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インターネットが生まれるまで

徒歩よりも遅かった

 ローマ帝国時代後期、ローマ支配下のエジプトの法的文書には、暦日と在位中の皇帝の名前が記載されていました。当時はローマで新しい皇帝が即位しても、それがエジプトに伝わって法的文書に反映されるまでにタイムラグがありました。このタイムラグを調べると、古代における情報伝達の速さを推測できます。また、近世に入った1500年頃の情報伝達の速さは、ヴェネチアの商人たちの日記から推測できます[1]。
 その結果を見ると、平均時速はほとんど変わらず時速1・5キロメートルほどだったようです。産業革命以前の世界では、情報伝達は人間の歩行速度よりも遅かったのです。

出典:グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』下巻p177
出典:グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』下巻p178

 近代の情報伝達の速さは、ロンドンの新聞から推測できます。世界中で起きた事件がロンドンで報道されるまでのタイムラグを調べればいいのです。古代に比べれば多少は速くなっていましたが、19世紀前半まではさほど進歩していなかったことが分かります。ニュースの報道が高速化していくのは、電信が商用化された19世紀後半です。

 もちろん産業革命以前から、高速で通信を行う工夫はありました。世界各地で用いられた狼煙(のろし)や旗振りです。
 日本では18世紀に入ると、大阪・堂島の米市場における米の値動きをいち早く知りたいという需要が生まれました。当時は「米飛脚」が情報伝達を担っていたのですが、人間の走行速度では飽き足らない人々が現れたのです。そして、旗振りによる通信が行われるようになりました。山の峰などの目立つ場所で旗を振り、それを目視で確認して、バトンリレーのように情報を伝えるのです。旗の振り方で、かなり細かい情報を伝えることができたようです。
 江戸時代の旗振りの通信速度を示す、直接の史料は残っていません[2]。後世の再現研究によれば、大阪からの通信時間は、和歌山が3分、京都が4分、神戸が7分、桑名が10分、岡山が15分、広島が40分弱だったとみられています[3]。驚くべき速さです。たとえば大津(現在の滋賀県)の取引所の米価は、1840年代以前は大阪から1営業日遅れた値動きでした。ところが1840年以降は、同日中に値動きが同期するようになりました[4]。どうやら大阪~大津間では、この時期に旗振り信号が導入されたようです。
 なお、江戸時代の役人たちは旗振り信号を一種の不正行為だと見做して、何度も取り締まりました。これも支配階級が技術革新に抵抗した例の一つかもしれません。

 こうした目視による通信技術の究極とも呼べるものが、1793年に誕生したフランスの「腕木通信」です[5]。これは3本の「腕木」と呼ばれる部品からなる装置を建物の屋上に設置し、その腕木の形状でメッセージを伝える仕組みでした。基地局から基地局へと情報を(望遠鏡で読み取って)リレーしていくことで、長距離の情報伝達を可能にしました。
 1794年7月に開通したパリ~リール間の204キロメートル[6]を皮切りに、腕木通信網は政府主導で整備されました。当時のフランスは市民革命を経験したばかりで、周囲を絶対王政の敵国に取り囲まれていました。国境の情報を素早くパリに集める需要があったのです。さらにナポレオン戦争によって領土の拡大が進むと、前線から中央に情報を集める必要性はますます増しました。
 注目すべきは、その速さです。パリ~リール間には20の基地局が存在しましたが、1つの信号を送るのに120秒しか要しませんでした。秒速に直せば1700メートル毎秒です。パリ~ブレスト間の551キロメートルには80の基地局があり、1つの信号を送るのに480秒。こちらは秒速1148メートルです。いずれも音速よりも高速です。なお、現代の東海道新幹線の東京~新大阪間は552・6キロメートルで、パリ~ブレスト間とほぼ同じです。つまり腕木通信は、東京で発したメッセージが約8分後には新大阪に届くほどの速さだったのです[7]。
 しかしフランス政府は、腕木通信網を民間に開放しませんでした。ニュースや株価などの情報を通信する需要はあったものの、それを許さなかったのです。1837年には国家が通信を独占する法案が成立し、民間での通信網配備も叶わなくなりました[10]。
(※フランスの腕木通信網は、世界初の「ハッキング」を受けたネットワークでもある。1834年、銀行家のフランソワとジョゼフのブラン兄弟は、腕木信号の中にパリの株式市場の情報を紛れ込ませれば、当時の郵便馬車よりもはるかに速くボルドーでその情報を入手して大儲けできると気づいた。彼らは基地局のスタッフを買収し、1836年に逮捕されるまでの2年間、この史上初の「サイバー犯罪」を続けた[8]。アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』にも、この事件から着想を得たと思しきエピソードが登場する。)

 1846年のピーク時に、フランスの腕木通信網の総距離は4081キロメートルに達しました。当時のヨーロッパでは他国もフランスに追従し、それぞれ独自の目視による通信網を築きました。その累計距離は1万4000キロメートルを超えると見られています[11]。
 しかし19世紀半ばに電信技術が確立すると、腕木通信は瞬く間に姿を消しました。ピークからわずか9年後の1855年、フランスの腕木通信は全廃となったのです[12]。

電信が世界を覆う

 電信の誕生譚は、米英の2人の男の開発競争の物語です。その2人とは、アメリカのサミュエル・モールスとイギリスのウィリアム・フォザギル・クック[14]です。
 1832年、モールスはヨーロッパからアメリカに帰国する船上で、他の乗客が電気の実験について会話しているのを耳に挟みました。当時の彼は40代で、本業は画家でした。電気にかんする知識は無いに等しかったのですが、それでも発明家になりたいという情熱を抱いていました。6週間の船旅が終わる頃には、のちに「モールス信号」として知られる通信システムを構想していました。問題は、彼にはそれを実現する技術がなかったことです。

 モールスに遅れること4年後の1836年、イギリスのクックは電信機の試作機を完成させました。電線に電流が流れると、近くに置かれた方位磁石の針が触れるという現象を応用したのです。とはいえ、クックの専門は解剖学であり、電磁気学については素人同然でした。
 クックはキングズ・カレッジ・ロンドンの物理学者チャールズ・ホイートストンを訪ね、教えを請いました。2人は一目見て、お互いのことを大嫌いになったそうです。ホイートストンから見ればクックは浅慮で貪欲な商売人に見えました。一方、クックは相手を横柄で鼻持ちならない象牙の塔の住人だと感じたのです。しかし、クックの行動力とホイートストンの知識が最良の組み合わせであることを、2人はすぐに理解しました。彼らは共同作業で、電信技術の開発に着手しました。
 1837年、ロンドン・バーミンガム鉄道のユーストン~カムデン・タウン間1・5キロメートルで、クックは電信の実験に成功しました。当時は先行車両がどこを走っているのか知るすべはなく、発車後の経過時間から推測するよりほかありませんでした。もしも先行車両が故障により停車していたら、後続列車が追突する危険があったのです。クックはここに目をつけて、電信システムを鉄道会社に売り込んだのです。1839年にはグレート・ウェスタン鉄道が、パディントン~ウェスト・ドレイトン間の21キロメートルにクックの電信を導入しました。電信の商用利用はこうして始まりました[14]。

 同じころモールスは塞翁が馬を噛み締めていたはずです。信号システムを発案したはいいものの、長らくそれを具体化できなかったのです。とくに、遠くまで信号を伝えようとするほど高い電圧が必要になってしまい、彼の技術ではせいぜい数百メートル先までしかメッセージが届かないという問題を解決できませんでした。モールスはニューヨーク大学の美術・文学の講師となって糊口を凌いでいました。ところが、この大学で知り合った化学講師レナード・ゲイルの助言により、1837年、モールスは16キロメートルの長距離通信の実験に成功したのです。さらに、この実験を見ていた富裕な青年アルフレッド・ヴェイルが協力を申し出て、チームに加わりました[15]。

 電信技術を完成させたのは、このモールス率いる3人組です。
 とくに、鉄工所創業者の父親を持つヴェイルが加わったことは好運でした。ヴェイルはモールス信号の符号を整理して、より使いやすいものにしました。さらに機械装置の設計・製造にも通じていました。3人の創意工夫により電信システムの性能は飛躍的に向上し、1838年にはワシントンの国会議員の前でデモンストレーションを行えるまでになりました。
 低い電圧では短距離しか信号が届かない――。この問題を、モールスたちはリレー回路を用いることで解決しました。リレーを使えば、発信地の信号をコピーできます。それを繋げれば、何百キロメートルでも好きなだけ通信線を延ばせます。
 1840年代初頭には、モールスたちはボルチモア・アンド・オハイオ鉄道沿線のワシントン~ボルチモア間の64キロメートルで、電信線の敷設工事を開始しました。議会から許可を得て、予算を受け取ったのです。一方、議会には懐疑論もありました。モールスたちのデモンストレーションはいわば手品で、3人は詐欺師だと疑われたのです。
 1844年5月1日、モールスたちは疑いを晴らす機会を得ます[16] 。ボルチモアで大統領候補の選挙があったのです。当時、電信線はボルチモアまで残り21キロメートルのところまで完成していました。その地点でヴェイルが待ち構えて、列車で届いた選挙結果をワシントンに電送したのです。ワシントンでは、モールスとゲイルが信号を受け取りました。モールスが選挙結果を発表したとき、周囲の人々はまだ疑いの目を向けていました。しかし、およそ1時間後に列車が到着して正式な選挙結果が伝えられると、彼らも電信技術が本物であると認めざるをえませんでした。

 クックの電信システムでは1本の通信線あたり複数の電線が必要であり、不経済でした。比べて、電線1本・指1本で運用できるモールスのシステムは、やがて電信のデファクト・スタンダードになっていきました。
 1848年の時点で、アメリカにおける電信線の総距離は3200キロメートルに達しました。1850年には電信会社は20社に増えて、電信線の総距離は約2万キロメートルに。1854年には6万6227キロメートルにまで広がりました[18]。
 一方、ヴィクトリア朝の繁栄華々しいイギリスでは、1850年の時点で電信線の総距離は1万キロメートルを超え、年間3万件のメッセージを扱うようになりました。1860年には総距離8万2490キロメートル、年間186万件のメッセージが飛び交いました[19]。
 1858年には大西洋横断電信ケーブルが開通しました。しかし1ヶ月ほどで、これは通信途絶してしまいます。それでも1866年には新たなケーブルが開通。1870年にはインドが、1871年にはオーストラリアが、この電信網に加わりました[20]。これはいわば19世紀のワールド・ワイド・ウェブであり、世界中のニュースや商品がロンドンに集まるようになったのです。1914年に第一次世界大戦が始まるまで、世界は(21世紀初頭と同様に)急速なグローバリゼーションを経験したのです。

 とはいえ以前の記事で書いた通り、初期の電報は極端に高価でした。大西洋の反対側にメッセージを送るのに、当時の労働者の賃金数ヶ月分に相当する100ドルほどかかったのです。国際通信の恩恵にあずかることができたのは、ごく限られた富裕層だけでした。
 1874年、ロンドンに「中央電信局」が開設されました。740人の女性を含む1200人の電信技手が働いており、さらに270名のメッセンジャーボーイが駆け回っていました。毎日1万7000~1万8000通の電報がここから送信されました。これが世紀の変わり目ごろには4500人もの事務員が働き、1日あたり12万~16万5000通の電報が送信されるようになりました[21]。
 電信は世界を覆ったのです。

無線からラジオ、そしてテレビへ

 1895年秋、イタリア・ボローニャの21歳の若者グリエルモ・マルコーニは、別荘3階の部屋で誘導コイルの前に座っていました。部屋から2・4キロメートル離れた丘の上では、マルコーニの雇った農夫が、ブリキ製の装置の前で合図を待っているはずでした。その農夫には、装置のベルが鳴ったら鉄砲を撃つようにと伝えてありました。
 マルコーニがコイルに通電させた直後、丘のほうから銃声が鳴り響きました。無線通信の実用化が始まった瞬間でした[22]。
 マルコーニはその後、イギリスで無線電信信号会社(のちにマルコーニ無線電信会社)を設立。さらに1899年には、ドーバー海峡を越えてイギリス~フランス間の無線通信に成功しました。1901年には大西洋横断通信業務を開始。1909年にはノーベル物理学賞を受賞しました[23]。
 ワットやエジソンに比べると、日本ではマルコーニの知名度はやや劣ります。しかし、情報通信技術における彼の功績は絶大です。もしも彼がいなかったら、ラジオもテレビも、スマートフォンやWi-Fiですら、現在とはまったく違う姿になっていたかもしれません。
 とくに1901年12月11日の大西洋横断無線の実験は、マルコーニの非凡さを示すエピソードでしょう[24]。イギリス・コーンウォールのポルデューの基地局から、カナダ・ニューファンドランド島のセント・ジョンズの基地局まで、無線通信を試みたのです。直線距離で約3400キロメートル。大抵の人は、この実験は絶対に失敗すると考えていました。なぜなら、電波は直進し、地球は球形だからです。この距離では地球そのものが遮蔽物になってしまい、電波は届かないはずでした。
 ところが、この日の12時30分、マルコーニは助手の送ってきたモールス信号の「S」の受信に成功したのです。
 当時の人々はまだ知りませんでしたが、地球の大気には「電離層」と呼ばれる電波を反射する層があります。この電離層のおかげで、大西洋を横断するほどの距離でも電波が届くのです。理論よりも実証を重視したマルコーニの態度には、発明家・工学者としての矜持を私は感じます。
(※なお、当時の大学研究者や専門家たちは、科学者として妥当な判断を下した。マルコーニの実験結果を信じなかったのである。装置の故障や、雑音の誤読を疑った。しかしマルコーニが追試に成功するにつれて、大西洋横断無線が可能であることを認めざるをえなくなった。)

 20世紀初頭には、商用だけでなくアマチュア無線の文化も広がっていきました。成人男性や少年たちは無線の受送信装置を作ることに熱中し、放送を聴くことに胸を躍らせたのです。1917年のアメリカには、アマチュア無線免許を持つ愛好家が1万3581名もいました。さらに15万ヶ所もの無免許の無線受信施設が存在しました[25](これに先立つ1906年には、無線に音声を載せることも可能になっていました[26])
 そして一部の無線愛好家が、蓄音機やレコードの音楽を流し、お喋りを放送するようになったのです[27]。
 なかでもウェスティングハウス社のエンジニア、フランク・コンラッドの放送は人気でした。ファンから音楽リクエストの手紙が届くようになり、毎週土曜日の放送は、やがて毎晩の放送になりました。1920年5月にはピッツバーグの新聞に載るまでになったのです。これに目を付けたのが、地元のジョセフ・ホーン百貨店です。同年9月、この店は10ドルの鉱石ラジオを発売。これを使えば、コンラッドの放送を楽しめると銘打って売り出しました。
 コンラッドの人気に、ウェスティングハウス社の副社長ハリー・デイヴィスも注目しました。そしてコンラッドに命じて、同年11月2日、世界初の商業ラジオ放送局であるKDKA局を開局させたのです。

 アメリカは空前のラジオ・ブームに包まれました。

 1920年の時点で、アメリカには1万5000台のラジオの受信機が存在しました。それが1924年には500万台になり、530のラジオ放送局がしのぎを削るようになりました。ラジオを「放送したい人」に比べて、「聴きたいだけの人」は驚くほど多かったのです。
 ホビイストの手で世界が変わったという点で、ラジオの歴史はパーソナル・コンピューターの歴史によく似ています(歴史の順番からいえば、「パソコン誕生の歴史がラジオ誕生によく似ていた」と言うべきでしょうが)。

 アマチュア時代のコンラッドは、ハミルトンという音楽店と契約を結び、店の名前をラジオで紹介する代わりにレコードを無料で借りていました。ラジオはその誕生以前から、いわば「広告ビジネス」だったようです。
 この広告を主体とするビジネスモデルは、第二次世界大戦後に爆発的に普及するテレビ放送にも受け継がれました。本格的なテレビ放送が始まったのは、アメリカでは1939年[281、日本では1953年でした[29]。
 1985年生まれの私は、おそらくテレビがマスメディアの王様として君臨していた時代を知っている最後の世代になるでしょう。小学生時代の私はテレビっ子で、毎日何時間もブラウン管の前に座っていました。天気予報番組の画面の端っこにチラリと自分の姿が映っただけで、家族や友人に自慢話として披露できる時代があったのです。
 しかし中学生になると、私はテレビをほとんど見なくなりました。
 実家にパソコンが届き、インターネットに接続されたからです。

インターネットの歴史

 1945年7月、『アトランティック・マンスリー』誌に「As We May Think(我らの考えるがごとく)」と題された記事が掲載されました。著者はMITの科学技術者ヴァネヴァー・ブッシュ。このエッセイの中で、ブッシュは「メメックス」という装置のアイディアを披露しました。それは、いわば何でも知識を引き出せるマシンです。卓上サイズの装置に、文書を転写したマイクロフィルムを大量に保存しておき、どんな情報でも調べられるようにするという構想でした[30]。彼のアイディアがインターネットの「ハイパーテキスト」として実現するまでに、それから半世紀を要しました。
 1960年、ジョゼフ・C・R・リックライダーが『人間とコンピューターの共生』という論文を発表しました[31]。地理的に分散したコンピューター間でネットワークを構築するというアイディアは、この論文の中で初めて具体化しました。1962年、アメリカ国防総省ARPA(※Advanced Research Projects Agency/高等研究計画局)のIPTO(※Information Processing Techniques Office/情報処理技術部)部長に任命されたリックライダーは、アイディアの実現に乗り出します。のちに「ARPAネット」と呼ばれるネットワークの開発にゴーサインを出したのです。

 この計画を完遂したのは、1963年にMITで博士号を取得したばかりのラリー・ロバーツでした。1966年に計画を引き継いだとき、彼には解決すべき課題が大きく3つありました[32]。

①コンピューターを1対1で接続するだけでは、通信線が指数関数的に増えてしまうこと。
 たとえば2台のコンピューターを繫ぐだけなら、通信線は1本で済みます。3台を繋ぐなら3本です。しかし4台を相互に接続しようとすると、必要な通信線は6本。5台なら10本です。当時のARPAに存在した17台のコンピューターを結ぶには、136本の通信線が必要でした。世界中のコンピューターをすべて1対1で接続するのは現実的ではありません。

②通信線の利用時間よりも待機時間のほうが長くなり、不経済であること。
 タイムシェアリングの問題と同様、人間のユーザーが考えたりキーボードを打ったりしている時間は、通信回線は何の情報も伝達していない「待ち時間」になってしまいます。地域の電話回線ならともかく、長距離の高速回線ではこれは大問題でした。高額の利用料を支払いながら、通信容量の2%以下しか生産的に使えないのでは話になりません。

③コンピューターの仕様がメーカーやモデルごとに違ったこと。
 当時すでにIBMのSystem/360が登場していましたが、「OS/360」の開発が大変な難産になっていることが知られていました。ネットワークに接続するために地球上すべてのコンピューターのOSを書き換えるというのは、誰の目から見ても不可能でした。
 じつのところ、①②の解決策はすでに存在しました。それは電信から着想を得た「ストア・アンド・フォワード・パケット交換」という概念です。(※1961年にランド社のポール・バランが提唱。1965年にはイングランドの国立物理学研究所で、バランとは独立にドラルド・デイヴィスが再発明した。)
 たとえばニューヨークからサンフランシスコに電報を送付する場合、途中でシカゴやロサンゼルスの中継局を経由します。中継局で働く電信技手たちは、まず届いたメッセージを紙に書き出して記録し、それを別の電信技手が目的地に向けて送信するという作業をしていたのです。回線が混み合っているときでも、中継局でメッセージを保存(ストア)して、回線が空くのを待つことができました。さらに、もしも迂回路となる別の中継局への回線が空いていた場合、そちらを利用して目的地に送信することもできました。この方法なら、メッセージが届かないとか、あるいはメッセージの一部が失われてしまうというリスクを最小限にできます。
 同様に、コンピューターから送信するデータを「パケット」と呼ばれる小単位に分割(※パケットの1つひとつが、1通の電報に相当する。)して、それを中継局となるコンピューターを経由して目的地のコンピューターまで届けて、到着先で1つのデータとして組み立て直せばいい――。これが、ストア・アンド・フォワード・パケット交換の発想です。この方法なら、通信線の本数は最小限で済み、なおかつ高い稼働率を維持できます。ロバーツたちは、電信でいえば中継局にあたる場所を「ノード」と呼びました。

 残る問題は③、仕様の違うコンピューター同士をいかにして繫げるか、でした。

 1960年代後半はミニコンピューターの普及期であり、これがロバートを助けました。まずは同じ仕様のミニコンピューター同士でネットワークを作ればいい、と閃いたのです。メインフレームをネットワークに繫ぎたければ、そのミニコンピューターと接続するための専用アプリケーションを作るなり、システムに軽微な修正を加えるなりすればいい――。この方法なら、全世界のコンピューターのOSを書き換えるよりもはるかに簡単です。
 このパケット交換専門のミニコンピューターを、ロバーツのチームはIMP(※Interface Message Processor)と名付けました。これは現代でいえばルーターにあたる装置です。ネットワークの各ノードに、IMPを設置していったのです。IMPに接続される(主にメインフレームの)コンピューターは「ホスト」と呼ばれました。
 1970年には4つのノードからなるネットワークが稼働しました。1971年の春までに23のホストがネットワークに参加しました。かくして、インターネットの原型である「ARPAネット」が誕生したのです。

「インターネットは冷戦中に、核攻撃で通信途絶するのを防ぐために生まれた」という逸話をしばしば耳にします。しかし、これは少し言い過ぎのようです。
 リックライダーやロバーツたちがコンピューター・ネットワークを開発した第一の動機は、軍事目的ではなく経済性でした。先述の通り、当時のコンピューターは極めて高額だったため、できる限り24時間休みなく稼働させておきたかったのです。
 ネットワークによってコンピューターにアクセスできるユーザーが増えれば、そのぶん稼働時間を増やせます。たとえばアメリカは東海岸と西海岸で数時間の時差がありますが、西海岸の始業前に西のコンピューターを東海岸の研究者が利用する(逆に東海岸の終業後には東のコンピューターを西海岸の研究者が利用する)といった運用も可能になります。
 一方、核戦争をまったく視野に入れていなかったわけでもなさそうです。IMPの筐体は頑丈に作られており、開発者の1人ボブ・カーンの証言によれば「核爆発の熱線や衝撃波を受けても、絶対にIMPが壊れないことを第一に考えた」そうです[33]。

コンピューター・ネットワークの成長

 コンピューター・ネットワークの開発者が予想していなかった現象の1つに、電子メールの人気がありました[34]。手軽にメッセージをやりとりできる新しい媒体に、ユーザーたちは夢中になったのです。1975年の時点で1000人を超えるユーザーが電子メールを楽しんでいました。当時のユーザーの大半は高い教育を受けた研究者だったにもかかわらず(あるいは、だからこそ?)効率を優先した短い電文体のメールのせいで相手を怒らせてしまう……といった問題も生じたようです。ネットワーク上でのマナー、すなわち「ネチケット」が自然と発達していきました。
 コンピューター・ネットワークという新しい技術に、既存の企業も素早く反応しました。IBMの「SNA(※Systems Network Architecture)」やDECの「DECNET」のように独自のネットワークで顧客を囲い込もうとしたのです[35]。しかしこれは、ネットワークが「ネットワークであること」の利点を損なうやり方です。
 ネットワークの価値は、参加者の数に依存します。これを「ネットワーク外部性」と呼びます。たとえば加入者が1人しかいない電話回線には価値がありません。誰にも繫がらないからです。加入者が増えるほど、通話できる相手の数も増えて、ネットワークそれ自体の価値が高まります。
 コンピューターのネットワークも同様です。企業ごとの閉じたネットワークではなく、相互(インター)ネットワークであることで、価値を最大化できるのです。
 ARPAの研究者たちも、このことを早くから認識していました。そこでネットワークに繫ぐための共通規格(プロトコル)として「TCP/IP(※Transmission Control Protocol/Internet Protocol)」を開発。このプロトコルが、速やかにインターネットのデファクト・スタンダードになっていきました。

 とはいえ、1980年の時点でインターネットのホストは200に満たず、4年後でも1000にすぎませんでした。インターネットが爆発的に普及するためには、まだ足りないピースがあったのです。

 ところで、同時期のヨーロッパや日本では、政府の支援で独自の情報ネットワークの開発が試みられていました。中でも比較的成功したものが「ビデオテックス」という技術です[34]。
 1976年にイギリスの国営企業ポスト・オフィス・テレコミュニケーション(※現在のブリティッシュ・テレコム。)が『プレステル』という情報サービスのパイロット版を開始。これを皮切りに、ドイツの『ビルトシルムテキスト』、カナダの『テリドン』、日本の『CAPTAIN』などの各国のビデオテックス・サービスが始まりました。しかし大抵の国で、期待されたほどの成功は収めませんでした。
 唯一の例外はフランスの『ミニテル』です。
 フランス政府は1983年から1991年にかけて、じつに500万台以上のミニテル専用端末を配布したのです。これは9インチのモノクロモニターにキーボードが付属したもので、いわば無料の電話帳として利用可能でした。これほどの数の端末が出回ると「ネットワーク外部性」が生じます。ミニテルで楽しめるコンテンツに需要が生まれたのです。ニュースやスポーツ、天気、旅行、ビジネス、さらにはアダルトチャットに至るまで、様々な情報をミニテルから利用できるようになりました。
 一方、アメリカでは商用ネットワークが花開きました。その筆頭は、1969年からタイムシェアリング・サービスを提供していた『コンピュサーブ』です。1980年代には最も成功した商用ネットワークとなり、1987年に『NIFTY-Serve(ニフティ・サーブ)』の名前で日本に進出[35]しました(※1986年に設立された日本企業のエヌ・アイ・エフと提携し、1987年4月15日よりサービス開始。エヌ・アイ・エフは1991年4月にニフティ株式会社に改称した[36]。)。
 記憶されている読者も多いであろう、パソコン通信の全盛期が始まりました。

 ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)は1990年に、CERN(※Conseil Européen pourla Recherche Nucléaire/欧州原子核研究機構。)の研究者ティム・バーナーズ=リーと、ロベール・カイユーによって発明されました[37]。
 1970年代の半ば、バーナーズ=リーは「ハイパーテキスト」に興味を抱き、CERNでの業務の空き時間に『エンクワイア』と名付けたプログラムを開発しました。一般公開されなかったものの、のちのWWWの基礎となるプログラムです。しかし彼は一旦イギリスに帰国し、研究職からは離れました。
 1984年にバーナーズ=リーはCERNに復帰。同僚のベルギー人ロベール・カイユーの協力を得ます。1989年、2人はWWWの正式な提案書を提出しました。
 1990年12月20日、バーナーズ=リーとカイユーは世界で最初の「ウェブサイト」をアップロードしました。この時点では、CERN内部のみの実験的な公開でした[38]。さらに1991年8月6日、それを全世界に公開しました[39]。
 もしも〝インターネット時代〟が始まった記念日を選ぶとしたら、この日でしょう。WWWにより、ハイパーテキストのリンクを踏んでネットサーフィンを楽しむことが可能になりました。WWWはマルチメディアに対応していたことも強みでした。文章だけでなく、画像や映像、音声もインターネット経由で利用できるようになったのです。以後30年以上におよぶインターネットの華々しい発展の種が、この日に蒔かれたのです。「URL」「HTTP」「HTML」――。これらはすべてバーナーズ=リーの発明です。

 インターネットが爆発的に普及するための最後のピースは「ブラウザ・ソフト」でした。
 1990年代初頭、ウェブ上の情報を「拾い読み(ブラウズ)」するアプリケーションが次々に登場しましたが、大抵は学生が殴り書きしたような扱いにくいものでした。
 それらに比べて、1993年に登場した『モザイク』ブラウザは完成度が高く、まるで有償のパッケージ・ソフトウェアのようでした。『モザイク』の開発者はマーク・アンドリーセン。イリノイ大学のコンピューター学科で学ぶ22歳の大学生でした。
 1994年の春、アンドリーセンは起業家のジム・クラークに呼び出されました。クラークの資金提供で会社を興さないかと提案されたのです。1994年4月4日、2人は共同でモザイク・コミュニケーションズ社を設立。数ヶ月後にネットスケープ・コミュニケーションズに社名を変更しました(※モザイクという名前とソフトウェアのライセンスは、すでにイリノイ大学がスパイグラス社に与えていた。)。アンドリーセンとクラークは『ネットスケープ』ブラウザを、非商用目的の個人ユーザーには無償で配布し、法人向けには有償で販売しました。
 1995年8月、ネットスケープは株式を公開しました[40]。公募価格は1株28ドル。これに対して1株58ドルの初値が付きました。

 ネットスケープの不運は、マイクロソフトの存在です。
 ウェブブラウザ『インターネット・エクスプローラー』が、『Windows 95』に無料で同梱されるようになったのです。この件でマイクロソフトは独占禁止法の違反を問われて米国司法省に訴訟を起こされました。しかし、日進月歩の情報産業に対して、裁判の進行は遅すぎました。結局、ネットスケープがシェアを奪い返すことはなく、会社は解散の憂き目を見たのです。


(次回、「インターネット時代」編に続く)
(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の第15回です)

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この連載が書籍化されます!6月4日(火)発売!

※※※参考文献※※※
[1] グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』(日経BP社、2009年)下巻P.116-119
[2] 高槻泰郎『大阪堂島米市場 江戸幕府vs市場経済』(講談社現代新書、2018年)P.289
[3] 高槻(2018年)P.291
[4] 高槻(2018年)P.288
[5] 中野明『IT全史 情報技術の250年を読む』(祥伝社黄金文庫、2020年)P.32
[6] 中野(2020年)P.34、P.46
[7] 中野(2020年)P.46-47
[8] 中野(2020年)P.57-60
[10] 中野(2020年)P.52-55
[11] 中野(2020年)P.36-37
[12] 中野(2020年)P.36
[13] ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史』(日経ビジネス人文庫、2015年)上巻P.312-318
[14] 中野(2020年)P.78
[15] 中野(2020年)P.80-82
[16] バーンスタイン(2015年)上巻P.316-317
[17] 中野(2020年)P.83-84
[18] 中野(2020年)P.85
[19] 中野(2020年)P.86
[20] バーンスタイン(2015年)上巻P.318-320
[21]  Martin Campbell-Kelly、William Aspray、Nathan Ensmenger、Jeffrey R. Yost『コンピューティング史 人間は情報をいかに取り扱ってきたか』(共立出版、2021年)P.13-14
[22] 中野(2020年)P.154
[23] 中野(2020年)P.154
[24] 中野(2020年)P.156-158
[25] Campbell-Kellyほか(2021年)P.260
[26] 中野(2020年)P.165
[27] 中野(2020年)P.170-171
[28] 中野(2020年)P.196
[29] 中野(2020年)P.212
[30] Campbell-Kellyほか(2021年)P.319
[31] Campbell-Kellyほか(2021年)P.321-322
[32] Campbell-Kellyほか(2021年)P.322-325
[33] 中野(2020年)P.284
[34] Campbell-Kellyほか(2021年)P.326-328
[35] Campbell-Kellyほか(2021年)P.328-329
[34] Campbell-Kellyほか(2021年)P.309-311
[35] Campbell-Kellyほか(2021年)P.312-314
[36] ニフティ株式会社HP参照(https://www.nifty.co.jp/company/history/)
[37] Campbell-Kellyほか(2021年)P.331-332
[38] GIZMODE「25年前に公開された世界最初のウェブページ」(https://www.gizmodo.jp/2015/12/first-webpage.html)
[39] WIRED「世界発のウェブサイト、WWWの20周年:CERN・バーナーズ=リー・Mosaic」
[40] ポール・E・セルージ『モダン・コンピューティングの歴史』(未來社、2008年)P.353

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