【出雲】出雲大社参拝の旅 ①2006年10月
2006年10月に
参拝した時の、出雲大社です。
この時は、ある神社さんの
神職関係者ツアーで参拝いたしました。
早朝の参拝でしたが、
この時はまだ、古い屋根ですね。
出雲大社に行った時の写真は、
あまり撮影していなかった。
どうして撮影しなかったのだろうか。
自分でも記憶がありません。
60年に一度の、屋根の葺き替えは、
2008年の仮殿遷座祭の後でした。
最近は、整備された境内ですが、
素鵞社の周囲は、この頃、
うっそうとしていましたね~。
八足門から見える、御本殿
たまたま、国宝おにわふみの境内が
写ってしまった。後で気づきました。
消したつもりが、参拝しているうち、
スイッチが入って
写ってしまったんでしようね。(汗)
朝もやの中に、
朝日が射し込んで、幻想的でした。
実は、この写真、御本殿裏の八雲山に、
雲が出たものです。
御本殿内部に描かれた、「八雲之図」
実際、仮殿遷座祭に出席して、
翌日、奉祝祭にも出席し、
拝観することができました。
出雲大社のホームページより
「天下無双の大廈
(二つと同じものが無い壮大な神殿)」
と称えられる御本殿は、
悠久の歴史の中で
その度々の御造営遷宮と
御修造遷宮を繰り返し、
今にその姿を受け継いできました。
現在の御本殿は
延享元年(1744)に御造営されており、
昭和27年に国宝に指定されました。
御本殿の高さは
8丈(24メートル)にも及び、
“大社造”と呼ばれる
日本最古の神社建築様式を
今に伝えています。
その特徴は切り妻、妻入りの構造で、
平面は九本の柱が田の字型に配置された
正方形の間取りとなっています。
その中心には心御柱と称する太柱があり、
その正面向かって右側の側柱との間は
板壁となって殿内が仕切られ、
この壁の奥に
大国主大神が御鎮座されている
御内殿(御神座)があります。
従って、
御神座は御本殿と同じ南向きではなく、
西向きになります。
御内殿の前室には
板壁に接して御客座があり、
天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・
神産巣日神・高御産巣日神・
天之御中主神の別天神5柱の神を
お祀りしており、
又、中心の柱である心御柱の近くには
大国主大神の御子神である
和加布都努志命(牛飼神)が
お祀りされています。
西向き、ということは、
稲佐の浜、日本海側を向いていますが、
西は黄泉の国、
伊弉冉命のお話がありましたね。
大国主命は、「国譲り」
御本殿裏は、素鵞社 素戔嗚尊
『日本書紀』における
八岐大蛇の記述がある一書第4では、
天から追放されたスサノオは、
新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、
この地吾居ること欲さず
「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い
息子の五十猛神(いそたける)と共に
土船で東に渡り
出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った
(「遂以埴土作舟 乘之東渡
到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)後、
八岐大蛇を退治した。
また続く一書第5では、
木がないと子が困るだろうと言い、
体毛を抜いて木に変え、
種類ごとに用途を定め、
息子の五十猛命 、
娘の大屋津姫命(おおやつひめ)、
枛津姫命(つまつひめ) に命じて
全国に植えさせたという。
地図で見てみますと、
大国主大神さまは、
対馬、あるいは、朝鮮の新羅のほうに
向いてはいないか。
大国主命は、幽世(かくりよ)大神。
高天原(たかあまのはら)からの
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の
使者に国譲りを要請され、
対話と武力を交えた交渉の末に
幽冥界の主、幽事の主宰者となった。
令和3年6月、第9号
出雲大社 相模分祠 「むすび」より
延享元年、1744年、
絵師、竹内随流斉甫 記とあるが、
描いたのは、
江戸時代の狩野派の絵師
「黒田弥兵衛」と記録にある。
八雲と言いながら、
「七つしかない」ことは、謎です。
また、神魂神社の、「瑞雲の図」は、
狩野山楽土佐光起の筆で、
「九つの雲」が描かれています。
出雲大社と同様に
入口は正面に向かって右に片寄ってあるが、
神座は出雲大社とは反対に、
殿内の中心に建つ
心御柱(しんのみはしら)の左奥に
横向きに置かれている。
と、あります。
画像お借りいたしました
地元の人のお話では、
八雲山に、ポッカリと、ひとつだけ、
雲が現れた時、
その雲には、大国主大神さまが
乗っておられる、という。
そして、それが
もうひとつの雲ではないか、と
言われる人もいる。
数枚、撮影いたしましたが、
すべて、ブレてしまっている。
神職さんに尋ねましたところ、
「大神さまの御力ですよ」と
いただきました。
不思議なものです。