」「旧辞」がまとめられていったと
される時期が
この欽明朝にあたると考えられ、
同時期には
朝鮮半島において
百済と競合する新羅でも
修史事業が進められていた
↓
素戔嗚尊、五十猛命の
話、ですわね
この、ときわ山古墳(鎌倉時代、盗掘)
その一帯の山の地層が
三波川変成帯で
「木」の地層のように見えているので
五十猛命が
出雲ではなく
なぜ
和歌山に定住する
ということになったのか
地元の神話と
紐づけできたのではないかと考える
そして
なぜ、伊太祁曾神社は
日前神宮の鎮座地から移ったのか
その地よりも
現在の場所の地層で
「木の神様」は
「木のように見える
地層の場所」に収まることが
一番なのではないか
と考えたのではないだろうか
より、神気も
強まるのではないかと
考えたのではないだろうか
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178598-YrlYkbyp5b.jpg?width=1200)
中央構造線は
大阪と和歌山の境から
三重県の伊勢を通過している
中央構造線の抜ける
茨城県、鹿島神宮に「要石」がある
それと同様に
紀伊半島の西端に
日前神宮ー日像鏡
國懸神宮ー日矛鏡
東端に
伊勢神宮ー八咫鏡
「要石」の如く
地震による中央構造線のズレを抑える
霊鏡と考えていたのではないか
だから
伊太祁曾神社は
移動したのではないだろうか
こんな仮説、
歴史的にも書かれていないし、
アホみたいな考えかもしれない
五行論を習った者の考えとすれば
中央構造線の
東ー八咫鏡
西ー日像鏡、日矛鏡
1対2
陰陽、なんですよ。
明治神宮に行かれた方なら
ピンとくると思います
![](https://assets.st-note.com/img/1689693345254-XBDbVncntv.jpg?width=1200)
御神木、右が1本、左は2本
これで、陰陽を表しているんですよ。
紀ノ川沿いに中央構造線があり
その両端に、1対2 にあるならば
陰陽を考えてしまう。
まあ、これに関して
ある方からは、
「歴史的にもそんなことは書かれていない」
と断罪されました。🤣
でも、仮説として
捨てられない考えじゃないかとも
思うんですよ。
ここに直に来て
妄想が
とめどもなく溢れ出てきた!!
そうか
今回、橋本市から
直線的に、十津川を通って
熊野本宮へ行く予定だった
それが
土砂崩れによって遠回りしたのだが
考えてみれば
わたしは、
紀伊路から、中辺路を通って、
本宮へ行ったのだ
これも
神の成せる業ということか
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178429-frQ0lks75u.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178152-mC5kgpHKPp.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692176956-mkucUegKBQ.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692177084-hIzec6tzOk.jpg?width=1200)
まるで、「木」のようだ
これも
変成岩なのだろうか。
白亜紀に、なにがし、大木が倒れ
そのまま、地層になり、
中央構造線のズレによって現れたというのか。
![](https://assets.st-note.com/img/1689692175848-fd25EQVIr1.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178285-bQpidPvnyG.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692177980-NynZxJ6SD2.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692177693-8DoNjbLUri.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178468-eYLmXxng2v.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1689692178215-UC4xq6Tekn.jpg?width=1200)
どうして、ネット上に
これを出す人が、ほとんどいないなんて
考えられない。