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【ルーツ】父方祖父の生まれた場所の、ある話

仙台駅東口

発展が著しい場所でもあります。
そんな東口には、名所があります。

島崎藤村の、「初恋」

1896年(明治29年)、
藤村は東北学院の教師として
仙台に赴任し、
現在の鹽竈神社(名掛丁塩釜神社)の
地にあった、三浦屋に下宿していた。
この三浦屋で書かれたのが
藤村の第一詩集『若菜集』であり、
その詩集を代表する詩が「初恋」である。
すなわち、
名掛丁塩釜神社に繋がる当道は、
この「初恋」という詩に因んで
命名されている。

(ウィキペディアより)

名掛丁藤村広場

「草枕」の詩碑

1896年(明治29年)9月8日、
東北学院の教師となって
宮城県仙台市に1年間ほど赴任。

同年10月25日に母の死に直面し、
当時住んでいた広瀬川を見下ろす
崖上の支倉町の住居で詩作を始め、
仙台駅近くの三浦屋に移って
第一詩集『若菜集』を執筆、
これを発表して文壇に登場した。

『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で
明治浪漫主義の開花の先端となり、
土井晩翠(仙台県仙台出身)と共に
「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」と
並び称された。
これら4冊の詩集を出した後、
詩作から離れていく。

(ウィキペディアより)

その広場近くに、
鹽竈(しおがま)神社が鎮座しています。



鹽竈神社の隣には、
三吉神社が鎮座しています。

三吉神社といえば、
秋田県の神社では、
いの一番に頭に浮かぶ神社です。

父方祖父は、
秋田県横手市婦気(ふけ)の出身で、
最初、祖母の家には、
婿養子で入りました。
その後、祖母が、
「結婚したのだから」と、
祖父の名字に替えたのです。
わたしの子どもの頃は、
祖父の実家には行ったことは
ありませんでしたが、
だいぶ経って、わたしが30代になり、
わたしの父が、
「今一度、横手に行ってみたい」と
言い出して、
わたしが往復運転して、
母と3人で出かけたことが初めてでした。
祖父の実家の墓所にも、何十年と
お参りをしていませんでしたので、
仏花など持っていきました。

横手市役所近く、
浄土真宗本願寺派 光専寺。

行ってみれば、大変驚くような墓所でした。
コンクリートブロックを
積み重ねて造った土台の上に、
小さな石が載っている、
花立ても、線香置きもない、
あまりにひどい墓所でした。

お参りの後、
すぐに祖父の実家に行ってみますと、
男所帯で、
仏壇もあまりにひどい状態でした。
父は、実家の主に、
「これはあまりにひどい。
きちんとしないといけない!」と
叱っていました。
その後、わたしも
ご馳走になった御礼を、
手紙とともに送付しましたが、
内容には、
子どもたちとお話し合いして、
墓所は新しく直してください、
父ががっかりしていました、と
書きました。
その3年後に、
「墓所を新しくしましたので、
またおいでください」と
手紙をいただき、早速、伺ってみますと、
立派に直されて、
これで、
亡き父方祖父も喜んでいるだろうと、
涙が流れました。
その時は、
2つのお重箱に、精進料理を作り、
ポットにお茶や味噌汁を入れて、
仏花、果物、お菓子を、
仙台から持っていき、
真新しい墓所の前に広げて、
ご先祖さまにご馳走いたしました。

それから、わたしの父は、
数年後、心不全で亡くなりました。
入院中も、秋田の墓所を直したことが
一番嬉しかったと言っておりました。

横手といえば、横手神明社

5月4日、5日の例大祭は、
横手市内の町内に結界の縄が張られ、
紙垂が揺れています。
代々のお宅の玄関先に、
それぞれの家の祭壇が飾られるのですが、
まず、それが圧巻!
ぜひ、機会がありましたらご覧ください。

祭神が、天照大御神、豊受大神、
猿田彦神、須佐之男神、
菅原大神(菅原道真)



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