空海と丹生都比売
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『空海と丹生都比売』
〜空海高野山開山の秘密・
阿吽、はじまりと終わりの地
その一☆
丹生都比売神社の御祭神は、
言わずもがな丹生都比売大神ですが、
この女神は丹生都比売神社では
天照大神の妹神(稚日女尊)であると
説明しています。
これは天平時代に書かれた
「丹生大明神祝詞」に
稚日女尊と丹生都比売神は同じ
とされているからです。
全国にある丹生神社は八十八社で、
丹生都比売大神を祀る神社は百八社、
摂末社を入れるとゆうに
百八十社余となるそうです。
「丹生」という地名も全国にたくさんあり、
私の住んでいる三重県にも
「水銀(辰砂)」の採掘が
縄文時代から行われていた
とされている
多気郡勢和町(古い地名は丹生村)と、
現在では、いなべ市となっている
丹生川村があります。
また、奈良県には丹生川があり、川沿いに
三社「丹生川神社」が鎮座しています。
この丹生とは辰砂、
つまり、
「赤い(丹)土を産する(生)場所」
という意味であるとか、
辰砂を採掘していた
「丹生氏?」より名前が付けられ、
その集団が
「丹生都比売大神」を祀っていた
などといくつかの説があるようです。
『続日本紀』には、
文武天皇2年(698年)9月28日の条に、
常陸国・備前国・伊予国・日向国、
そして伊勢から
朱砂(辰砂)が献上されています。
とくに、伊勢国の場合は、朱砂とともに
雄黄(石黄)が献上されていますが、
雄黄は有毒なヒ素鉱物であるとともに、
当時は貴重な薬品として流通していたようです。
丹生鉱山の大きな特徴として
副産物の石黄の産出が多いことがあり、
現在のところ、このとき献上された
伊勢産の水銀は丹生産の物であった
と考えられているのです。
また、713年(和銅6年)には、
伊勢国のみから朱砂が献上されています。
ここで伊勢国といえば皇大神宮内宮には
天照大御神が祀られているのは
誰もが周知の通りですが、
稚日女尊は
『日本書紀』
神代記上七段の第一の一書に
登場していて、
高天原の斎服殿(いみはたどの)で
神衣を織っていたとき、
それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして
部屋の中に投げ込んだため、
稚日女尊は驚いて機から落ち、
持っていた梭(ひ)で
身体を傷つけて亡くなり、
それを知った天照大神は
天岩戸に隠れてしまったとされています。
また『古事記』では、特に名前は書かれず
『天の服織女(はたおりめ)』が
梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、
同一の伝承と考えられます。
何故?
機織りの女神が、
いわゆる鉱山の女神となったのでしょうか?
ここに重要な記録があります。
古代における水銀の用途は、
朱(弁柄)、赤土(丹土)と共に
朱砂が顔料として用いられていた他、
アマルガムメッキ用に
水銀が用いられていました。
特に奈良東大寺の虞舎那仏像(大仏)の
建造の際には、熟銅73万7560斤とともに、
メッキ用に金1万436両、水銀5万8620両、
さらに水銀気化用に木炭1万6656斛が調達され、この際に使用された水銀が
全て伊勢産で賄われていたかは不明ですが、
その後、戦乱によって損壊した大仏を
再建するために用いられた水銀は、
全て伊勢産であったと考えられているのです。
この事から丹生の神は
アマテラスの地元で
辰砂が産出されることにより、
日本書紀では、妹神や若いアマテラスに
昇格したのではないでしょうか?
伊勢国の香良洲神社や播磨の生田神社などは
伊勢産の辰砂を
中国に輸出する際の中継地だった
のではないでしょうか。
空海が高野山の地を得るために
丹生都比売大神の御子神である、
二匹の犬を連れた狩場明神の道案内で
高野山を開山する説話は有名ですが、
これは地元の豪族や有力者が協力してくれた
と考えるのが妥当だと思います。
しかし、直接、空海と辰砂を結びつける
リアルな記録が見当たらないのです。
ある説では空海が全国を旅したのは
辰砂の鉱山を見つけるためであったとか、
四国八十八ヶ所はまさに、
その時の産物であるとか、
若き日の空海は
辰砂を渤海の商人に売り、
唐の留学の時に西安でその代金をもらい、
留学費用にしたのではなどと、
後付けの推論はいくつかあります。
もちろんバイリンガルな空海ですから、
外国語での交渉もスムーズに進むことが
できたのかもしれません。
伊勢国を本拠地としていた「丹生氏?」、
果たして空海は
伊勢国の何処へ来ていたのでしょうか?
その二☆☆
「丹生神社と丹生中神社」
三重県多気郡多気町丹生
御祭神
埴山姫命、彌都波能賣神、天照大神、拷幡千々比賣命、武甕槌命、齋主命、天津兒屋根命、姫大神、大己貴命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、饒速日命、猿田彦命、大山祗命、市寸島比賣命、月讀命、素盞嗚命、氣吹戸主命、金山比古命、金山比女命、譽田別命、五柱男命、三柱女命、豊受比賣命、建御名方神、大國魂神、蛭子命、底度久神、安倍晴明、宇賀魂神、菅原道實、火遠理命、秋葉大神、愛宕大神、宇迦之御魂神、不詳一座
境内社の一つである、
式内社の丹生中神社の祭神は
金山彦命・金山姫命という
男女一組の鉱山神である。
この祭祀は水銀取に直接結びつくものとして
重要な意味を持っている。
次の祈雨止雨祈願に結びつく祭祀は
これまた埴山姫命に次いで
祭神とされる水波売命(水の神)である。
当社の創始は、
社伝によると継体天皇16年という。
往古より当地は水銀の産地として名高く、
この地の守護神として奉斎されていた。
また、『本朝年代記』に
嵯峨天皇弘仁10年(819)、
伊勢丹生神に祈雨祈晴した記載が
見られるように、
当社は古よりその方面に霊験あらたかとされ、
更に『延喜式神名帳』多気郡五二座搭載の
1社にも数えられる。
室町以降、伊勢国司北畠氏はじめ
松阪城主古田重治、
歴代紀州藩主から篤い尊崇を得た。
明治41年4月14日、当社境内社の高野神社など
24社を当社に合祀した。
尚、明和年間(1764〜72)以後
今日に至るまで、
社殿造営には神宮式年遷宮の際に
拝領した古殿の用材を利用するのを慣例とする。
三重県神社庁より
丹生中神社由来
祭神 金山彦命・金山比女命ほか十七柱
延喜式の神名帳、
飯高郡九座のうちにあげられている。
往古この地の山々より
多くの汞(すいぎん)を掘り出し、
伊勢の両宮へ貢いだ事は外宮旧事記等にも
記載されており、
この神社には金山槌・金山桶等の神宝がある。
なお、明治四十一年二月十八日から
四月十八日にかけて、
村内の八幡神社・八柱神社・金比羅神社・
塩垣神社等三十余社を合祀し、
現在に至っている。
丹生神社々務所
丹生神社といえば、
一般的には「丹生都比売大神」(水の女神)が
祀られていますが、
こちらでは何故?
「埴山姫命」が祀られているのでしょう。
埴山姫は所謂「土の神」であり、
農耕や土師器、焼物の女神でもあります。
また日本書紀では埴安神となっていて、
「ハニ」(埴)とは
土のこと解釈されています。
多気郡多気町丹生の丹生神社は
社殿北面に神奈備山があり、
付近には古代より水銀を採掘した
無数の鉱山跡があるようです。
この水銀鉱山は昭和まで
採掘されていましたが、
採掘や製錬でおきる公害の為、
現在では休鉱となっています。
配祀神や合祀神が多いのは、
古代以降、如何に丹生郷が
水銀採掘で人々が集まり、土地が開かれ、
家々が繁盛していたかを物語っています。
中世には伊勢国司北畠氏や
皇大神宮との関係も深くなり、
本来なら丹生都比売神、
或いは稚日女尊であった御祭神が
埴山姫命に代わったのかもしれません。
その時代は隣接する
神宮寺「丹生大師」の空海にまつわる伝承を
考慮すると、
神宮寺が衰退する平安時代後期頃、
或いはもっと新しく、
17世紀の後半か皇大神宮の遷宮古殿材を
拝領して社殿を造営するようになった
明和年間(18世紀)かもしれません。
いずれにせよ
神仏混淆の時代とはいえ、
皇大神宮のお膝元で
真言密教を代表する丹生都比売大神では、
やはり具合が悪いという事情があったのか?
土の神とするのは、陰陽五行の五行相剋では
〜「土」は「水」~に勝つですから、
この辺りの思想背景もあるのかもしれません。
さて、これより本題になります。
丹生都比売大神は天平時代に書かれた
「丹生大明神祝詞」に
稚日女尊と丹生都比売神は同じとされていて、
この丹生大明神祝詞によると、
〜皇御孫(すめみま)の命(みこと)の
宇閇湛(うこへ)の任(まにま)に
於土(うへつち)をば下に掘り返し、
下土(したつち)をば於(うへ)に掘り返し、
大宮柱(おおみやばしら)
太知(ふとし)り立て奉り給ひ、
高天(たかま)の原に知木(ちぎ)高知り奉り、
朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮に、
世の長杵(ながき)に
常世の宮に静まり坐(ま)せと申す。〜
と書かれており、於土〜云々のところは、
まるで鉱山を掘り進めるような表現です。
まぁ、これは現代人の私が
感じる言葉ですから、
本来はちゃんとした意味があるのですが、
ここで気になるのは
空海が
皇大神宮参拝の折に当地へ立ち寄り、
神宮寺が自分の師といわれている
「勤操大徳」が開山したことを知らされ、
丹生にまず七堂伽藍を建て、
高野山に密教の根本道場を建てるという
誓願を披露した上で、
翌年に高野山の下賜を請願し、
さらに翌年に高野山開山へと続くところです。
また一説では
空海が唐に留学中、
本来は多気の丹生に聖地を作る予定だったが、
日本に向かって投げた「三鈷」が
丹生に落ちて跳ね返り、
高野山で見つかったので、
しかたなく高野山にしたという、
なんとも不思議な伝承を持っている事です。
多気には和歌山街道なる
古くからの街道が存在し、
山中を通り奈良の桜井へ出て、
葛城、御所(巨勢)を経て、
橋本、九度山、高野山、
或いは天野の郷へと通じています。
また京へ行くには
鈴鹿峠を越えていかなければなりません。
鈴鹿峠では辰砂を運ぶ商人が山賊に襲われた
という話が
今昔物語にでてきます。
話しを戻しますが、
空海の師といわれている
「勤操(ごんそう、或いは、ごんぞう)」とは
どのような人物であったか、
少ない資料の中で紹介してみますと、
弘法大師空海の師として知られる勤操大徳は
天平勝宝六年(754年)、
大和国高市に生を受けました。
弘法大師の『勤操大徳影の讃序』によると、
父は秦氏、母は嶋史氏で、
初め子がないのを憂え、
駕竜寺に詣でて一子が授かるよう
祈ったところ、在る夜、
明星が懐に入るという霊夢を見て
懐妊したとされ、
生まれてまもなく父とは死別。
母の手一つで養育されたようです。
12才で大安寺信霊の門に入り、
16才にして「南獄の窟」に登り
修行したとあります。
そして23歳のころ具足戒を受け、
大安寺僧として善議大徳に師事し
三論の奥義を授けられました。
次第に三論の法匠として頭角をあらわし、
弘仁四年(813年)には
伝灯大法師位として律師に任ぜられ、
嵯峨天皇は勤操律師に大極殿において
最勝王経を講ぜしめられました。
また紫宸殿おいて宗論をたたかわしめた時、
勤操は推されて座主になり、
高く三論の玄義を唱え、他を退けました。
天皇は嘉して少僧都に任じ、
京に造営中だった東寺の別当に任じたのです。
さらに後に大僧都に任じ、
造西寺の別当を兼ねました。
元亨釈書には
岩渕八講の逸話が伝えられますが、
勤操の隣室にいたという栄好は母親思いで、
つねに支給される自分の食をさいて
母親の元に届けていました。
ふとしたことで病死をし、
知らずにいた母は栄好が来ないのに
食事がくるのを不思議がります。
勤操が憐れんで代わりに食べ物を
童子に運ばせていたのです。
やがて母親も亡くなりますが、
勤操は親子のために岩渕寺で法華経を講じ、
四日間二座勤めて追善供養をなした
とのことで、法華八講の起こりと言われます。
若き日の空海を伴い、和泉の槙尾山に赴いて、
出家させた剃髪の師といわれ、
また虚空蔵菩薩求聞持法を授けた人物と
言われてきました。
さらには空海が入唐することができたのも、
勤操の力によるところが大きかったと
言われます。
弘法大師空海にとって勤操大徳は
その生涯において大きな影響をあたえた
一人といえましょう。
天長四年(827年)
勤操大徳は西寺北院で遷化され、
僧正位を追贈されました。
〜大安寺ホームページより
このように、かなり優秀な僧であり、
(あれ?空海にも「明星」に関する
伝説がありましたよね。)
そしてなんといっても
勤操の俗姓が秦氏を名乗っていることが、
本来の神名「稚日女尊」である事が
伺えるのです。
秦氏については言うまでもなく、
養蚕の伝播や治水事業などで
莫大な富を得ていた渡来系の古代豪族です。
奈良時代末や平安時代初期にも
各地で勢力があったことは
容易に推測できます。
その三☆☆☆
丹生都比売神社
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野
主祭神 丹生都比売大神
高野御子大神(通称「狩場明神」)
大食津比売大神
市杵島比売大神
空海を高野山へ導いた丹生の狩場明神は、
今昔物語では自分の名前を
「犬飼」と言っています。
天平時代に書かれた「丹生大明神祝詞」には
稚日女尊と丹生都比売神は同じとされていて、
稚日女尊は
『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に
登場し、
高天原の斎服殿で神衣を織っていたとき、
それを見たスサノオが
馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に
投げ込んだため、
稚日女尊は驚いて機から落ち、
持っていた梭で身体を傷つけて
亡くなっています。
その後、天照大神が
天岩戸に隠れてしまう有名な場面に登場します。
また『古事記』では、
名前は書かれておらず
「天の服織女(はたおりめ)」が
梭で女陰(ほと)を衝いて
亡くなってしまったとされているのです。
みなさんは
服織(機織)ときくと、すぐに頭に浮かぶのは
七夕の「織姫星」ではないでしょうか?
七夕のお話しはもちろん中国の話ですから、
日本と中国の神話は別物と言われる方も
いらっしゃっると思いますが、
実は、この犬飼
(狩場明神が自分を犬飼だと言った。)は
「犬飼星」ともいわれる
「牽牛星」と一致する名前でもあるんです。
(不思議な一致ですね。)
また丹生(ニウ)の中国語の発音では
「牛=ニウ」となり、
中国の星宿(星座)の『牛宿』には
なんと織姫星と牽牛星も含まれるのです。
空海が伝えた宿曜道
(簡単にいうと密教の占星術)では唯一、
その存在を消された星宿
(28宿の内で、宿曜道では27宿としている)で、
北方玄武七宿の第二宿になります。
それに「犬飼星」は二つの伴星があり、
これは二匹の犬と考えられていたようです。
つまり、空海を高野山へと導いた狩場明神は
二匹の犬を連れていたのですから、
牽牛星そのものとも言えるのです。
『空海の干支は寅』
『三教指帰』の序文には、
空海が阿波の
大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や
土佐の室戸岬などで求聞持法を
修ましたことが記され、
とくに
室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、
口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が
飛び込んできたと記されている。
空海が生まれた年は寅年とされています。
寅年の守り本尊は「虚空蔵菩薩」ですから
納得できますね。
ちなみに空海が入定した年は卯年ですから
守り本尊は「文殊菩薩」となります。
空海が伝えた
「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」
の文殊菩薩と重なります。
空海の師「勤操大徳」が行っていた
「文殊会」が
空海の理想の布教活動だったと思います。
文殊会は
往古は7月8日に行われていて、
乞巧奠に合わせた形で
七夕の日の織姫牽牛のいる牛宿に
高野山開山の説話が付随したのだと思います。
ただし、牛を選んだのは
教団を牽引する意味もあり、
始まりと終わり「阿吽」も
高野山の役割としての
理想が掲げられているのだと理解しています。
牛宿が何故?27宿にないか
というと
毎日の始まりの午前0時と終わりの0時に
存在していると解釈していたためで、
空海で始まり弥勒菩薩化生で
高野山の役割や
空海の役割が成就する
と考えていたためだと思います。
『文殊菩薩と空海』
空海は高野山の地を得るのに
天の川の牽牛と織姫にお願いしたはずです。
つまり牛宿にですね。
しかし、宿曜では牛宿は
唯一はずされた星宿です。
七夕は奈良時代に
すでに伝わっていましたから、
師の勤操らが特別に文殊会でお祀りしていた
文殊菩薩と宿曜を研究していた
自分自身を合わせたかったのでは
ないでしょうか
(文殊会は一般的に7月8日に
行われるようになっている)。
空海が今でも弘法大師廟にいるのは
未来仏である
弥勒菩薩の通訳をするために
日々勉強しているからです。
文殊菩薩は「答」の仏と言われるように、
いかなる質問にも答えれる知恵を
持っています。
大師廟への参道に
たくさんの墓碑が並んでいるのは
弥勒菩薩の口から出る言葉を
文殊菩薩の化身である空海が答えてくれ、
その話を聞くために
墓碑が建立されているのです。
『7年7月と五色の短冊(五色の糸)』
弘法大師空海が入定された高野山は、
弘仁7年(816)に
金剛峯寺を建立した時から始まります。
弘仁7年7月のこと。
弘法大師は自身が唐から投げた三鈷の
落下地を尋ねて、
大和国宇智郡(奈良県五條市)を
歩いていました。
すると、向こうから1人の猟師が
やってきました。
顔は赤く、
背丈は8尺(2.4メートル)ばかりで、
弓矢を持ち青い色の小袖を着ています。
白黒2匹の犬をひきいた姿は、
筋骨隆々で見るからにたくましい狩人でした。
大師はこの猟師に呼び止められて、
旅の目的を話しました。
すると猟師は
「私は“南山の犬飼”だが、
その場所を知っている。教えてあげよう」
と言い、連れていた2匹の犬に
大師を先導するように言いました。
道中でまた一人の山人と出会いました。
その山人は大師にこう言いました。
「ここから南に行くと平原の沢がある。
そこがそなたの求める地だ。……
じつは、私はこの山の王なのだ。
あなたに私の領地を差し上げよう」
さらに山を分け入ると、
大師は8つの峰に囲まれた平原に至りました。
平原の中の一本の木に三鈷が輝くのを見て、
長らく求めた禅定の地がここであることを
知って大師は感涙にむせんだといいます。
大師は山人に
「いったいあなたはどなたなのですか」
と尋ねました。
山人は「丹生明神(丹生都比売大神)」と
名乗り
白黒2犬を遣わせたのは
「高野御子大神(狩場明神)」であると
名乗られたそうです。
~『今昔物語集』より~
この説話で大事な意味があるのは
「色」だと思います。
赤い顔、青い小袖、白い犬、黒い犬、
物語に登場していて、
唯一、色が入っていないのは
空海自身です。
おそらく黄色なんだと思います。
黄色(おうじき)の意味は
「堅固な徳を現す色」で
空海の存在そのものなんです。
また、この五色(ごしき)は、
仏教において如来の精神や智慧を
5つの色で表していますから、
物語と宗教がちゃんと成立していますね。
もう一つ、大事なことは
弘仁7年の7月に空海は
自分自身が唐から投げた「三鈷」を
探していたという部分です。
7と7、これは七夕ですね。
紀ノ川を天の川に見立て、
丹生都比売を織姫(稚日霊女)とし、
狩場明神(南山の犬飼、牽牛星の和名は犬飼星、
犬飼星には二つの伴星があり、
この伴星を二匹の犬としている)を
牽牛としていて、
丹生(拼音ニウ)を牛(拼音ニウ)、
宿曜にはない「牛宿」
(牛宿には織姫星や牽牛星が含まれる)を
見本にした高野山の場所選び、
長安と同じ緯度でもあり、
空海は同じ夜空を見ていたんでしょうね。
唐の長安に倣うと、川の南の地は「陰の地」、
つまり陰陽も意識していた。
だから高野山は女人禁制、
陰と陰(女性)が重ならないように、
代わり丹生都比売を祀った。
宿曜にはない「牛宿」は
午前0時に毎日存在するため、
始まりと終わり、
つまり「阿・吽」、
高野山は、空海で始まり、弥勒菩薩で終わる
ことになるんですね。
*五色(ごしき)
仏教において如来の精神や智慧を
5つの色で表す。
青・黄・赤・白・黒が基本となる
五色だが、
青の代用に緑、黒の代用に樺色や紫を
使うことがある。
参考
今昔物語
高野山真言宗犬飼山 轉法輪寺ホームページ
文・蛯原春比古
蛯原さま、ありがとうございます!
ものすごくわかりやすかったです
先日、NHKで和歌山県紀の川市の映像が流れ
紀の川市は文字通り、
紀ノ川が流れているのですが
結構、周りを山に囲まれ土地が低いなあと
感じました
大雨があると水浸しになってしまうような
その映像で紀ノ川は、
天の川ではないかとも感じていたのです
蛯原さまのお話で
カミコトは、
やはり現地に行かねばわからぬもの
だということを強く認識しました
本や、こういったことを
調査されていらっしゃる方のお話を
見聞きするたび
わたしの母方祖母の実家が
もしかすると和歌山県と通じ
五十猛神さまの家系ではといわれていますが
(違うかもしれませんが)
何故、五十猛神さまは
和歌山県に定住したのか
現地で肌身で感じてみたいと
思うようになりました
中央構造線上の和歌山県
紀ノ川の暴れ
五十猛神さまの坐ところ
羽黒山山伏の星野先達さまの
「受けたもう」と「感じろ」
伊勢でもなく、出雲でもなく
なぜ、和歌山なのか
それこそ
直感力を研ぎ澄ませ
この目で見て来なければ!
という思いです
主人には、わがまま了承、感謝です!
🙏💦
しかし、高野山は
空海ではじまり、弥勒菩薩で終わるとは
今年は
↓↓↓
弘法大師空海上人生誕 1250年
これまた何の因縁か
弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、
この気の遠くなる年数は、
弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、
兜率天の1日は地上の400年に匹敵する
という説から、
下生までに
4000年×12ヶ月×30日×400年=5億7600万年
かかるという計算に由来する。
そして、後代になって
5億7600万年が56億7000万年に
入れ替わったと考えられている
弥勒菩薩が出現するまでの間、
現世に仏が不在となってしまう為、
その間、六道すべての世界に現れて
衆生を救うのが
地蔵菩薩であるとされる。
弥勒菩薩の下生信仰とは
弥勒如来の下生が(56億7千万年などの)
遠い未来ではなく現に「今」なされるから
それに備えなければならない
という信仰である。
今、それが現れるかもしれないということ
わたしは、この文面に
ぶっ飛びました!
しかも、6月14日に、和歌山へ行く前に
これを読んで、
ますます、空海と、丹生都比売と狩場明神に
思いが馳せていきました。
蛯原さまからも、
「必ず、丹生都比売と狩場明神に
会いに行きなさい」
といただきまして、
限られた時間に組み入れることにしました。
蛯原さまの仮説が、非常におもしろすぎる!
オォ?""(°͈ᗜ°͈ )Ξ( °͈ᗜ°͈)""オォ?
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